「本多忠真」は名将・本多忠勝の育ての親だった!

本多忠真のイメージイラスト
本多忠真のイメージイラスト
 三河の本多氏と言えば、本多忠勝や本多正信を輩出した徳川(松平)譜代の名族として名高い。しかし、徳川四天王の1人である本多忠勝を名将に育て上げた本多忠真(ほんだ ただざね)の名は、ほとんど知られていない。隠れた名将というものは、史料への記述が少ないものであるが、足りないピースを想像力で補いつつ筆を進めてみたい。

相次ぐ身内の死

 本多忠真は享禄4年(1531)、本多忠豊の次男として三河に生を受けたとされるが、天文3年(1534)生まれという説もある。

 織田信長が天文3年(1534)、そして豊臣秀吉が天文6年(1537)生まれであるから、忠真は戦国真っ只中に生まれたといってよい。槍の名手であった忠真は、戦で数々の武功を挙げたという。

 本多家は古くから三河の松平家に仕えていたから、隣接する尾張の織田・今川との合戦、いわゆる安城合戦(あんじょうかっせん)に、否応なしに巻き込まれることになる。この熾烈な合戦において、忠真は相次いで身内を亡くすという不幸に見舞われた。

 天文14年(1545)の第二次安祥合戦では、織田信秀の軍勢に挟撃され、退路を断たれた松平広忠を逃がすため、父・忠豊が殿(しんがり)となって討死。さらに、天文18年(1549)には第三次安祥合戦が起こるが、織田信広を捕縛すべく、安祥城の本丸に迫っていた兄・忠高は深入りしすぎて討死してしまったという。

 ちなみに忠高は本多忠勝の実父である。この戦で父を亡くした忠勝を兄嫁と主に保護したのが忠真だった。忠真は忠高の代わりに忠勝を育て、読み書きから槍などの武芸、そして武士としての心得までをしっかりと教え込んだ。

 当時まだ2歳そこそこであった忠勝にとって、忠真は実の父親同然の存在だったのである。名将・本多忠勝は忠真無くして誕生しなかったのかもしれない。

酒好きだった?

 2023年大河ドラマ『どうする家康』では、本多忠真を個性派俳優・波岡一喜が演じる。ドラマ中の忠真は、昼間から徳利片手に酒を飲む「酔いどれサムライ」として描かれているという。しかし、どんなに調べても忠真が酒飲みだったという記述を史料の中に見つけることができなかった。

 ただ、戦国武将と酒について調べたことで、関連すると思われるいくつかの事実にたどり着くことができたのである。

 1つは戦国時代には、飲酒の習慣は武士階級にまで浸透していたという点だ。

 戦国武将も例外ではなく、合戦がない時には何だかんだ理由を付けて毎日のように酒を飲んでいたという。驚いたことに、軍議の席でも酒を飲みながらということもあったようだから、酒に関しては現代よりもかなりおおらかだったと言ってよいであろう。

 合戦に際しても、敵陣に攻め込む前の恐怖心を和らげるため、武将は常に酒を携行していたようだ。酔いの程度もあるだろうが、昼間から酒を飲むことに関しては、それ程ヒンシュクを買う行動ではなかった訳である。

 次に、本多一族の中に酒で大失敗した者がいるという点である。

 はっきりとした記述が残っているのは本多忠朝に関するものである。忠朝は忠勝の次男であるが、若い時分から父に劣らぬ勇将として知られていた。関ケ原の戦いの奮闘ぶりに家康が「さすがは忠勝の息子よ」と褒め称えたほどの武将だったのである。

 ところが、大坂冬の陣では、酒を飲みすぎて不覚をとり、敗北を喫してしまう。翌年の大坂夏の陣では、汚名返上とばかりに大奮戦するが、全身に傷を負って戦死。酒が飲める飲めないは、遺伝子で決まるので忠真が呑兵衛だったとしても、何ら不思議はないだろう。

 これらのことから考えると、徳川最強武将であった本多忠勝の育ての親としての忠真を、あえて豪快かつ個性的なキャラに設定したように思えてならない。

忠勝初陣

 忠勝は、永禄3年(1560)の鷲津砦の戦いで初陣を飾ったとされる。忠勝13歳の時だという。

 この初陣において、忠真は忠勝の補佐役として参戦している。忠勝は手柄を立てようと必死であったと思われるが、その最中にあろうことか、織田方の山崎多十郎に討ち取られそうになったというのだ。

 この窮地を救ったのが、忠真であった。忠真は、忠勝に迫りくる山崎多十郎に槍を投げつけて援護し、事なきを得ている。忠真はこの時期、忠勝の手柄をかなり気にかけていたようだ。

 永禄4年(1561)、鳥屋根城攻略の際には、忠真自身が討った敵方の首を忠勝の手柄とするよう指示するが、忠勝はこれを拒否。そして、「我、何ぞ人の力を借りて、以て武功を立てんや」と言い放つや、敵陣へ攻め込み、見事敵の首を取ってきたという。

