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江戸幕府10代将軍・徳川家治が流行らせたユニークなボードゲームとは
- 2023/05/18
そんな中、10代目の徳川家治(とくがわ いえはる)は突出した功罪がなく、あまり目立たない存在といえるのではないでしょうか。むしろ家治が重用した側用人の田村意次の方が、人物像や実績が広く知れ渡っています。しかしそんな家治は、ある分野で大いに才能を発揮していたのです。
実は徳川家治には歴代将軍の誰よりも秀でたものがありました。それが将棋の腕前です。
江戸時代の半ばに段位の制度が固まり、「名人」は九段と位置付けられました。その下の「半名人」が八段。家治はそのすぐ下の七段、「上手」の格として認められていたようです。
興味深いことに、天明2年(1782)に当時の名人だった九代大橋宗桂と平手(ハンデ無し)で指した棋譜が残っています。この対局は宗桂が勝ちましたが、最後は家治が連続王手をかける1手差の熱戦でした。ただ、将軍相手ゆえに宗桂が手心を加えた可能性はありますが・・・。
この時代は歴代のトップ棋士が幕府に100題の詰め将棋作品集を献上する慣行もありました。家治も同じように「御撰象棊攷格(ぎょせんしょうぎこうかく)」という詰め将棋作品集を発表しています。これをまとめるにはかなりの労力と時間が必要で、家治の将棋熱は本物だったと言えるでしょう。
そんな家治が一時期国内で流行させたのが、「七国象棋」という将棋風ボードゲームです。これは中国将棋(シャンチー)の変種で、最大で7人も参加できます。対局は中国の戦国時代に覇を競った秦、楚、韓、斉、魏、趙、燕の7国に模して行います。現代の将棋のように取った駒を自分の味方として使うことはできませんが、敵将を討てばその配下の駒を動かせます。対戦者同士が同盟を組む「合従連衡」なんて戦略もあったようです。
家治は名君の呼び声高い8代目の吉宗に帝王学をたたき込まれました。文武に秀でた才人でしたが、四十路を過ぎた頃から政治を放り出して将棋などの趣味に没頭するようになり、50歳で亡くなりました。そんな晩年の振る舞いのせいで、後世の人びとにあまり良いイメージを持たれていません。歴代将軍に比べて影が薄いのも、そのあたりに理由があるのでしょう。
ただ、家治の後半生は昨今話題の「FIRE」(早期リタイア)と通じるものがあります。人生を楽しむ余力があるうちに、仕事を辞めてやりたいことをやる・・・ 将軍としての評価はさておき、その生き様はわれわれ現代人にとっても、大いに参考になるのではないでしょうか。
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