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【やさしい歴史用語解説】「飛脚」
- 2023/03/24
現在のように交通機関やインフラが発達していない時代、信書の輸送は人間の力に頼るしかありませんでした。それを担った者のことを「飛脚(ひきゃく)」といいます。
古代・中世
古くは奈良時代に、山陽道や東海道をはじめ五畿七道が整備されて駅伝制が敷かれますが、あくまで国益のためであって、国民の利便性を図ったものではありません。やがて中世になると、畿内を中心に馬借や車借という輸送業者が登場し、ちょっとした手紙や荷物なら運んでくれたようです。しかし社会のニーズを満たすには程遠いもので、本格的な「飛脚」が現れるのは江戸時代を待たねばなりません。
江戸時代
そして江戸時代、いよいよ飛脚という商業形態が誕生します。五街道と脇街道の宿駅制が定められたことで、人の行き来がスムーズになったためです。飛脚といっても形態がいくつかあり、まず代表的なものが幕府公認の「継飛脚」でしょうか。これは宿駅ごとに飛脚を立て、幕府の公文書など重要な文書を運ぶためのもの。リレー形式でバトンタッチしていきますから、とにかく速いことがウリでした。各地に設けられた関所もスルーできますし、もし大名行列と行き違えば、道を譲るのは大名の方だったとか。
次に諸藩が用いた「七里飛脚」です。これも一般庶民が利用することはできませんが、幕府公認で設けられたものです。もし藩内で火急の用向きがあった際、これもリレー形式で飛脚を継いでいきました。街道の七里ごとに置かれたことから、この名が付いています。
そして民衆レベルで利用可能な飛脚が「三度飛脚」でした。江戸と大坂を月に3度往復したことから名付けられましたが、当初は輸送料金がべらぼうに高かったそうです。元々は大坂城代や奉行所が利用していたのですが、いつしか一般庶民の手紙も運ぶようになりました。
ところが庶民にはなかなか手が出ない金額だったこともあり、裕福な商人しか利用しなかったといいます。とはいえ大都市で飛脚業者が徐々に増えていき、それなりに価格競争が起こるようになってから、ようやく庶民でも利用しやすい家格に落ち着きました。
ただし街道の宿駅は公儀が管轄すべきところ。公用ではない文書や荷物は取り扱えなかったそうです。そこで飛脚業者たちは表向きには公用と称し、密かに民間のものを紛れ込ませていたそうです。あくまで民衆の利便性を関わることですから、幕府もこれを黙認していました。そんな事情もあり、江戸時代を通じて飛脚業者は爆発的に増えていくのです。
明治以降
やがて明治時代に入ると、飛脚という仕事は急速に姿を消していきました。近代化と西洋化を目指す新政府にとって、前時代的な飛脚は古臭いものと映ったのでしょう。やがて前島密が国営の郵便事業を提唱して実現の運びになると、飛脚業者は次々に廃業していきました。しかし飛脚たちの魂は現代の輸送業者へと受け継がれ、日本のロジスティクスをしっかり支えているのです。
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