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【入門】5分でわかる織田信長

織田信長の肖像画

──「人間五十年、下天の内をくらぶれば、夢幻のごとくなり。一度生を得て滅せぬ者のあるべきか」──

大大名・今川義元を討ち取った桶狭間の戦いの直前、幸若舞の敦盛の一節を謡い舞ったという「織田信長」。戦国時代においてもっとも有名な人物といえば、大抵の人は信長を思い浮かべるのではないでしょうか。

終わりの見えない戦国乱世の中にあって、天下統一目前まで勢力を拡大した信長の生涯とは。今回は信長の生涯のまとめ記事として、彼の歩んだ修羅の道と、その人物像をお伝えしていきます。
(文=ろひもと 理穂)

大うつけの那古野城城主

織田信秀の嫡男として誕生

天文3年(1534年)、信長は織田信秀の嫡男として誕生しました。幼名は吉法師です。

父信秀は尾張国の支配者だったわけではありません。尾張国の守護は斯波氏であり、その配下の守護代には、尾張国上四郡を治める岩倉織田氏(織田伊勢守)と尾張国下四郡を治める清洲織田氏(織田大和守家)がいたのです。信秀はその清洲織田氏に仕える清洲三奉行家のひとつ、弾正忠家の当主でした。

つまり尾張国支配者の家臣の、そのまた家臣という立場なわけです。信秀は策略を駆使して今川氏豊から尾張国の那古野城を奪い取り、徐々に軍事力を増強し、主家をしのぐ勢いになっていきました。その那古野城を信秀は早い段階で信長に譲っています。そして自身は勢力拡大と共に、古渡城、末森城と拠点を移動しました。

信秀は尾張国内に勢力を拡大しつつ、隣国の三河国にも侵攻して安祥城を陥落させています。しかし、駿河国に拠点を持つ今川氏は巨大で、すぐに安祥城は奪還されてしまいました。さらに信秀は美濃国の斎藤氏とも争い、その最中に尾張国内で反乱が起きるなど、かなり苦しい立場に追い込まれていきます。

大うつけの青年信長、濃姫と政略結婚へ

そこで信秀は斎藤氏と和睦し、斎藤氏の当主である斎藤道三の娘、「濃姫」(帰蝶、鷺山殿)を信長の正室として迎えることにしたのです。天文15年(1546年)に古渡城で元服していた信長は、三郎信長と名乗っていました。翌年には今川氏との戦いで初陣も果たしています。なお、同時期に幼少期の「徳川家康」が織田家の人質として2年ほど尾張国に滞在したことから、信長と交流して友情を深めたのではないかと伝えらえています。

信長が濃姫を正室に迎えたのは天文18年(1549年)のことで、まだ16歳です。これにより信秀と斎藤氏は強い繋がりを持つこととなったのです。ただし、濃姫については不明な点も多く、いつまで生存したのかも明らかになっていません。信長との間には子供ができなかったという説が有力です。

この頃の信長は奇抜な身だしなみで柿や瓜を食べ歩くなどの奇行が目立ち、信秀の家臣たちからは大うつけと陰口をたたかれていたようです。そんな青年信長ですが、重要な那古野城を任された点や、道三の娘を娶った点などを考慮すると、父親である信秀は信長の器量を期待していたのではないかと思われます。

家督を継承し、上総介信長を名乗る

守護代を倒す

信秀は尾張国を統一しないまま、天文21年(1552年)に病没してしまいます。弾正忠家の家督を継いだのは嫡男である信長でした。信秀の葬儀では位牌に向って抹香を投げつけたというシーンが有名です。それが何に対する怒りだったのかは定かではありませんが、信長がかなり微妙な立場で家督を継いだのは確かです。

父の葬儀で抹香を投げつける大うつけ信長
父の葬儀で抹香を投げつける大うつけ信長

尾張国内には対立する清洲織田氏が健在でしたし、そもそも弾正忠家内でも信長の弟である織田信勝(信行)との対立がありました。気を抜けばすぐに滅ぼされてしまうような状況に信長はいたのです。

家督を継いだ信長は、上総介信長(当初は上総守信長)を名乗り、尾張国統一に動き出します。清洲織田氏との衝突を繰り返す期間、道三との会見に向い、その協力を得ることに成功したり、今川氏を撃退するなどの活躍を見せています。

