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【やさしい歴史用語解説】「日本刀」
- 2022/02/07
日本刀の歴史はかなり古く、そのはじまりは平安時代までさかのぼります。古来から剣は権威の象徴でしたが、実用的な鉄刀(てっとう)も多く製造されました。やがて平安時代中期になると武士の台頭に伴い、本格的な日本刀が作られ始めました。
当時の武士は騎乗したまま戦うため、抜刀しやすくて上から振り下ろしやすい刀剣が求められました。そこで反りが強く、刃長の長い刀が誕生したようです。これが太刀と呼ばれるもの。
やがて武士の世の中になると、刀剣の需要もますます高まりました。また優秀な刀鍛冶が登場し、砂鉄が摂れた出雲や備前だけでなく、政治文化の中心だった京都周辺や大和国で多くの刀工が集まったといいます。
包平(かねひら)や安綱(やすつな)、宗近(むねちか)など、聞いたことがある方も多いのでは?
ちなみに大和・山城・備前・相模・美濃という5つの地域に伝わった作刀の技法を「五箇伝(ごかでん)」と呼びますが、これ以降に作られたものが真の意味での日本刀だとされています。
鎌倉時代に入ると日本刀はいよいよ黄金期を迎えました。後鳥羽上皇は優秀な刀工を集めて名作を生み出し、鎌倉幕府は元寇の脅威に対処するため刀工たちを相模へ集めたといいます。
この頃には天下五剣に入る鬼丸国綱(おにまるくにつな)や数珠丸恒次(じゅずまるつねつぐ)が作られました。
さらに鎌倉時代後期には伝説の刀工「正宗」が登場します。美しさとともに、扱いやすさや強靭さを追い求めた素晴らしい品質は、日本刀の歴史の中でも最高傑作を生み出したと言えるでしょう。
南北朝期から戦国時代にかけて戦いが常態化した頃、日本刀に大きな変化が見られるようになります。軽くて片手で持つことができ、足軽でも扱いやすい打刀(うちがたな)が登場しました。また大量生産に向いており、数打(かずう)ちと呼ばれるほど普及したといいます。
江戸時代になって泰平の世になると、日本刀の需要はめっきりなくなって刀工も数を減らしていきます。
しかし幕末に日本刀の需要が増すと、製鉄技術の進歩や洋鉄の輸入によって実戦向きの日本刀が作られました。土方歳三が持っていた和泉守兼定(いずみのかみ かねさだ)などが代表例にあたるでしょうか。
しかし武士の世が終わると、またしても日本刀は受難の時代を迎えます。それが明治9年に布告された廃刀令でした。日本刀の需要は皆無となり、多くの刀工や刀鍛冶が仕事を失ったといいます。また長い伝統を培ってきた「たたら製鉄」も製鉄の洋式化にともなって途絶えてしまいました。
戦時中に軍刀の需要が高まったことで、日本刀は一時的に復興を遂げますが、終戦とともに完全に衰退。材料の玉鋼も底をついてしまいました。とはいえ失われた技術を取り戻そうと、たたら製鉄の復活を目指す動きが高まっています。
ちなみに太刀は佩(は)く、日本刀は差すとされており、太刀は腰から吊るすもの、日本刀は腰に差すといった具合に差別化されていますね。戦国武将などは普段は日本刀を腰に差し、合戦になると太刀を佩く者が多かったとか。
また刀工は大事な依頼を受けた際、複数の刀を製作することが多かったそうです。その中で最も出来の良い物を「真打ち」として依頼主に納め、手元に残したものを「影打ち」と呼びました。また銘を打つのは真打ちのみで、影打ちには銘を入れなかったそうです。
現在でも無銘でありながら名刀とされる刀があるのも、そんな影打ちの刀だったのかも知れません。
ちなみに落語の世界で「真打に昇進した」というニュースがたびたび流れますが、その語源は「もっとも出来が良い刀」という意味になぞらえたともいいます。
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