※『名将言行録』より
天文20年(1551年)、秀吉は東国で暮らすために家を出て、尾張清洲へ向かい、針を買っては売って銭をかせぎ、それを元手に東へ向かった。
そして、秀吉が遠江国の引間の橋の上で休んでいるとき、ちょうど今川家臣の松下之綱が飯尾豊前守のもとへ行くために通りかかったときのことである。
--遠江国引間--
汝はどこの者か?
尾張の者ですが、東国のほうに働きにでかける途中です。
うははは!
お主の男っぷりで誰が召し抱えるというのだ!
貴殿は大将たるべき器ではない方ですね。貴殿が気に入らぬからといって他の者が同じとは限らないでしょう。浅はかなお言葉ですね。
ふっ。もっともなことだ。
おもしろい奴じゃな・・。わしの家来にしてやろう。
・・・・・・。
ん?なにを考えておるのじゃ。
貴殿のご身分がどれくらいかを考えております。
なぬっ?ではどのくらいだと思うのか?
おおかた8千から1万石の間かと。
ぬ!なぜそう思うのだ?
尾張で1万石取る方よりは劣り、5千石とる方はちょうど貴殿ぐらいの様子。
このあたりは場所柄、尾張よりは劣るため、そう申し上げたのです。
ほほう・・。ではわしがそなたを召し抱えるのに何か差しさわりはあるか?
・・・どこにも断る理由はありません。
こうして橋の上ですぐさま主従の約束をすることになった。松下之綱は飯尾豊前守のところへ秀吉も連れて行き、事の経緯を話した。
そして、飯尾豊前守は(秀吉を)一見して女房どもにもみせた。
--飯尾豊前守の邸宅にて--
なにかうたってみろ。
これに秀吉は柱をつたって猿のような身のこなしで田植え歌を謡い、奥の女たちをおおいに喜ばせた。そして、ことの他に気に入られたようであり、"秀吉をもらい受けうけたい" との声まであがった。
そして、之綱は秀吉を呼び出して言った。
そちは幸せ者だな。ここの娘御お久殿が、そちをもらわれる ということだから遣わすぞ。
それはお断り申します。
いま、もらわれるということは、そちにとって良い事じゃぞ。
はははっ。もらおうという人も人なら、やろうという人も人です。
むっ!
主人たる者は1年使ってみて役に立たなければ暇をつかわし、家来としては3年勤めてみてよくないとわかれば暇をとる、というのが世の常。それなのに今日抱えて今日人にもらわれるとは、他に行けということであり、それは主君としての法ではないかと。
ぐぬうう・・・。
こうして之綱は秀吉の言うことに平伏し、飯尾豊前守の頼みを断って、秀吉を自分の家に連れて帰ったという。
※『名将言行録』より
永禄9年(1566年)、信長は美濃国の攻略のために斎藤氏と戦っていたが、墨俣川を隔てて攻略に苦戦していた。そこで信長は砦の構築(墨俣城)を考え、諸将らを集めた。
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砦を墨俣川の西に築いて、そこに将一人を置いて守らせようと考えておる。
家臣たち:ざわざわざわざわ・・・・
家臣たちは皆あやういと思い、誰一人として自分がその役目をしようと名乗り出る者はいなかった。
こうした中で信長が言った。
猿よ。そちはどうじゃ?
はっ!その塁は敵地に孤立しているゆえ、誰も行きたいとは申しません。
たとえ誰かが行ったとしても、その地形を十分に理解することも難しいかと。それに万が一負け戦となったならば、その後は誰も行く者はいないと存じます。
うむ・・
それゆえ、篠木・柏井・科野・秦川・小幡・守山などで、しかるべき者を選ばれるのがよいかと存じます。
また、かつてそれがしが美濃におりましたとき、そこの夜盗で名の知れた者と懇意にしておりましたゆえ、そういった者を使ってみてはいかがでしょうか。
これら夜盗の者を数えてみると、かの有名な蜂須賀小六ほか60余人もおり、その党に属している者は1200人にも及んだという。
うむ、わしもそういう者らがおるのは聞いて知っておる。だが、その者らの将を誰にすればよいのか・・。
誰もおりませんならば、ぜひともそれがしをその将にしてくださいませ!
家臣たち:ざわざわざわざわ・・・・
猿、よう言った!そちにまかせよう。
ははっ!ありがたきお言葉。
こうして秀吉は誰もが避ける危険な任務を自ら引き受け、墨俣一夜城の伝説を作ったのである。
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