天文23年(1554年)、清洲織田氏の庇護を受けていた守護の斯波義統が、信長に内通した疑いで処刑されてしまいます。義統の子である斯波義銀は清洲城を逃亡し、信長のもとに逃れました。こうして信長は主家を滅ぼす大義名分を得ることになります。信長は。義銀を擁立して清洲城を陥落させ、清洲織田氏は滅亡しました。まさに下剋上です。

父親である信秀ができなかった主家を滅ぼすということを、信長はいともたやすくやってのけたのです。これで尾張国は落ち着くかに思われましたが、弘治2年(1556年)義父である道三が、息子である義龍の反乱によって戦死してしまいました。信長は強力な後ろ盾を失うことになったのです。

弟である信勝を倒し、織田家をまとめる

好機と見た反信長勢力は信勝を弾正忠家の当主として擁立し、挙兵します。その中には後に織田家の筆頭家老となる柴田勝家の姿もありました。この時の勝家は信長をうつけ者として侮っていましたが、「稲生の戦い」で敗れ、信長を高く評価するようになっています。

敗戦した信勝は末森城に籠城し、信長と信勝の実母である土田御前の仲介によって和睦が成立しました。しかし、信勝の野心は鎮まることはなく、永禄元年(1558年)再び反旗を翻すことを決意します。この時は、すでに信長に忠誠を誓っていた勝家に裏切られ、信長に密告されていました。病気で伏せている信長を見舞うために清洲城を訪れた信勝は、河尻秀隆に討たれています。

同年には、尾張国上四郡の守護代である岩倉織田氏を撃破し、翌年には岩倉城を陥落させ、信長は尾張国の大半を制圧します。実は正式な守護だった斯波氏も打倒信長を計って失敗し、尾張国を追放されていたのです。もはや信長に指示できる立場の者は尾張国には誰もいませんでした。

織田家中をまとめるためとはいえ、実の弟を殺害した信長に冷酷さを感じる人も多いでしょうが、実は信長は信勝の子を重用しています。通常であれば、後顧の憂いを断つためにその子らも同様に処刑するケースが多いですが、信長は勝家に預けて養育させたのです。そしてその子は津田信澄と名乗り、一門衆の中でも序列が5番目と優遇され、信長の右腕として活躍していきます。本当に冷酷であれば、そのような対応ができたのでしょうか。

織田家中をまとめ、尾張国を統一して外敵から守るため、心を鬼にして弟を討ったように思えてなりません。

天下布武のための信長の上洛

桶狭間の戦い

尾張国をほぼ統一した信長に、巨大な敵が襲い掛かります。駿河国、遠江国、三河国を支配する今川氏でした。信長の尾張国制圧が遅ければ、抵抗することもできずにあっという間に飲み込まれていたことでしょう。

永禄3年(1560年)、今川氏の当主である今川義元は、信長の兵力を大きく上回る大軍を率いて尾張国に侵攻しました。信長が幸若舞の敦盛を謡い舞ったのはこの時です。起死回生の奇襲攻撃で信長は義元を討ちます。有名な「桶狭間の戦い」です。

この戦いの後、今川氏に臣従していた徳川家康(当時は松平元康)は、三河国に入り、独立を勝ち取り、信長と清洲同盟を結びました。これにより信長は美濃国や伊勢国への勢力拡大に集中できるようになったのです。

永禄6年(1563年)、信長は美濃国を制圧するため、拠点を小牧城に移します。前年より、味方だった犬山城の織田信清が信長に反旗を翻しており、永禄8年(1565年)に犬山城を陥落させて、信長は尾張国を完全に統一しました。

そして隣国となった甲斐国の武田氏とすぐに同盟を結び、さらに武田氏当主の武田信玄の四男の武田勝頼に信長の養女を娶らせ、姻戚関係となりました。こうして美濃国侵攻の準備を万全に整えていったのです。

美濃国の支配

信長は美濃国侵攻のため、その後背にあたる近江国の浅井氏とも同盟を結んでいます。そして妹のお市を、浅井氏当主である浅井長政の正室としたのです。また伊勢国には滝川一益らを送り込んで、北伊勢の制圧を進めています。

そんな中、室町幕府の将軍である足利義輝が、三好氏によって殺害される事件が起きます。「永禄の変」です。弟の足利義昭は京を脱出し、再興するべく諸国の大名に協力要請をしました。それに応えたのが信長です。義昭は信長と斎藤氏の和睦を仲介し、上洛しようとしますが、最終的に信長は上洛よりも先に美濃国制圧を優先し、戦争を再開してしまいます。

