「どうする家康」長篠城主・奥平信昌はなぜ武田勝頼に頑強に抗戦したのか?
- 2023/06/05
大河ドラマ「どうする家康」第21話は「長篠を救え」でした。甲斐の武田勝頼(信玄の後継者)による長篠城(愛知県新城市長篠)攻めにより、苦境に立つ城主・奥平信昌の姿が描かれていました。三河国の豪族・奥平氏は、武田氏に降ることもありましたが、元亀4年(1573)頃には、徳川家康方に寝返ることになります。
奥平氏には、他豪族(菅沼氏)との所領配分をめぐる対立があったのですが、武田氏は奥平氏に有利な裁定を下そうとはしませんでした。これに不満を抱いた奥平氏は、家康に通じるようになったのです。家康はこのチャンスを逃すまいと、奥平氏の懐柔に尽力。同氏の知行地を安堵することや、新たな知行を与えること、更には家康の娘・亀姫(1560年生、母は築山殿)を奥平信昌に嫁がせることなどを約束しています。
天正3年(1575)2月、信昌は長篠城に入りますが、同年5月、それを攻囲し、激しく攻め立てたのが、武田勝頼の軍勢1万5千でした。勝頼としては、武田を裏切った信昌を許せぬという想いだったでしょう。一方、信昌もこれまでの経緯から簡単に降伏することなどできません。長篠城は要害の地にありましたが、武田軍は昼夜を問わず、激しい攻撃を仕掛けたとされます。
長篠城陥落の危機に、家康はどのように対応したのか?織田信長に援助を求めたのです。信長はその要請に応え、岐阜を出馬します(5月13日)。しかし、家康や長篠に籠る将兵としては、信長がいつ出陣するか、どこまで到達しているか、不安なところもあったのでしょう、『三河物語』(江戸時代初期の旗本・大久保彦左衛門の著作)には、長篠城に籠る武士・鳥居強右衛門を城から抜け出させて、信長が出陣しているか見てこいと命じています。城から上手く抜け出した強右衛門は、信長の陣に辿り着きます。信長が出陣していることを確認した強右衛門は、再び長篠城に入ろうとするのです。
ところが、その直前に武田方に捕縛され、勝頼の面前に引き出されます。勝頼は強右衛門に「お前を磔にして城に見せるから、その時に、信長は 出陣しておらん、よって城を明け渡せと言え。そう言えば、命を助け、知行地を与えようぞ」といい勧誘。強右衛門はその時は勝頼の誘いに乗ると言明しますが、いざ、城近くで磔にされて晒されると「信長は岡崎までご出陣。よって、運は開けよう」と長篠城の将兵を勇気付ける言葉を発するのです。
武田方の怒りをかった強右衛門は、すぐさま、処刑されてしまいます(5月16日頃か)。自らの命を差し出して、長篠城陥落を食い止めた強右衛門。一説によると、その姿に感動した落合佐平次(武田方の武士)は、磔にされた強右衛門を描き「旗指物」にしたと言われています。これが有名な「落合左平次道次背旗」(東京大学史料編纂所所蔵)です。
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