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【やさしい歴史用語解説】「米市場」
- 2023/02/17
江戸・大坂・京都をはじめ、全国の主要都市を中心に米市場が展開されましたが、もっとも繁栄を誇ったのが大坂の「堂島米市場」です。
明治になると「堂島米会所」と呼ばれました。当時、諸藩が年貢として集めた米は大都市へと運ばれましたが、特に大坂中之島周辺の蔵屋敷へ納められた米は莫大な量だったといいます。
当初、米の取引は土佐堀川沿いの北浜でおこなわれていました。この「北浜米市」の運営の中心となったのが、豪商・淀屋であったことから「淀屋の米市」とも称されています。ところが元禄年間になると、交通の妨害になることや、開発された堂島新地の振興策として、米市場は堂島へ移されることになりました。
こうしてスタートした堂島米市場ですが、享保年間から特筆すべき二つの取引方法が採用されています。
一つは「正米商い」といって米を米切手で売買する現物取引、そしてもう一つは、「帳合米商い」という米の銘柄を帳面上で売買する先物取引でした。
これは日本における商品取引所の起源とされ、世界的に見ても先物取引所の先駆けとして広く知られています。
米を先物で取引する場合、大きなメリットがありました。米の価格は天候などで常に変動しますから、米を買いたい人にとって、収穫時期より前に買付け価格を決めたいところです。そこで収穫前の7月や8月に売買しようと生まれたのが先物取引でした。
もちろん天候によって価格は上下しますから、安いと思って買っても下がることはあるでしょう。しかし「買い」だけでなく「売り」の売買も可能ですから、ある程度のところで売ってしまえば最小限の損で済み、価格が底のところで買い直せば良いだけです。
こうした取引によって、収穫前にあらかじめ損益を確定させておくことが可能となります。現代では、このような取引を「ヘッジ取引」と呼んでいますね。
とはいえ現代でも同じですが、先物価格は絶えず変動するもの。商人たちは常に米価を気にしていました。そこで堂島米市場で形成された米価は、飛脚や旗振りなどによって素早く各地へ伝えられたといいます。
堂島の米相場は、すなわち各地の米相場の基準となりました。
現在でも奈良や神戸には「旗振山」と名付けられた山が存在します。これは堂島米市場で成立した米価格を素早く知らせるため、「旗小屋」があった名残なのだそうです。
やがて堂島米市場で培われた取引制度や慣習の多くは、明治以降の商品・証券・金融先物取引所へと受け継がれました。
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