「大坂の陣(夏の陣/冬の陣)」豊臣 VS 徳川の大決戦をまとめてみました
- 2023/11/22
大坂の陣(おおさかのじん)という天下分け目の大戦で、全国のその名を轟かせたのが、「真田幸村」(真田信繁)です。味方が不利な状況の中、一発逆転を狙って徳川家康の本陣目指して突撃を仕掛け、家康を後もう一息まで追い詰めたことは有名な話ですよね。
今回は大坂の冬の陣、大坂夏の陣の全貌を、少し真田寄りの視点からみていきたいと思います。
今回は大坂の冬の陣、大坂夏の陣の全貌を、少し真田寄りの視点からみていきたいと思います。
大阪の陣に至るまでの背景
豊臣秀吉没後の家康の動き
慶長3年(1598)8月、天下人・豊臣秀吉が没すると、五大老筆頭の家康は秀吉の遺命に背いて諸大名らとの姻戚関係を築いていきます。やがて、これに反発した五奉行の石田三成らと激しく対立することになり、慶長5年(1600)の関ヶ原の戦いが勃発。結果、東軍の家康方が西軍の三成方を破ります。
ただし、これで徳川家康の天下となったわけではありません。豊臣体制はまだ幼い秀頼が後継者として存在しており、家康はその後見的立場としての権勢を得るにとどまっています。ちなみに、このとき西軍に味方した真田昌幸・幸村の父子は領土を没収され、高野山麓の九度山へ配流されています。
しかし、家康は天下を完全に掌握するため、慶長8年(1603)に江戸幕府を開いて初代将軍に就任。ここに「徳川」と「豊臣」という二大権力が併存することになり、家康は天下を完全に掌握するため、徳川将軍家の地位を不動のものにしようと務めていくのです。
家康は慶長10年(1605)に嫡男の徳川秀忠に将軍職を世襲させています。そして慶長16年(1611)に二条城にて秀頼と会見。このとき秀頼の成長ぶりに危機感を抱いた家康は、豊臣政権を滅ぼす決意をしたといわれています。
豊臣政権を滅ぼす大義名分を探していた家康は、慶長19年(1614)8月、秀頼が再建して秀吉の17回忌に大仏の開眼供養を実施する予定だった京都方広寺の梵鐘の銘文に注目しました。
江戸幕府は、そこに刻まれた「国家安康」の文字が、家康の名を分断して呪詛するものだ、として問題視し、豊臣氏を厳しく追及していきます。
こうして大坂城を攻める口実を得た家康は、同年10月に討伐令を発し、大坂城へ進軍を開始、いわゆる「大坂の陣」が勃発するのです。
豊臣政権の対応
当初の豊臣政権は家康との交戦など考えておらず、片桐且元を弁明の使者として駿府の家康のもとに送り交渉で解決しようと試みています。しかし家康が転封と人質提出を要望したために交渉は決裂となりました。なお、この機会に家康は豊臣政権から且元を切り離すことに成功しています。
こうして開戦は避けられない事態となり、豊臣政権は兵糧の備蓄を始め、大坂城やその周辺の拠点の防備を進めていきました。さらに旧恩ある諸大名や牢人らに召集をかけて、軍勢は10万まで膨らんだといいます。
その中のひとりが、九度山から脱出し、大坂城に入城した真田幸村でした。真田氏はかつて戦場で二度も家康を苦しめた実績があり、幸村自身はさほど活躍した過去がないにも関わらず豊臣政権からの期待は大きく、『真武内伝』によると豊臣政権は黄金二百枚、銀三十貫目もの支度金を調えたと記されています。
幸村は大将級の待遇で大坂城に迎えられたのです。
大阪冬の陣
豊臣方は籠城策を選択
