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【やさしい歴史用語解説】「得宗」
- 2023/10/12
まずひも解く必要があるのは、初代執権の北条時政とその次男・義時との関係です。そもそも義時は「北条姓」を名乗ったことはありません。兄・宗時がいたことで「江間姓」を称していましたし、父・時政と後妻・牧の方の間に政範が生まれたことで、義時が北条嫡流を継ぐ可能性はゼロだったのです。
ところが政範が若くして亡くなったことで、事態は思わぬ方向へ進みます。時政が後継者として指名したのは義時の次男・朝時でした。のちに時政は陰謀を働いたかどで鎌倉を追放されるのですが、朝時が嫡流を継ぐ件はそのままとされるのです。
やがて義時が亡くなると、3代執権として泰時が就任しました。とはいえ、泰時も「北条姓」を名乗ることはなく、江間泰時で通していたそうです。あくまで嫡流は弟である朝時だったからですね。
いわば分家が幕府の実権を握り、本家がその下に存在するという不思議な現象が起こりました。
ちなみに時政以前の北条氏については史料が少なく、どんな一族だったのか定かではありませんが、これ以降の北条氏は多くの分家を輩出し、一族は繁栄していきました。朝時の家系は「名越流」となり、他に「大仏流」や「金沢流」といった支流が見られます。
また義時・泰時の家系が「得宗家」と呼ばれ、分家がそれを支える形となりました。ちなみに朝時から発する名越家が、分家の中で最も家格が高かったとされています。
本来は嫡流が「名越家」で庶流が「得宗家」のはずが、いつしか立場が逆転してしまった感じでしょうか。そのような事情から、歴代の名越家当主は得宗家に対して極度のコンプレックスとライバル心を抱いていたようです。
泰時と不和だった朝時は反執権派のリーダー格となりますが、泰時が亡くなる直前に出家を命じられました。泰時の孫・経時はまだ年も若く、朝時によるクーデターを阻止するつもりだったとされています。
また朝時の跡を継いだ名越光時は、前将軍・九条頼経と謀って政権転覆を試みたとして伊豆へ配流となりました。この時に江間へ流されるのですが、嫡流から庶流へ落ちぶれたうえに皮肉にも江間姓を名乗ることになります。
さらに8代執権・北条時宗は、長く続いた名越家との抗争に終止符を打つべく「二月騒動」を自作自演します。つまり、名越家の当主・時章と教時兄弟に謀反の罪を着せ、これを粛清することでした。
邪魔者を排除した時宗は蒙古襲来に専念することができ、かつ得宗専制体制を築き上げます。
ところが鎌倉時代末期になると、土地相続の細分化による御家人の窮乏を救うことが出来ず、得宗政治は徐々に信頼を失っていきました。そして後醍醐天皇の倒幕運動に端を発した反乱により、幕府そのものが倒れてしまうのです。
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