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【やさしい歴史用語解説】「元服」
- 2023/01/24
もともとは中国古代の儀礼に起源を持ち、おそらく古代になって日本へ伝えられたものでしょう。『聖徳太子伝暦』では、聖徳太子が19歳にして加冠の儀式を執り行って朝議に加わったとありますし、『続日本紀』には聖武天皇が皇太子として元服したと記録されています。
元服という言葉の「元」という文字は「頭」を指し、「服」は「冠」や「服装」を表しますから、子供の髪型を成人のものに改め、「初めて冠をかぶること」を意味しました。
皇族や公家の元服は冠をかぶることだったのに対し、武家の場合は時代が下るにつれて烏帽子を着用しました。このときに烏帽子を男子にかぶせる役目を「烏帽子親」と呼びますよね。
元服する年齢についてですが、皇族の場合だと、天皇は11歳から15歳までを限度とし、皇太子は11歳から17歳までに行われたようで、親王もこれに準じていました。
しかし公家や武家の場合ではまちまちだったようです。太政大臣となった洞院公賢は5歳で元服していますし、源義家もまた7歳で加冠の儀式をおこなっています。
そうかと思えば足利義教のように35歳で元服したケースもありました。とは言っても義教の場合は幼くして僧籍にあったことから、将軍に就任する際に改めて元服したものと思われます。
また元服に伴い、それまでの幼名を廃して実名を名乗るようになりました。烏帽子親から一字をもらって「烏帽子名」を名乗ることもあったようです。
やがて元服は時代とともに簡略化されるようになり、前髪を切って月代にするだけの露頂が一般的となります。近世の元服では烏帽子をかぶらないことがほとんどだったそうです。
ちなみに女子の場合、元服の代わりに「裳着」という儀式がありました。平安時代の貴族社会で行われたそうですが、十二単の一つである「裳」を着ける儀式のことです。
裳着が行われる年齢は、おおむね12〜14歳頃だとされ、この儀式を行うことで結婚の資格を得たことを意味したそうです。裳着の儀式が終わるとすぐに結婚というケースが多かったとも。
ところで「元服」は皇族や公家・武家だけのものではありません。中世には庶民層にまで広がり、数え年で12~15歳頃の男子が儀式を執り行っていました。もちろん烏帽子親に烏帽子をかぶせてもらうわけですが、時として土地の領主がその役目を担うこともあったようです。また烏帽子を着用すると同時に、腰に刀を差す「刀指」という帯刀の儀式もありました。
しかし庶民の元服も近世には簡略化されていきます。前髪を剃り落とし、月代を作って本多髷にするのを元服としたそうです。また女子に関しては、それまでの振袖に変えて留袖を着ることが成人の証とされました。
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