大坂城に進行する徳川勢は20万以上の軍勢でしたが、『難波戦記』によると軍議を取り仕切った大野治長は一足先に京を焼き討ちすることを提案しました。それに対し、幸村は京の占拠以上に宇治・勢多に侵入されることを警戒し、畿内に入る橋を落とすことを提案し、より積極的な出撃を主張しています。しかし、どちらの出撃案も採用されず、豊臣方は籠城策を選択しました。援軍の期待できない中での籠城戦は有効ではありませんが、それ以上に大坂城は堅牢で、徳川勢に対抗し得る要だったということでしょう。
慶長19年(1614)11月、いよいよ戦いの幕が開けますが、さすがに家康も大坂城を力攻めしようとはしていません。そんな無謀な戦い方をすれば味方の犠牲は計り知れず、形勢が逆転してしまう危険性もありました。
慎重な家康は大坂城の出城や砦を攻めて、ジリジリと大坂城を包囲する作戦をとります。
※参考:大坂冬の陣(1614年)の合戦一覧
時期 | 合戦名 | 主な人物 |
---|---|---|
11月19日 | 木津川口の戦い | 徳川方は横須賀至鎮。豊臣方は明石全登は不在。 |
11月26日 | 鴫野の戦い | 徳川方は上杉景勝。豊臣方は井上頼次、援軍に大野治長ら。 |
11月26日 | 今福の戦い | 徳川方は佐竹義宣、援軍に上杉景勝。 豊臣方は援軍に木村重成・後藤又兵衛らが参加 |
11月29日 | 博労淵の戦い | 徳川方は横須賀至鎮ら。豊臣方は薄田兼相が不在。 |
11月29日 | 野田・福島の戦い | 徳川方は九鬼守隆ら。豊臣方は大野治胤ら |
12月4日 | 真田丸の戦い | 豊臣方は真田幸村ら |
上記の戦いにおいて、大坂城周辺の豊臣方の砦は瞬く間に落とされていき、徳川勢は大坂城に接近していきました。やがて豊臣方の将は撤退し、大阪城は徳川軍によって完全包囲されることとなります。
大坂城の東・北・西は湾や川にも守られていたため鉄壁の守りでしたが、南だけは平坦な平地が続いており、家康はそこに注目して天王寺付近に本陣を置きます。
対する真田幸村はこれを予測して南の出丸を五千の兵を率いて守りました。この出丸が有名な「真田丸」です。
12月4日 真田丸の戦い
真田丸は大坂城の外郭から70mほど離れた場所に築かれた砦で、東西に180m、空堀と三重の柵、櫓は武者走りで結ばれ、2m間隔の狭間には6挺ごとの鉄砲が配備されていました。ここを徳川勢が攻めたのは12月4日の夜明け間近のことです。
徳川方は密かに南条元忠の内応を取り付けていましたが、これは看破されており、元忠は処刑されていました。そうとは知らずに真田丸に攻め寄せた前田利常、井伊直孝、松平忠直らの兵は空堀で狙い撃ちされて甚大な被害を受けます。退却することも難しい状況に陥った徳川勢は夕方までに1万5千人の戦死者を出しました。
これは大坂冬の陣全体の徳川勢の戦死者の8割を占めており、幸村の活躍が最も大きなダメージを徳川勢に与えたことを証明しています。
幸村にはこれまで父・昌幸と違ってこれといった武勇伝がありませんでした。しかし、真田丸での徳川の大敗は近隣諸国にもに知れ渡り、この戦いで幸村の武名は一気に轟いたのです。
徳川による砲撃戦から講和へ
真田丸で大敗した徳川軍ですが、その後も家康は大阪城の包囲を続け、同時に水面下で講和交渉もすすめていきました。徳川と豊臣の交渉で一番の問題は豊臣方の牢人の処遇でした。秀頼は徳川に対して牢人衆への扶持(=武士に米で与える給与)の加増を求めるなどし、交渉は難航していました。
しかし、徳川方は12月16日よりイギリスやオランダから購入した大砲による大坂城への集中砲火を開始。「鬨の声」をあげるという作戦にでます。これにより淀殿が動揺し、豊臣方が態度を軟化させたことで、最終的には以下の条件で講和となりました。
