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上洛を目指した今川義元と武田信玄の共通点とは
- 2022/09/30
戦国時代の日本で政治の中心だった京都。足利将軍家の弱体化によって、政権を掌握できるチャンスが誰にでもやって来た時代でもありました。京都を目指すことを「上洛」と言い、大規模な軍事行動を起こした戦国大名が、織田信長のほかに2人いました。
1人は今川義元、もう1人は武田信玄。実は、義元と信玄には共通点があったのです。
1人は今川義元、もう1人は武田信玄。実は、義元と信玄には共通点があったのです。
今川義元の上洛
今川義元は、永禄3(1560)年の桶狭間の合戦で、圧倒的兵力差があったのにもかかわらず、織田信長に討ち取られたことで、凡将の汚名をきせられることが多いですが、義元の生涯をたどってみれば、決して凡将ではなかったことがわかります。僧としての人生を歩んでいた義元は、兄の今川氏輝の死去後、後継者として名乗りを上げるため還俗し、家督争いに勝って当主の座をつかみました。北には武田家、東には北条家という強大な大名がいましたが、義元は両家と渡り合えるだけの実力を兼ね備えており、「海道一の弓取り」と称されるほどの武将だったのです。
武田信玄、北条氏康とは、互いの利害関係が一致したことから、甲相駿三国同盟を結びます。北と東の脅威がなくなった義元は、西の尾張に向かって軍事行動を起こします。これが、桶狭間の合戦のきっかけとなった尾張侵攻作戦だったのです。
尾張侵攻は、義元が京の都を目指したのではなく、領土拡大の一環だったという見解もあります。この時の作戦が、何を意図していたのかは分かりませんが、少なくとも義元の脳裏には「いつか上洛する」という宿願があったのだろうと思います。
武田信玄の上洛
武田信玄は、戦国最強と言われた騎馬軍団を率い、元亀3(1572)年に西へ向かって大軍勢を進攻させました。当面の敵は徳川家康ですが、その先にいる織田信長との決戦を目指していたことは言うまでもありません。武田信玄が、北条氏康、今川義元と甲相駿三国同盟を結んだのは、軍事作戦として進行中だった信濃攻略に向け、後顧の憂いをなくすという目的がありました。越後の上杉謙信とのし烈な戦いをへて、ほぼ信濃攻略に成功するのです。
信玄の次の狙いは、義元という強力な支配者を失った駿河で、三国同盟を破って進軍していきました。そのため、北条家とも一度は敵対関係になったものの、氏康の後継者である氏政と同盟を結び直したことで、西に向かう軍事行動が可能となったのです。
そして、元亀3年に満を持して西上作戦を決行します。これは、織田信長に敵対する本願寺や朝倉氏、浅井氏らが将軍・足利義昭と組んだ「信長包囲網」に呼応した軍事行動とも言われています。
結果として、信玄は進軍途上で病に倒れ、元亀4(1573)年に死去します。信玄の進軍は打倒信長のためでしたが、その先には当然「上洛」という目的がありました。そして、上洛後に描いた思いは、かつて今川義元が思っていたことと同じだったのではないでしょうか。
義元、信玄の共通点
今川義元は、不安定だった足利将軍家になり代わり、上洛して将軍になることを思い描いていたとされています。武田信玄も、「京の都に武田の御旗を立てる」との思いが強かったようですので、将軍職を狙っていたのかもしれません。そう推測した理由は、義元も信玄も「源氏」の末裔だったからです。今川家は、南北朝時代に足利尊氏とともに戦った家系であり、さらにさかのぼると、足利家と先祖を同じくし、その祖だったのが八幡太郎と呼ばれた源義家でした。武田家の祖は、源義家の弟にあたり、新羅三郎と呼ばれた源義光です。義光は甲斐源氏の初代とされ、その子孫は鎌倉、室町時代を通し、長く甲斐を支配してきたのです。
今川義元と武田信玄は、約500年前の先祖をたどっていくと、同じ「源氏」であり、しかも八幡太郎義家と新羅三郎義光という兄弟でした。これが、義元と信玄の共通点であり、ほかの有力大名との違いでもあったのです。
おわりに
鎌倉幕府を創設した源頼朝、室町幕府を開いた足利尊氏は、いずれも「源氏」です。戦国時代という下剋上の世とはいえ、それでも血統がモノを言う時代にあって、今川義元も武田信玄も、「源氏」という血統には誇りと自信を持っていたに違いありません。義元は戦いで、信玄は病と、それぞれ異なりますが、上洛を果たすという志半ばでこの世を去りました。時代の歯車が少しでも変わっていたとしたら、「今川幕府」あるいは「武田幕府」という歴史が刻まれていたかもしれませんね。
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