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【やさしい歴史用語解説】「年貢」
- 2024/01/09
一般的に、領主が百姓から収納した貢租(税)のことを「年貢(ねんぐ)」と呼んでいます。
日本は古くから稲作が盛んだったことから、やはりメインは ”米” による徴収となっていました。労働による奉仕や貨幣による代納こそありましたが、日本は明治に至るまで米に頼った財政基盤となっていたようです。この記事では主に江戸時代における年貢についてみていきたいと思います。
ちなみに戦国時代の大名は、自分の直轄地以外の土地から年貢は徴収できません。あくまで家臣に与えた土地ですから、大名であろうと介入することはできなかったようです。ではどのように財政を賄っていたのか?実は領内にある田の面積に応じて段銭を取り、家屋に応じて棟別銭を徴収していました。これが戦国大名の主な財源となっていたのです。
やがて時代が下ると、全国的な検地が実施され、正確な米の取れ高が明らかとなってきます。江戸幕府もこれを踏襲し、米による年貢を主な税収源としました。
江戸時代の年貢率は「五公五民」が一般的とされますが、詳しく見ていくと決してそうではありません。沖積地にあって収穫が多い田もあれば、荒れ地を開墾したばかりの収穫が少ない田もあります。あらかじめ田には等級が決められていて、収穫高に応じた年貢率が決まっていました。
また、年貢は農民個人が納めるものではなく、「村請制」といって村落でまとめて収納するのが一般的です。実際に村全体の石高が集計されると、そこへ課せられる年貢額が決定されました。そして村役人が農民それぞれの年貢高を計算して納入させていたようです。
ところが農民個人が死亡や病気などで耕作が不可能になると、その分が減免されるわけではありません。あくまで年貢高の数字は変わりませんから、同じ村落の農民が代わりに田を耕していました。
年貢の取り方については「検見法」と「定免法」の二種類があります。当初は毎年の作柄を確認し、米がどれだけ取れるのかを調査したうえで年貢率を産出する「検見法」が採用されていました。
しかし江戸時代中期の享保年間になると、新田開発が進んだことで従来の検見法では手間が非常に掛かることがわかってきました。そこで採用されたのが定免法です。
過去数年間の年貢高を平均して算出するわけですから、領主からすれば固定した年貢を徴収できるメリットがあります。また農民側も豊作で収穫高が増えれば自分の物になりますから、これも願ったり叶ったりでした。
しかし飢饉が発生した時は大変です。否応なく決まった分の年貢が徴収され、これが東北地方における餓死者の続出に拍車を掛けたといいます。
いっぽう気候が温暖な地域では、定免法は農民にとって強い味方となりました。米を作らない時期には裏作や二毛作が出来ますし、年貢以外の米を販売用として回すことも可能だったからです。
とはいえ、定免法によって農民全てが豊かだったわけではありません。地域によって格差はありますし、何より農民層に身分制が浸透していたことで、富める者と貧しい者の格差が存在していたからです。
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