- 豊臣の牢人衆たちは加増はない代わりに不問とする。
- 秀頼の本領を安堵する
- 秀頼の身の安全の保証する
- 淀殿の人質としての江戸在住は不要
- 淀殿の代わりに織田有楽斎・大野治長より人質を差し出す
- 大阪城を開城すれば、望む国を与える
- 大阪城惣構・二の丸・三の丸の破却、堀の埋立て
和睦期間中
丸裸となる大坂城
大坂城惣構・二の丸・三の丸の破却は慶長20年(1615)1月22日ごろに終了しています。当初の予定では惣構の破却は徳川方が担当し、二の丸・三の丸の破却は豊臣方が担当するはずでしたが工事が遅々として進まないため、徳川方が二の丸・三の丸を破却し、堀もすべて埋めてしまいました。
もともとは惣構だけの破却だけが和睦の条件で、家康の陰謀により二の丸、三の丸が破却されたという話が有名ですが、真実は違うようです。
『武功雑事』によると、この大坂城攻めの手法は秀吉が生前に語ったものだという逸話が記されています。和睦して堀を埋めて大坂城の防衛機能を奪い取ってから再度攻めるという策を秀吉は語っています。
だからこそ幸村ら牢人たちはこの和睦の条件に異論を唱えていたのでしょうが、肝心の秀頼や治長は楽観視していたようで、結局、大坂城は完全に丸裸にされてしまいます。
両者が再び対立した原因
家康はこれより先に駿府に帰還しており、秀忠が岡山に在陣して埋め立ての指揮をとっています。その駿府に大坂城の不穏な動きが報告されたのが同年の3月のことです。京都所司代である板倉勝重は、「牢人が堀を掘り返していること」、「米や材木の備蓄を始めていること」、「大野治房が一万二千の牢人を召し抱えて開戦の準備を進めていること」などを家康に次々と報告しています。
秀頼や治長は和睦を維持したい考えでしたが、治長の実弟の治房は逆の考え方で勝手に大坂城の金銀を牢人たちに分配するなどして対立。4月には犯人は不明なものの治長暗殺未遂事件も起こっています。徳川方との戦いを望む者たちの仕業だったのかもしれません。
こうした豊臣方の不穏な動きに対し、家康は「秀頼の大坂城退去」か「牢人の全追放」の二者択一を突きつけ、それを拒否されると、4月6日には諸大名に軍令を発し、伏見・鳥羽に集結させ大坂城を再び攻めることを決断します。
和睦中の真田幸村は・・・
幸村はこの和睦期間に徳川方に味方している甥の真田信吉や真田信政と会見したり、旧友と再会したり、故郷上田に住む姉や小山田氏に書状を送るなどして、最期の決戦に向けて身辺整理も行っています。家康が豊臣氏を滅ぼすために動き出すことを予測していたのでしょう。
大阪夏の陣
戦いを回避することが不可能であることを悟った秀頼は4月26日、徳川方に先制攻撃を仕掛け、治房が二千の兵で大和郡山城を落とします。こうして大坂夏の陣が幕を開けたのですが、迫る徳川勢は15万。寡兵の治房は郡山城を捨て、大坂城に帰還しました。
※参考:大坂夏の陣の合戦一覧
時期 | 合戦名 | 主な人物 |
---|---|---|
1615年 4月27日 | 郡山城の戦い | 徳川方は筒井定慶。豊臣方は大野治房。 |
4月29日 | 樫井の戦い | 徳川方は浅野長晟。豊臣方は大野治房・治胤、塙団右衛門ら。 |
5月6日 | 道明寺の戦い | 徳川方は伊達政宗ら。 豊臣方は後藤又兵衛・明石全登・毛利勝永・真田幸村ら |
5月6日 | 八尾・若江の戦い | 徳川方は藤堂高虎・井伊直孝ら。豊臣方は木村重成・長宗我部盛親。 |
5月7日 | 天王寺・岡山の戦い | 豊臣方は真田幸村・毛利勝永ら |
5月6日 道明寺の戦い