しかし、結果的に信長はここで屈辱的な大敗を喫してしまいます。信長は諦めることなく美濃国に対し調略を進め、永禄9年(1566年)には美濃三人衆をはじめとする重要人物の寝返りに成功し、翌年にはついに斎藤氏を美濃国から追い出しました。

美濃国を手に入れた信長は、井ノ口を「岐阜」と改めます。そして「天下布武」の朱印を使い始めるのです。次なる信長の目標は、義昭を擁立して上洛し、室町幕府を再興することでした。天下布武の朱印はその志を物語っていたとされています。

信長のイラスト

足利義昭を擁立し、幕府再興

義昭は三好氏から逃れ、越前国の朝倉氏に匿われていました。義昭には、上洛して自らが将軍となり、室町幕府を再興するという明確な意思を持っていたのですが、朝倉氏当主である朝倉義景は慎重でした。

永禄11年(1568年)7月、美濃国岐阜城に拠点を移していた信長は義昭に使者を送り、自分が上洛の手助けをすると立候補します。義昭は喜んでこの申し出を受け、越前国を出て、信長の待つ美濃国に向いました。そして9月には信長は上洛を開始しています。

信長は南近江を支配する六角氏を撃退し、観音寺城を陥落させます。さらに三好三人衆も退け、信長は上洛に成功しました。そのおかげで、義昭はついに室町幕府第十五代将軍に就任できたのです。喜んだ義昭は信長に副将軍の地位を勧めていますが、信長はこれを断っています。

永禄12年(1569年)には三好三人衆と斎藤義興が手を結んで京に攻め込みましたが、信長軍に破れています。信長は摂津国の支配を強化、さらに堺に服属を要求してその直轄地化を進めていきました。

また、将軍義昭に対しては、殿中御掟16カ条を提示し承認されます。翌年にはさらに5カ条を追加、何事も信長に相談して決めることなど、事実上、政治の決定権は信長にあることを認めさせました。信長の力添えで将軍になれた義昭でしたが、室町幕府は信長の傀儡政権と化していき、信長への信頼を失っていきます。

信長包囲網との戦い

義弟である浅井長政の裏切り

信長は上洛と並行して、尾張国の隣国である伊勢国の制圧にも力をいれていきました。北伊勢の神戸氏には三男である織田信孝を養嗣子として吸収に成功。同様に北伊勢の長野氏も弟の織田信包を養嗣子として吸収しました。

そして永禄12年(1569年)には伊勢国の支配者である北畠氏を攻めて、二男である織田信雄を養嗣子とすることで和睦が成立し、信長は伊勢国も完全に制圧したのです。ただしこの和睦には義昭が仲介しており、和睦の条件の齟齬から信長と義昭の関係が険悪になったという説もあります。

勢いに乗った信長は、元亀元年(1570年)、越前国の朝倉氏を攻め、どんどん侵攻していくのですが、突如として義弟である浅井長政が裏切り、信長の後背を突いたために信長は総崩れとなったのです。命からがら撤退した信長は京に戻るとすぐに軍をまとめ、家康と共に、近江国を攻め、朝倉・浅井連合軍を「姉川の戦い」で破っています。 しかし、摂津国で三好三人衆が挙兵、石山本願寺も反信長の立場から挙兵しました。さらに朝倉、浅井連合軍が再び侵攻してくることになり、しかも伊勢国では一向一揆が起きて、信長は危機的な状況に陥ります。この目まぐるしい激戦の中で、信長は実弟である織田信治、織田信与を失いました。

ここで義昭が和睦の指揮を執り、正親町天皇の勅命として、信長と朝倉氏との和睦が成立しています。絶体絶命の危機を義昭に救われた形になったのです。

比叡山焼き討ち

信長が朝倉氏を攻めあぐねたのは、朝倉氏が比叡山延暦寺に立てこもっていたからです。元亀2年(1571年)9月、信長はこの比叡山を焼き討ちすることを決断し、徹底的な殺害を行っています。信長包囲網とも呼べる四面楚歌の状況を打ち破るには、それほどの強行手段しか残っていなかったのかもしれません。

