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【やさしい歴史用語解説】「鉄甲船」
- 2022/03/03
「鉄甲船(てっこうせん)」と呼ばれたこの船ですが、通説では敵の焙烙火矢や鉄砲の玉を通さない構造だとされ、鉄板で覆われた船だとされてきました。
奈良興福寺の僧が書いたとされる『多聞院日記』では、鉄甲船の長さは23メートルあったとされ、堺へ入港すると盛大にお披露目されたといいます。
船を鮮やかな幟(のぼり)や指物で飾り、来賓として近衛前久などの公家、有力大名、堺の会合衆らが招待されました。そして天正6年(1578年)7月に起こった毛利水軍との戦いでは、自慢の鉄甲で攻撃を寄せ付けず、逆に大砲をぶっ放して追い払うことに成功しました。
ところが最新研究や実験などによって、その実像が大きく見なされているのです。
もし3ミリ程度の鉄板で船を覆ったとしても復元力が不足し、ちょっとした波でも転覆する恐れがあること。そして船を進めるための凌波性が極端に低下し、鈍重な動きしかできなくなってしまうことが挙げられます。
こうした点からも、船の重要な部分にしか鉄板を貼っていなかったのでは?という結論が導き出されるのです。当時の日本船は櫓で漕ぐのが一般的ですから、あまりに重すぎると機敏に動くことはできません。もし鉄を貼る面積が限定的なら、そういった問題は解決できるわけです。
いっぽう最新研究では、南蛮船と同じ形状だったという説も出ています。
大きな帆を幾重にも張ると動きは軽快になりますし、船体を大きく造ることも可能でした。そして大砲や長銃を備えることで、毛利水軍を一切寄せ付けない弾幕を張ることが可能となるのです。
新しいものが大好きな信長のことですから、南蛮船のコピーを作るなど簡単なことでしょう。多額の費用が掛かる鉄甲船を造るより、遥かにコストパフォーマンスが良かったはずです。
それでも毛利水軍の侵入を完全には止められなかったらしく、一部の毛利船が上陸して大坂本願寺に兵糧を運び入れています。海を守る難しさを信長も痛感したのではないでしょうか。
その後、鉄甲船に関する記録は一切途絶えてしまいます。用済みとなって解体されたのか?それとも違う用途で使用されたのか?そのあたりは不明ですが、天正12年(1584年)に起こった「小牧の役」では、九鬼嘉隆が鉄甲船らしきものを運用しています。しかし信長時代のものという確証はありません。
建造者である九鬼嘉隆は、その後も大船を造っています。これが朝鮮の役に参戦したという「日本丸」でした。日本艦隊の盾となって朝鮮水軍の攻撃を一身に受け、それでも沈まなかったほど強い船だったといいます。
ちなみに琵琶湖の竹生島にある宝厳寺には「舟廊下」という重要文化財があり、解体した日本丸の船体を流用したものではないか?とされています。
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