大坂城での籠城ができなくなっている豊臣方は、出撃するより選択肢がなく、京と大和から進軍する徳川勢が合流する国分で迎え撃つことを決断します。5月6日、幸村は道明寺で、先進する後藤又兵衛と合流するはずでしたが連携がうまくいかず、その間に後藤勢は壊滅。一説には濃霧で進軍に手間取ったためともありますが真偽は不明です。
幸村は、勢いに乗る伊達政宗の軍勢を伏兵で撃退することに成功しています。さらに退却時には殿を務め、このとき幸村が徳川勢に対し、「関東勢は百万の軍勢がいるのに、男はひとりもいない」と言い放った逸話が有名です。
5月7日 天王寺・岡山の戦い
5月7日、家康は自らが総大将として天王寺口から大坂城本丸へ侵攻。将軍の秀忠は岡山口より侵攻しました。豊臣譜代の軍勢は岡山口を守り、幸村ら牢人衆は天王寺口を守ることになります。最終決戦では、秀頼自らの出陣とともに全軍が突撃し、とにかく家康の首を獲ることが目標でした。幸村は茶臼山に三千五百の兵で布陣して徳川勢を誘引し、別働隊の明石全登がその背後を突く作戦に出ますが、淀殿らの反対にあい秀頼の出陣は見送られ、さらに毛利勝永の軍勢が徳川方に先走って銃撃を仕掛けてしまって作戦は破綻。それでも毛利勢が本多忠直を討ち、小笠原秀政を撃退して活路を見出すと、幸村は家康の本陣目指して突撃します。
幸村は前線の松平忠直率いる越前勢を破り、さらに徳川頼宣率いる駿府勢も敗走させ、ついに家康の旗本を切り崩しました。家康の馬印が倒れるほどの有様で、家康は命からがら三里ほど退却していますが、このとき家康は自害することすら覚悟したと伝わっています。
ここで幸村は治長と協議し、秀頼出陣を再度お願いし、さらに有利な状況に持ち込もうと考えましたが、これが裏目に出ます。
治長が戦線離脱し大坂城へ向かったところ、味方の豊臣方には敗北と映ってしまい、寝返って大坂城に火を放つ者や逃亡を図る者が続出して崩れてしまったのです。治長が秀頼の馬印を掲げたまま大坂城に戻ったことが誤解を招いたとも伝わっています。
そんな劣勢となった中でも三度に渡り突撃を試みた幸村の軍勢でしたが、兵は連日の死闘で満身創痍となっていて退却せざるを得なくなり、安居天神の近くで忠直の軍勢に襲われ、幸村は西尾仁左衛門に討たれました。
おわりに
幸村を戦死した後、治長は秀頼の正室で秀忠の娘である千姫を送り出して秀頼と淀殿の助命を嘆願しましたが受け入れられず、炎上する大坂城は落城。5月8日には秀頼と淀殿は自害し、豊臣氏はここに滅亡しています。大坂冬の陣、夏の陣を通じて大いに活躍し、家康を苦しめた幸村は「日本一の兵」と称えられ、後世までその勇名を轟かせました。
冬の陣での和睦はいたしかたないとしても、夏の陣で豊臣方が一枚岩になれていたとしたら家康を討てていたかもしれないだけに、残念に感じてしまいます。しかし、こうして徳川氏に逆らう勢力が一掃されたからこそ、日本は長い戦国乱世の時代に終わりを告げることができたのです。
幸村の死とともに戦国の世は終焉を迎え、日本に平和が訪れたともいえるでしょう。
【主な参考文献】
- 平山優『真田三代』(PHP研究所、2011年)
- 平山優『真田信繁 幸村と呼ばれた男の真実』(KADOKAWA、2015年)
- 丸島和洋『真田四代と信繁』(平凡社、2015年)
- 小林計一郎編『(決定版)真田幸村と真田一族のすべて』(中経出版、2015年
- 新人物往来社『真田幸村 野望!大坂の陣』(新人物文庫、2010年)
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