しかし、この時、信長にとって最大の強敵とも呼べる甲斐国の武田信玄が家康の領土に攻め寄せていました。なんとか信玄とだけは友好関係を続けていきたかった信長でしたが、ここから先は敵対関係となってしまいます。

元亀3年(1572年)、信長は朝倉・浅井連合に対しては優勢に戦いを進めていましたが、信玄の勢いを止めることができません。自領である美濃国岩村城が陥落。家康も信玄によって遠江国二俣城を落とされました。さらに信長と家康の連合軍は、「三方ヶ原の戦い」で大敗。信玄は順調に進軍し、三河国に侵攻していきます。

信玄の背後には将軍である義昭の存在があると見抜いた信長は、17条の異見書によって義昭の政治手腕を否定し、義昭には将軍にたる器量がないことを流布しました。そして元亀4年(1573年)、義昭は信長への敵対意思をはっきりと示して挙兵します。

もはや八方が敵という状況であり、信長が頼るべきは、己の力と同盟勢力の家康のみということになってしまったのです。

信長包囲網を破り、勢力拡大

室町幕府の滅亡

信玄の軍勢が迫る中、信長は上京してまず義昭を攻めます。しかし、ここに時間をかけているわけにはいきません。信長は朝廷に働きかけ、正親町天皇の勅命によって義昭と和睦することに成功します。

義昭としては自分が戦わずとも、信玄によって信長は滅ぶと思っていたことでしょうが、ここで信玄が病によって亡くなってしまうのです。信玄の軍勢は甲斐国に撤退していきます。

脅威が去ったことにより、信長は義昭を攻めて二条御所から追い出しました。この時から義昭は、京都への復帰の希望を諦めぬまま流浪することになるのです。一般的には、ここで室町幕府滅亡としています。ただし諸国には反信長の勢力が多数存在しており、天下を統一したという状況ではありませんでした。

同年7月、信長が朝廷に奏上したことで、元号が元亀から天正に改元されています。新しい世の始まりを告げていました。

次々と周辺を制圧

信長包囲網は信玄を失い、また義昭が京都を追放されたことでほころび始めます。信長は休むことなく反対勢力に対し、攻撃を仕掛けていきました。

まずは近江国の浅井氏を攻め、援軍に駆けつけた朝倉氏を撃退します。そしてそのまま敗走する朝倉軍を追撃し、本拠地である越前国の一乗谷城をも陥落させ、義景は自害しました。さらに近江国の浅井氏の拠点である小谷城を秀吉に攻めさせ、見事陥落。長政もまた自害しています。

8月から9月にかけての一ヶ月の間に、信長は長年の仇敵である朝倉氏と浅井氏を倒したのです。また河内国の三好義継を攻め、自害に追い込み、大和国の松永久秀は信長に城を明け渡して降伏しています。

ただし、伊勢国の長島一揆衆には苦戦を強いられており、さらに越前国でも一向一揆が起こっています。信玄の後継者である武田勝頼は、東美濃に攻め寄せており、明知城を落とされました。

周辺の反対勢力を次々に制圧していくものの、まだまだ倒すべき相手は多かった状況だったのです。これだけ多くの勢力を敵に回しながらも、屈せずに戦い続ける信長の精神力の強さに驚きです。

そして天正2年(1574年)、水陸から長島を包囲し、兵糧の搬入を封鎖します。これによって長島の一向一揆を鎮圧し、門徒2万人を焼き討ちによって殲滅しました。この戦いで信長は庶兄である織田信広を失っています。翌年には石山本願寺を包囲し、和睦が成立しました。こうして勝頼との戦いに集中できる状況が整っていきます。

天正3年(1575年)、家康の領土に侵攻し、三河国の長篠城攻めに時間をかけていた勝頼に対し、信長は岐阜城を出陣、長篠の地で信長・家康連合軍と勝頼が激突しました。有名な「長篠の戦い」です。信長はこの戦いで鉄砲を有効活用し、勝頼の主力に壊滅的な損害を与えることに成功しています。

信長は越前国にも兵を送り、一向一揆を制圧して、完全に越前国を制圧します。柴田勝家がその責任者に任命されました。敵対勢力をほぼ一掃した信長は、同年11月、権大納言、右近衛大将に任じられています。

