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江戸時代の名人が将軍に献上した激ムズの「問題集」があった

詰将棋は将棋のルールを準用したパズル。王手を繰り返して最終的に敵将を追い詰めたら正解です。日本中に愛好家がたくさんいて、新聞や雑誌で問題を目にする機会も多いでしょう。実はその詰将棋は、江戸時代の達人にとって自身の節目を飾る大きな意味を持っていました。

徳川家康が囲碁や将棋を庇護し、江戸時代に将棋を公務にする「将棋所」という役職ができました。慶長17年(1612)にその初代に任じられたのが、最初の名人とされる大橋宗桂です。宗桂は就任にあたり、当時の後陽成天皇に詰将棋の作品集を献上しました。その息子で二代目の名人になった大橋宗古も、自作の詰将棋集を幕府に献上しています。

こうした経緯から、将棋の名人候補と目される者が詰将棋を100問作って幕府に献上する慣行が生まれました。当時のトップ棋士が自分の才能を誇示するため、長い時間をかけて必死で問題を考え続けたのです。

その中でも最高傑作の呼び声高いのが、将棋家元の一つ伊藤家を継いだ三代伊藤宗看の「象戯(しょうぎ)図式」です。彼は享保13年(1728)に23歳の若さで名人に就位した天才で、鬼宗看の異名がありました。その作品集は後に「将棋無双」と呼ばれ、長年にわたり愛棋家の頭を悩ませ続けることになります。

その中でも神がかり的な傑作と言われるのが第30番。金のタダ捨てから始まって、馬がジグザグに往復する長旅を経て、最後は左右対称の形で美しく玉が詰みます。実は将棋無双では100問の玉の初期位置が81マスに満遍なく配され、さらに2回重なる部分はシンメトリーになっています。計算に計算を重ねた作者の頭脳と苦労には、感動を通り越して恐ろしさすら感じます。

三代宗看の作品はいずれも大変な難問でした。その上、解答が一般に伝えられなかったので、本当に全ての問題に正解があるのか長年疑問視されてきました。そのせいで「詰むや詰まざるや」という呼び名もできたほどです。しかし昭和になって三代宗看が将軍に献上した原本が皇居内の内閣文庫から見つかり、本人の創作意図が判明しました。その結果、いくつかの問題が不完全であったことが分かったのです。将棋無双はその全体を通して「不詰み」を解とする歴史的難問だったと言えるかもしれません。

現代将棋界のスター藤井聡太さんらも若い頃から将棋無双に挑んできました。江戸時代の名棋士と将棋を指すことはできません。でも、彼らが生んだ詰将棋に挑むことは誰でもできるのです。そんなふうに時代を超えた“勝負”を楽しめるのも、詰将棋の魅力ですよね。

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  この記事を書いた人
かむたろう さん
いにしえの人と現代人を結ぶ囲碁や将棋の歴史にロマンを感じます。 棋力は級位者レベルですが、日本の伝統遊戯の奥深さをお伝えできれば…。 気楽にお読みいただき、少しでも関心を持ってもらえたらうれしいです。

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