【麒麟がくる】第20回「家康への文」レビューと解説

信長が今川をどうにかしてくれと将軍・義輝に頼み、思いの外役に立たずがっかりして終わったのが永禄2(1559)年のこと。その翌年、今川軍2万5000、織田軍たった3000の戦い「桶狭間の戦い」が起こりました。

日本三大奇襲のひとつで、信長躍進のきっかけにもなった合戦。今回はその桶狭間前夜、キーパーソンとなる元康(のちの家康)にスポットが当てられました。

いよいよ困窮して仕官を考えるも……

越前の光秀は相変わらず子どもたちに学問を教える日々ですが、いよいよその日に食べる米にすら困るほど暮らし向きは悪くなっています。そのくせ、光秀や左馬助が過ごす部屋には書物が山のように積まれている。おそらくお牧の方や煕子の努力で、光秀の持ち物は極力質に入れないようにしているのでしょう。

このままでは生活が立ち行かないと考えた光秀は仕官しようとしますが、お偉いさんと蹴鞠に興じて自分に会おうとはしない義景の様子に「何が蹴鞠じゃ」と鼻息荒く、今度は織田と今川の戦に思いをめぐらせるのでした。

しかし、最初に義景からの援助を断っておいて今さら仕官を求め、面接をブッチされたからって怒るのはいささか自分勝手ではないでしょうか。蹴鞠は公家・武家の嗜みですし、接待蹴鞠で「バカ殿」扱いされるのはちょっとかわいそう。

ところで蹴鞠といえば今川氏真ですが、義景にお株を奪われた形ですね(笑) ただ、蹴鞠の名手・氏真との共通点を考えると、やはり義景も文化面以外は無能のバカ殿として描かれる運命なのかもしれません。

さて、怒った光秀は左馬助とともに尾張へ走ります。予告を見た感じでは戦には間に合いそうにありません。史実では光秀が桶狭間の戦いに関わった記録がありませんから、ここは長良川の戦いと同じく参加しようとして間に合わなかった、という展開になるのでしょうか。

直接戦に参加していなくとも、「麒麟がくる」の光秀は帰蝶に「竹千代」というヒントを与え、間接的に関わっています。


家康と薬

一方、今川のお膝元・駿府。東庵と駒は元康の祖母・源応尼を診ているつながりからか、元康とも親しそうです。東庵と元康は将棋仲間。駒は、芳仁という男が作っている「なんにでも効くという丸薬」について元康と語ります。それを持っていった者は戦から還ってくるので、戦の折はよく売れるのだとか。「生きて帰れるのなら信じてみよう」と言う元康にその丸薬を一包差し出す駒。

そういえば家康は自分で薬草を育てて薬を調合するほどの健康オタクとして知られます。駒との関係がそこに活きるのでしょうか。

それにしても、駒は信長の正室と面識があり、秀吉に字を教え、家康とも親しい。三英傑全員とつながりをもつ庶民、一体これからどう活躍するのか、本当に楽しみです。


元康をめぐって

戦を前に、義元は亡き師・太原雪斎を診ていた東庵を呼び出して「元康は信ずるにたる人物か」と尋ねます。

永禄元(1558)年の初陣で元康は見事なはたらきを見せており、義元も「元康こそ三河の武士の棟梁にふさわしき器」と評価しています。しかし、もし元康が織田に寝返って裏切るようなことがあれば、義元の身が危うい。義元は雪斎とつながりのあった東庵に尋ねるほど、それほどまでに不安なのでしょうか。

「麒麟がくる」ではまだ登場していませんが、元康は元服後に義元の姪とされる瀬名姫(築山殿)を正室に迎え、嫡男の信康も前年の永禄2(1559)年に生まれています。瀬名姫と義元が血縁であるかどうかは微妙なところですが、義理であっても姪と婚姻させたということは今川一門に準じる存在として期待していたということ。

元康は人質として成長しましたが、瀬名姫を通じて人質のつながりが義元とあるわけで、簡単に裏切ることはできないはずなのですが……。このあたり、詳しくは「おんな城主直虎」で補いましょう。


帰蝶の策

たった3000の軍で今川の2万5000の軍と対峙しなければならない信長は、勝ちとはいわないまでも負けにはならないよう立ち回る必要があります。

碌な策もなく堂々巡りの軍議を抜け出した信長は、元康の母と叔父に会うという帰蝶に、「誰に知恵をつけられた?」と満面の笑み。信長と帰蝶は夫婦というより強い絆で結ばれた共同統治者という感じですね。

このころにはすでに信長最愛の人といわれる側室・生駒吉乃との間に嫡男の信忠ほか信雄、徳姫の三人の子がいるのですが、帰蝶との間には子ができなかったとされています(異説はあり)。

そこはどうしようもありません。帰蝶は母まで失った信長が最後にすがる相手(家族)であり、道三ゆずりの才覚で信長をワクワクさせる存在なのです。確かな信頼があります。


母からの文

信長・帰蝶と対面した於大の方と水野信元。於大の方は16年会っていない我が子の顔も声も忘れてしまい、もはや母子といえるのか……と心境を吐露します。

信長は「20年会わずとも名を聞けば胸を刺される、母は母じゃ」と言います。母に嫌悪され続けてもそう断言する信長の言葉は重いですね。

於大の方は元康への文をしたためており、それは菊丸によって元康に届けられました。大高城に入って母からの文を受け取った元康は涙します。

「母はひたすら元康殿に会いたい」と子の無事を願う母の文に、元康は何を感じたのか。「何を今さら、織田に利用されて」とひねくれてもいいところですが、幼くして母と引き離されてずっと母に会うことを願ってきた元康ならそうはならないでしょう。

この時点で家康はまだ「元康(義元からの偏諱)」ですが、20回のタイトルは「家康への文」でした。

「元康って誰?」と思う人も多いでしょうから単純にわかりやすさを考えたものでもあるでしょうが、この於大の方の文こそ元康を今川からの独立へ突き動かしたものであるということなのではないでしょうか。



【参考文献】
  • 『国史大辞典』(吉川弘文館)
  • 奥野高広・岩沢愿彦・校注『信長公記』(角川書店、1969年)

※この掲載記事に関して、誤字脱字等の修正依頼、ご指摘などがありましたらこちらよりご連絡をお願いいたします。

  この記事を書いた人
東滋実 さん
大学院で日本古典文学を専門に研究した経歴をもつ、中国地方出身のフリーライター。 卒業後は日本文化や歴史の専門知識を生かし、 当サイトでの寄稿記事のほか、歴史に関する書籍の執筆などにも携わっている。 当サイトでは出身地のアドバンテージを活かし、主に毛利元就など中国エリアで活躍していた戦国武将たちを ...

コメント欄

  • この記事に関するご感想、ご意見、ウンチク等をお寄せください。