安土城築城

室町幕府第十二代将軍だった足利義晴は、権大納言、右近衛大将の官位を得て、将軍職を息子に譲り、自らは後見人として実権を握り続けました。どうやら信長はそれに倣ったようで、同様の官位に就くや、家督を嫡男の織田信忠に譲っています。信忠は織田氏の家督を継ぐと共に、その地盤である尾張国と美濃国を治めることになったのです。もちろん実権は信長が引き続き持ち続けています。

そして、天正4年(1576年)から琵琶湖東岸に五層七重の「安土城」の築城を始めました。完成は3年後になりますが、そのとき信長は岐阜城からこの安土城に拠点を移すことになります。現存しない幻の城ですが、イエズス会の宣教師の記録によると、その壮大さはヨーロッパの城に引けを取らなかったようです。

安土城図(大阪城天守閣所蔵)
安土城図(大阪城天守閣所蔵)

安土城は岐阜城よりも京に近く、さらに一向一揆に苦しめられた越前国にも睨みを効かせることができます。この北陸への備えは、越後国の戦国大名である上杉謙信の上洛を警戒したものだったとも考えられています。

実際、家督を譲ってからも反信長の勢力の活動は続いていました。丹波国の波多野秀治が信長に背き、石山本願寺も再び挙兵します。さらにこれに雑賀衆も呼応しました。この時の「天王寺砦の戦い」では、あまりにも兵力が分散してしまい、最終手段として信長自身が陣頭指揮をしています。

石山本願寺を水陸から包囲し、兵糧の搬入を断ちますが、ここで中国地方の最大勢力である毛利氏の水軍が石山本願寺の援軍に駆けつけます。信長の水軍は毛利氏に敗れました。そして、北陸地方で対立していた石山本願寺と謙信の和睦が成立し、謙信はここから打倒信長に動き出します。こうして再び強固な信長包囲網が敷かれることになったのです。

天正5年(1577年)、信長は紀伊国に侵攻し、雑賀衆を降伏させますが、この機に乗じて信貴山城の松永久秀が謀叛を起こします。こちらは家督を継いだ信忠が攻略し、久秀は自害しました。さらに信長は丹波国へも侵攻し、勢力を拡大しています。

一方、北陸地方では謙信がついに信長の軍勢と衝突します。「手取川の戦い」において信長は多くの戦死者と行方不明者を出しつつ撤退したと考えられています。やはり謙信の強さは並々ならぬものがあったのでしょう。

同年11月、信長は従二位・右大臣に任じられ、翌年1月には正二位に昇進しました。しかし安土城はまだ完成しておらず、謙信に上洛の動きはないか神経を尖らせていたことでしょう。そんな中、3月、謙信が突如亡くなります。さらに後継者を巡る争いが勃発し、信長はこの隙を突いて上杉氏の領土へ侵攻。一転して信長が優位に立ちました。

こうして、もはや天下に信長が脅威を感じる相手はいなくなっていたのです。

天下統一目前

中国侵攻と京都御馬揃え

天正6年(1578年)、今度は播磨国で別所長治が謀叛を起こします。さらに摂津国では荒木村重が謀叛。どうやら裏では京を追われた義昭、それを保護することになった毛利氏、そして石山本願寺らが加担して、画策していたようです。しかし信長は密かに水軍を強化しており、この九鬼水軍が毛利氏の水軍を撃破。石山本願寺の兵站を断つことに成功します。村重の有岡城も包囲した状態で、全体的には信長有利に進んでいきます。

天正7年(1579年)には、明智光秀が丹波国の波多野秀治が籠城する八上城を陥落させ、丹波国、丹後国を制圧しました。村重も圧倒的に不利な状況を強いられて、城を捨てたことで有岡城も陥落しています。天正8年(1580年)1月には別所長治も降伏し、自害していたことで反乱軍は鎮圧されました。

同年3月には関東一帯を支配する北条氏が信長に臣従することになり、この状況の中で石山本願寺もついに正親町天皇の勅命によって和睦し、大坂を退去しました。10年間という長い期間をかけ、信長はようやく石山本願寺の抵抗から解放されることになったのです。

天下の大勢は決まりました。信長は盤石な勢力となり、後はそれに歯向かう勢力をひとつずつ潰していくだけです。ここで信長はその威を天下に示すために、盛大な馬揃えを京都で行っています。天正9年(1581年)の「京都御馬揃え」です。このことで、天下の中心は信長であることを広く知らしめることに成功しています。