 忠勝の気骨溢れる人柄を物語るエピソードであるが、忠勝の性格を熟知した忠真の計らいだと考えると、中々に感慨深い。

 永禄6年(1563)、三河一向一揆が起こると、忠真は浄土真宗の門徒でありながら、家康方についた。離反する家臣が多い中、家康に従い続けたのは単なる忠義心からだけではないだろう。桶狭間の戦い以降、今川から独立し、三河統一を目指す家康の手腕を忠真は評価していたのではないだろうか。

 忠勝も、忠真に従ったことは言うまでもない。

殿(しんがり)

 元亀3年(1572)10月、甲斐の武田信玄は西上作戦を開始し、同年12月には浜松城に迫る勢いであった。

※参考:武田信玄の西上作戦の進行ルート(諸説あり)
※参考:武田信玄の西上作戦の進行ルート(諸説あり)

 家康と織田方の佐久間信盛は当初、信玄の狙いが浜松城だと踏んでいたという。その前提で籠城策をとるつもりだったのである。

 ところが、遠州平野の西進経路から判断すると、三方ヶ原台地に向かおうとしているかに見えたという。家康はこれを知るや、武田軍を背後から急襲する作戦に変更しようとする。家臣の中には反対する者もいたというが、それを押し切っての急襲策であった。

 このときの家康の判断は、無謀と言えば無謀であったかもしれない。一説には、三河の国衆の離反を抑えるために出陣したともいわれている。

 私は、家康の深層意識に名将信玄と戦いたいという願望があったのではないかと思っている。10月の一言坂の戦いで偵察中に武田軍と遭遇し、不本意な敗北を喫したことも理由の1つだった可能性もあるのではないか。また、家康が野戦を得意としていたことも大いに関係しているであろう。

 しかし、信玄の「浜松城素通り」は、家康をおびきだすための罠であった。徳川・織田連合軍が三方ヶ原に到着すると、武田軍は万全な陣形で待ち構えていたのである。

 結果、連合軍は武田軍に蹴散らされ敗走する。この際、忠真は殿を志願。あまりの大敗に、家康自身にも危険が迫っていたからである。

 しかしながら、武田軍の勢いを目の当たりにした忠真は、このままでは殿軍はおろか、家康の命も危ういと判断したのだろう。武田軍を足止めするため、旗指物を自身の左右に突き刺すと、「ここから後ろへは一歩も引かぬ」といって武田軍に切り込み討死したのである。

 家康は、命からがら浜松城に戻ったのであるが、供廻り数名での帰還であったというから、かなり危ない状況であったことが窺える。

あとがき

 本多忠真の最期は奇しくも、父・忠豊と同様、殿を務めての討死であった。ただ、少々異なるのは、もはや松平家(徳川家)はかつてのような弱小大名ではなくなっていたという点である。とりあえず主君を守るためというだけでなく、未来を見据えての殿だったように思えてならない。家康の手腕をつぶさに見てきた忠真は、これまでの当主とは違った「大器の器」を感じ取っていたのではないだろうか。

 そして、忠勝も自分を超える武将となりつつあった。三方ヶ原の戦いで忠勝は、名将・山県昌景の部隊を撃退するという功を挙げているのだ。自らが、殿となり主君・家康及び、出来るだけ多くの徳川家臣を逃がすことで未来に繋げようとしたのではないか。

 この40数年後の慶長20年(1615)、既に幕府を開き、天下統一を果たしていた家康は大坂城の豊臣氏と対峙していた。世に言う「大坂夏の陣」である。

 戦いの終盤、真田信繁率いる真田隊を始めとする豊臣方が、徳川本隊に突撃をかけた。この突撃は凄まじく、一時は家康の本陣に迫る勢いであったという。このとき、家康は切腹を覚悟したとされるが、その時脳裏をかすめたのは本多忠真の姿だったのかもしれない。

本多肥後守忠真顕彰碑(静岡県浜松市中区鹿谷町。出典:wikipedia)
本多肥後守忠真顕彰碑(静岡県浜松市中区鹿谷町。出典:wikipedia)


【主な参考文献】
  • 戦国歴史研究会『本多忠勝-無傷の大槍』PHP研究所  2008年
  • 市橋章男『家康を支えた三河武士 本多忠勝 井伊直政』正文館書店岡崎 2017年
  • 野中信二『徳川家康と家臣団』 学陽書房  2022年

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  この記事を書いた人
pinon さん
歴史にはまって早30年、還暦の歴オタライター。 平成バブルのおりにはディスコ通いならぬ古本屋通いにいそしみ、『ルイスフロイス日本史』、 『信長公記』、『甲陽軍鑑』等にはまる。 以降、バブルそっちのけで戦国時代、中でも織田信長にはまるあまり、 友人に向かって「マハラジャって何?」とのたまう有様に。 ...

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