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蘇我氏の出は祖先となる武内宿禰が関わる邪馬台国だった?
- 2023/05/26
『古事記』や『日本書紀』などの歴史書には邪馬台国の記載はありません。その理由としては、当時のヤマト王権にとって邪馬台国は不都合な存在だったから。そこで疑わしくなるのが、飛鳥時代における蘇我氏と藤原氏との対立です。
当時は権力を欲しいままにした蘇我氏ですが、最後は藤原氏に滅ぼされてしまいます。権力の座に就いた勝者の藤原氏が敗者の蘇我氏の歴史を抹消したのでしょうか。ここでは、蘇我氏の祖先とされる武内宿禰(たけのうちのすくね)の地盤について考察してみます。
当時は権力を欲しいままにした蘇我氏ですが、最後は藤原氏に滅ぼされてしまいます。権力の座に就いた勝者の藤原氏が敗者の蘇我氏の歴史を抹消したのでしょうか。ここでは、蘇我氏の祖先とされる武内宿禰(たけのうちのすくね)の地盤について考察してみます。
蘇我氏が主力だった邪馬台国
飛鳥時代に大和王権の権力の地位にあったのが蘇我氏一族でした。その後、藤原氏に滅ぼされてしまう蘇我氏ですが、彼らは日本列島のどこを地盤にしていたのでしょうか? その答えが見つかれば、蘇我氏一族が主流だった邪馬台国がどこにあったかの根拠となることでしょう。『古事記』や『日本書紀』などの歴史書は、藤原氏によって新たに変遷されたもの。藤原氏が主力の大和王権にとって、蘇我氏の出身地だった邪馬台国は邪魔な存在になり、消し去りたかったことでしょう。邪馬台国や卑弥呼の文字が完全に消し去られた理由はそこにあります。
蘇我氏の先祖とされる武内宿祢
蘇我氏の奈良時代以前の系譜は、『日本書紀』や『先代旧事本紀』などに僅かに残されているのみです。これらの記載を丸々信用できないのですが、蘇我氏がどの地域を地盤にしていたのかを読み取るため、とりあえずそのまますすめていきます。蘇我氏の先祖は、武内宿禰(たけのうちのすくね)とされています。熊襲征伐や三韓征伐で活躍した英雄ですね。景行から仁徳までの5代の天皇に仕えた伝説上の人物。『日本書紀』の記述を信用すれば、なんと200歳以上。神話の人物でしょうか。大和王権の中では大臣として天皇をサポートする重要な役職でした。武内宿禰の末裔には、蘇我氏の他にも葛城氏などといった大臣を務めた重要豪族も含まれています。
高志の国
第12代 景行天皇に仕えていた武内宿禰は、高志の国(現在の福井県敦賀市から山形県庄内地方の一部に相当する地域)に遣わされています。そのときに蝦夷地を討伐することを天皇に進言しました。古代の蝦夷地というのは、現在の北陸・関東・東北を含む東日本全域で、西日本と東日本に異なる勢力があったことが分かりますね。
天皇に進言した文章の中で注目なのが、高志の国の人々が入れ墨をしているということ。『魏志倭人伝』に記された倭人は入れ墨をしていると記されていますので、蝦夷地の人々を指していたのかもですね。
なお、乙巳の変で自害した蘇我蝦夷は、その名前で分かるように蝦夷地を示していて、武内宿禰の末裔として蝦夷地を地盤にしていたと思われます。
武内宿禰が第14代 仲哀天皇に仕えていた頃には、すでに高志の国に移り住んでいました。位置的には現在の福井県敦賀市のあたりになります。この時、武内宿禰が実質上仕えていたのが、天皇ではなく皇后…つまり神功皇后だったのです。
そしてちょうどこの時期に、九州に反乱が起こり、神功皇后と共に討伐に向かい征伐します。これが熊襲征伐ですね。さらに朝鮮半島に渡って、三韓征伐も成し遂げます。この戦いで仲哀天皇は戦死してしまいましたが、征伐後に神功皇后は男の子を出産、第15代・応神天皇です。
そして神功皇后・応神天皇・武内宿禰の3人は近畿地方に向かいますが、すぐに高志の国に戻り、国政を司るようになりました。ということで、武内宿禰はその後の大半を蝦夷地となる高志の国で過ごしていた事になりますね。
卑弥呼の弟?
神功皇后に関しては、『日本書紀』の神功紀に『魏志倭人伝』からの引用があります。そこで神功皇后が卑弥呼であるという説が出てくるのです。『魏志倭人伝』によると、卑弥呼には夫はおらず、弟がいて国を治めるのを助けていたとあります。当時『魏志倭人伝』の作者には、武内宿禰は卑弥呼の弟として認識されていたのかも知れませんね。
更に神功皇后は、夫の仲哀天皇を若いうちに亡くしていますので、この記述にも一致します。そして事実上、国政を担っていたのが武内宿祢だったなら、これも『魏志倭人伝』の記述と一致するということになりますね。
蘇我氏の血脈
武内宿禰の地盤になるのは高志の国だと分かります。蘇我氏の先祖がこの「武内宿祢」ということですので、蘇我氏が拠点となっていた地も高志の国に決まりですね。この地で蘇我氏の血脈が受け継がれていき、後の時代に大和王権にて権力を手にすることになるのです。蘇我氏一族の先祖とされる武内宿禰から推測すると、このようになりました。武内宿禰だけでなく、大和王権で頭角を現した蘇我稲目から続く蘇我一族は、随所に北陸地方と密接に繋がる根拠が見られます。それは蘇我氏の本宗家だけでなく、蘇我氏の傍系血族にあたる一族にも、武内宿禰の地が流れているのかもしれませんね。
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