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  • 武田信玄
 2019/02/07

「山本勘助(菅助)」武田信玄の伝説の軍師は実在したのか?

山本勘助の肖像画

武田家の家臣団でもおそらく屈指の知名度を誇る人物…。それが山本勘助です。

伝説の軍師として合戦で活躍したという記述は『甲陽軍鑑』の中で確認ができ、軍記物が流行した江戸時代に一躍人気者となりました。
しかし明治時代に入ると、欧州から実証主義歴史学が伝えられ、その際に軍記物は批判の対象となります。そのため、山本勘助は実在の人物ではなく、伝説上の人物である、という意見もみられるようになっていきました。

こうした実証主義は、近年まで歴史学に大きく影響していましたが、最新の研究で「山本菅助」という人物が実在していたことが確認されました。本記事ではその経緯を解説しながら、史実における実際の活躍を見ていきたいと思います。
(文=とーじん)

「伝説」から「史実」になった山本勘助

 冒頭でも触れたように、勘助は軍記物『甲陽軍鑑』の登場人物として絶大なる人気を誇りました。江戸時代にはその実在を疑う声はほとんどなかったといっても過言ではありません。

しかし、明治期にはその実在を裏付けていた『甲陽軍鑑』という史料の価値が揺らぎ始めます。実証主義歴史学においては、一次史料(同時代人によって記述された史料)の存在が極めて重要視されました。そのため、二次史料(違う世代の人によって記述された史料)だけにしか存在しない人物は、架空の人物と考えられました。

転機は大河ドラマ!実在が証明された

では勘助はどうだったのかというと、明治期において、その名は一次史料には一切見当たりませんでした。

『甲陽軍鑑』は二次史料として扱われるのが一般的です。そのため、当時の彼は架空の人物という説が立証され、戦後になっても長らくそれが定説とされていました。

しかし、転機は意外なところから訪れます。それは、NHKで放送された大河ドラマ「天と地と」および「風林火山」の放送による影響です。これらの大河ドラマは、多くの国民に愛される傑作として親しまれました。そして武田家に関する専門知識が、多くの国民に共有されるようになります。

すると、放送で武田信玄の花押をみた視聴者が、家財として保有していた古文書に押されていた花押と一致しているとして、いくつかの古文書が公的機関に提出されました。その鑑定の結果、「山本菅助」という人物に宛てられた文書も発見されたのです。

従来伝えられていた「山本勘助」という人物とは、漢字が異なりますが、これは前近代社会において、基本的に音に対して字をあてるという性質のものだったことに由来します。当て字の使用は極めて一般的な文化であり、音が合っていれば同一人物と考えても差し支えはありません。

つまり、「勘助」は実在していたということです。ただし、史実上の正式名称は「菅助」です。ちょっとややこしいですが、以降、本記事での表記は「勘助」で統一していきます。

伝説の軍師のイメージはどのように定着?

さて、先に勘助が実在した可能性が極めて高いことを立証しましたが、本当の問題はむしろここからです。

山本勘助は、軍師として戦を指揮した頭脳派の武将である、という評価が一般的なものでした。しかし、『甲陽軍鑑』の記述に「軍師」という言葉がそもそも登場しないため、後世にこの言葉が勘助の代名詞として用いられるようになったのは、ほぼ確実でしょう。

そもそも「軍師」というイメージは、戦国時代に実在していなかったという見方が一般的です。我々が軍師として思い浮かべる人物は、『三国志演義』の諸葛亮公明などがその代表的なものでしょう。そして、この軍師に関するイメージが形成されたのが、他でもない江戸時代だったのです。

先ほど、江戸時代には軍記物が流行したことに言及しました。それは同時に『三国志演義』や『水滸伝』などの外来の文学が流行したことも指しているのです。つまり、江戸時代において『甲陽軍鑑』の山本勘助の人物像は、『三国志演義』で描かれた軍師という存在に影響されていたといえます。

そして、そのイメージは近松門左衛門の「信州川中島合戦」という浄瑠璃が行なわれて以降定着していき、江戸時代以降に書かれた勘助をめぐる書籍では「軍師」という言葉が彼にあてられたのです。

