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「五街道(ごかいどう)」とは、江戸時代はじめに整備された街道の総称です。そもそも江戸幕府が一から造った道ではなく、古くから存在した道を整備・拡充したに過ぎません。また、当初の目的も旅人の利便性を図ったものではなく、あくまで幕府が用いる軍道としての面が強かったようです。すなわち謀反を起こした大名を討伐するための軍用道路だったわけですね。
そんな軍道だった痕跡はいくつも見られます。例えば宿場町を守るために見附(いわゆる監視所)が設けられていたり、わざと道を屈曲させて通りにくくしてみたり、とにかく軍事的な側面が見受けられますね。
さて「五街道」とは以下の街道を指します。
とりわけ東海道のにぎわいは他の街道の比ではありません。現在でも新幹線がひっきりなしに行き来するように、人と物資の往来が頻繁だったようです。しかし起点と終点を同じくする中山道も人気がありました。
なぜなら東海道は平坦な割にいくつもの大河を渡らねばなりません。また幕府の方針で橋を架けることは禁じられていました。ただでさえ渡りにくいのに川が増水するだけで川留めされ、何日も足止めを余儀なくされたそうです。
ところが中山道の場合、いくつもの峠や難所を越える厳しい街道ではあるものの、川幅も狭くて渡りやすく、意外に橋も多く架かっていたといいます。日数は掛かるにしても旅程の計算がしやすく、旅の経験者になるほど中山道ルートが好まれたとか。ちなみに京都から江戸へ降嫁してくる皇室の姫たちも中山道を使ったことから、姫街道とも呼ばれています。
ところで五街道といえば「宿場(しゅくば)」は外せません。これも本来は幕府公用のために、人足や伝馬を一定数常備させる目的がありました。また、臨時の荷物運搬の要がある時は、近郷の村々までが輸送を手伝ったといいます。これは「助郷制度」と呼ばれていますね。
江戸時代後期になると、庶民の旅行がブームとなり、それぞれの街道は大変なにぎわいを見せました。また、旅人が泊まる宿も充実し、現在見られる旅館の原型が出来上がっていくのです。
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