甲州征伐

同年、信長と、義昭や村重と手を結ぶ高野山との間で激しい戦闘が始まります。しかし高野山を攻略しきれず、長期戦になったため、信長は甲斐国の勝頼を攻めることを優先しました。勝頼は宿敵だった越後国の上杉氏と同盟を結び、信長に対抗しましたが、天正10年(1582年)に娘婿の木曾義昌が信長に寝返り、一気に崩れていきます。

信長はこの好機を逃さず、家康を駿河国から、北条氏を相模国から、飛騨国、美濃国から信長の軍が一斉に甲斐国に侵攻しました。その数はなんと10万を超えたと言われています。勝頼は次々と支城を落とされていき、一門衆にも裏切られ、最期は自害しました。侵攻からおよそ一ヶ月、こうして武田氏は滅びていったのです。

信長に寝返った武田氏の一門衆である穴山信君は本領安堵となり、甲斐国は河尻秀隆が統治することになりました。さらに滝川一益は上野国と信濃国を統治しつつ、関東管領に任命されています。
ちなみに信君はその後の本能寺の変の際に、堺から脱出しましたが、帰路で命を落としています。秀隆も本能寺の変の後に起きた、甲斐国の国人衆の反乱によって殺害されています。一益も北条氏が謀叛したことで大敗し、重臣が集い信長の後継者を決める清洲会議に間に合いませんでした。

旧武田領を制圧したことで、信長は再び高野山攻めを指示しました。その包囲の最中にあの「本能寺の変」が起こるのです。そのおかげで、高野山は比叡山の焼き討ちのような虐殺から逃れることができたのです。

本能寺の変で自害

朝廷は、信長を太政大臣か、関白か、征夷大将軍に任じる予定だったと考えられています。その記録は『天正十年夏記』に記されているものの、朝廷側からの提案だったのか、信長側からの申し出だったのかは不明です。勅使が安土城の信長のもとを訪れていますが、信長がどのような返答をしたのかも謎のままです。

信長はさらに勢力を拡大し、天下を統一すべく、四国の長宗我部氏討伐を決めます。信長自身が淡路に入る予定もあったようです。東北の諸大名は信長になびいており、残すは四国、中国、九州地方だけという状態でした。

この時、信長は長年の同盟相手である家康を安土城で持て成しています。接待役は光秀でしたが、どうやらこの対応の内容に信長は不満を持ったようで、光秀を足蹴にしたと伝わっています。接待役から外された光秀は、中国地方攻めの援軍に向かうように指示されました。そして信長自身も苦戦が続く中国攻めに加わるべく、小姓だけを引き連れて上洛し、本能寺に入りました。6月2日未明、秀吉の援軍に向ったはずの光秀の軍勢が引き返して本能寺を包囲します。ついに重臣の光秀すらもが謀叛を起こす事態に陥ったのです。

信長は完全に隙を突かれた状態でした。兵力で圧倒され、逃れる手段を失った信長は、本能寺に火を放って自害します。焼け跡から光秀は信長の首を必死に探しましたが、見つけることはできませんでした。

信長の葬儀は、光秀を倒して仇を討った秀吉の手で行われています。

まとめ

享年49歳、まさに人間五十年と詠ったとおりの生涯でした。

なぜ光秀が信長を最後に裏切ったのか、信長は日本を統一した後に何がしたかったのか、信長は征夷大将軍となり幕府を創設するつもりだったのか、それともそれ以上の権威を欲していたのか、多くの謎が残されています。

歴史を紐解けば、身内であろうとも逆らう者には容赦のなかった信長は、残虐非道の象徴のような存在です。武士だけでなく、一揆に加担した女子供まで徹底的に虐殺しています。自らを第六天魔王と称したように、まさに悪鬼のごとき所行です。

ただし、既存の権力や勢力、価値観が信長によって破壊され、滅ぼされたことによって、戦国時代は終焉を迎えることとなり、新しい日本が創造されていくことになります。血を血で洗うような残虐な戦国時代を終わらせるためには、ここまで過酷な対応がもしかすると必要だったのかもしれません。

信長の覇業なくして、秀吉の天下統一も、家康の江戸幕府創設も存在しなかったのではないでしょうか。信長が誕生しなかったら、もしかすると100年、200年とまだ戦国時代が続いていたかもしれません。

平和な日本を築くため、戦国時代を終わらせるために信長は自らが悪役となり、鬼となった。そう考えてしまうのは私だけではないのではないでしょうか。





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