しかし、ここで注目するべきは言葉や定義の問題ではありません。たとえ軍師という言葉そのものが存在しなかったとしても、軍師のような事を成し遂げていたら、事実上の軍師だといえるからです。

山本勘助がほぼ実在するのがわかったところで、再度『甲陽軍鑑』の記載に注目しながら、彼の本来の姿をはっきりとさせていきます。ただ、同時に軍鑑は実証主義で一時史料的価値を完全に否定されたという事実からもわかるように、記載の内容には十分に注意を払う必要があります。

はっきりとしない個人情報

やはり勘助は、実在を疑われた人物ということも相まって、その生涯にはかなりあいまいな点が多いです。生年には二通りの説があり、『甲陽軍鑑』の末書では明応9年(1500年)となっていますが、軍艦の別箇所で記されている年齢から逆算すると、明応2年(1493年)となります。

名前については、軍鑑の中で「勘助」という名前が仮名であるということは確認できます。ちなみに実名が「晴幸」であるという説もありましたが、現在では誤りであることが確認されています。

このほか、誕生地についてもはっきりとしたことは分かっていませんが、『甲陽日記』によると、三河牛窪の浪人であったようで、天文13年(1544年)に召し抱えられたとされています。この間の勘助の動向は完全に不明であり、それを裏付けるものは一切確認できません。

この空白期間を描く際、創作でよく用いられる動向としては、『武功雑記』などでみられる武者修行の旅です。しかし、一次史料には一切そういった記載がみられず、矛盾点が多いことから、これらは史実ではないとされています。

甲斐武田氏への仕官については、『甲陽軍鑑』において、宿老板垣信方が築城の名人であることを理由に推薦した、とされていますが、後に築城をめぐる活躍が確認できるので、これは事実であるという見方が一般的です。このことから、どこかの国で家臣としてある程度功績を残したことは確かなようです。

いずれにしても、仕官までの動向ははっきりとわかっていません。これだけ存在がはっきりとしなければ、非実在説が出てしまったのもうなずけます。

武将としての活躍は目覚ましいものだったのか

勘助の仕官後の活躍については、軍艦と他の古文書で食い違う点が非常に多いです。そのため、軍艦での活躍のうち明らかに史実ではないものを紹介したのち、裏付けのとれてある程度信ぴょう性のある活躍を紹介していきます。

伝説における活躍

仕官に際しては、『甲陽軍鑑』によれば信玄が各地に伝わる兵法家としての名声をうけ、勘助を召し出したとされています。その際に約束の知行は100貫でしたが、その才を見抜いた信玄が200貫に倍増させたと伝えられています。しかし、これも史料的な裏付けはありません。

『甲陽軍鑑』によれば、信玄による破格の待遇がなされたという記述や、それによって家臣の嫉妬を買ったという記述もあります。 その後、天文15年に信濃村上氏の配下にあった戸石城を攻めた際、勘助は巧みな采配によって武田軍を立て直し、勝利に導いたという記述があります。その活躍はすさまじいものであり、知行800貫の足軽大将に任命されたとしています。

これだけではなく、勘助は武田家が関わった様々な合戦で具申を行ない、武田軍を危機から救ったという記述が文学書などで多数散見されます。その中には彼の代名詞ともされる、川中島の戦いでの「啄木鳥戦法」の献策なども含まれています。

ただ、後述しますが、これらの活躍の大半は、他の古文書や史料との整合性が取れないものや、『甲陽軍鑑』以外の史料では確認できないものも多く、勘助の功績ではないとされています。

史実における活躍

はじめての活躍は、『真下氏所蔵山本家文書』によれば、天文17年(1546年)の信濃伊奈郡における戦争で、恩賞として甲斐黒駒関(現在の笛吹市)の関銭100貫文であったとされています。

関銭は、季節に応じてある程度まとまった収入になるため、本格的な知行を与えられる前の一時的な処置だったようです。つまり、武田家における勘助の扱いはあくまで他国の将に対する一般的なものであったといえます。
これは、先ほどの800貫という莫大な知行を否定する根拠にもなります。先ほどの知行をめぐる史料との兼ね合いから、関銭を一時的に与えていたような武将への待遇としては現実的ではないため、事実ではないとされています。

その後、『甲陽日記』によれば、勘助は築城の名手として活躍していたようです。この記述は、『甲陽軍鑑』とも一致するため、この点は真実と考えてもよさそうです。

では、肝心の軍師としての活躍はどの程度あったのでしょうか。結論からいえば、『甲陽軍鑑』において参謀的な役割を果たした場面は、わずか二か所しかありません。

その二つは、先ほど述べた戸石城の合戦と、川中島の戦いでのものです。しかも、これらは『甲陽軍鑑』以外の史料では確認できず、軍師としての活躍はほとんどなかったといっても過言ではありません。しかし、武田家に仕官していたというのは事実なので、何かしらの役割を担っていたのは間違いありません。

さて、ここからは知られざる勘助の本当の功績をみていきましょう。

呪術者や使者としての活躍

勘助は、合戦の際に「呪術者」として活躍していたという説が提唱されています。

これは軍師とは異なり、戦場において吉兆を占う役割のことを指します。戦国時代においては、こうした呪術的要素が重要視されていました。そのため合戦に関与はしていましたが、現在でいうところの「祈とう師」的な役割を担っており、それを軍師として誤解されたというのが説の根拠です。

古文書で確認できるものとして、『市河家文書』によれば弘治3年(1557年)に北信濃へと使者に出されています。また、『真下氏所蔵山本家文書』の中で、永禄元年(1558年)に小山田虎満の容態を確認するために使者に出されている様子が確認できます。この際、軍事についての話し合いも行なっていたようであり、川中島一帯で使者として活躍していた可能性が高いとされています。

ただ、使者というのは現代でいうところの「使い走り」とは少し性質が違います。戦国時代の書状は短いものが多かったため、使者が口頭で説明を加えることがほとんどでした。そのため、使者は大名の言葉を代弁する役割を担ったため、優秀な人でなければ務まりませんでした。

このように伝説の姿とは異なりますが、武田家家臣として活躍していました。そして、最終的には永禄4年(1562年)に川中島で討ち死にしたとされています。

なぜ勘助の活躍は「盛られた」のか?

このように、勘助の活躍は史実のそれとは性質が異なります。しかし、注目するべきは『甲陽軍鑑』で、大胆に功績が書き換えられているという点です。

この史料は、二次史料といえども武田家滅亡の直前に記されたものであり、それはまだ戦の生き残りが数多く存在している時期であることを意味します。つまり、あまりにもあり得ない話を書けば、生き残りの家臣が不信感を抱くのは明らかです。

ところが、実際には武田家臣団にすんなりと受け入れられます。これはなぜか。その理由を考えるためには、『甲陽軍鑑』成立のいきさつを踏まえる必要があります。

そもそも『甲陽軍鑑』は、勝頼の側近であった跡部勝資・長坂釣閑斎といった文治派吏僚を諫める目的で執筆されました。執筆した春日虎綱は武断派家老として知られていました。

つまり軍鑑は、武断派家老による文治派吏僚への批判書ともいえるのです。おそらく、文治派吏僚の輝かしい功績を描くのは、文書の説得力に差しさわる、と考えたのでしょう。そこで、文治派吏僚の功績を転記するために白羽の矢が立ったのが、「山本勘助」だったという説があります。

勘助は低い身分から立身出世を遂げた「叩き上げ」ともいうべき存在でした。その点に着目した虎綱が、それを利用したと考えることもできます。つまり、『甲陽軍鑑』の中の勘助は、実在した山本勘助をベースにして、様々な文治派武田家家臣の功績が集約された架空の人物というように考えられます。

このことが真実だとすれば、「記録」というものは恐ろしいということを実感させられます。人間の生きた証というものは、記憶以外では記録から推測するほかありません。それを少し改ざんするだけで、架空の人物が生まれてしまうのです。

現代になっても史実として考えられている架空の武将がいる可能性も十分に考えられます。あなたの好きな武将は、本当に実在していたと言い切れますか?


【主な参考文献】
  • 丸島和洋『戦国大名武田氏の家臣団:信玄・勝頼を支えた家臣たち』教育評論社、2016年。
  • 柴辻俊六編『新編武田信玄のすべて』新人物往来社、2008年。




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