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千葉佐那は坂本龍馬の許嫁だったのか?

山梨県甲府市の清運寺にある千葉佐那(さな子)の墓
山梨県甲府市の清運寺にある千葉佐那(さな子)の墓
幕末に活躍した坂本龍馬は、日本で初めて新婚旅行をしたと言われており、そのお相手は京都で知り合った「お龍」という女性です。ところが龍馬は、「若き日に江戸で修行をしていた道場主の娘と許嫁だった」と言われていたそうです。それはお龍とは別の女性でした。女性の名は千葉佐那。彼女の生涯をたどってみました。

坂本龍馬が修行した道場とは

坂本龍馬は、天保6年(1835)に土佐藩(高知県)の郷士の家に生まれ、嘉永6年(1853)に剣術修行のため江戸へ出ます。龍馬が修行先に選んだのは、北辰一刀流の千葉定吉道場でした。北辰一刀流は千葉周作が流祖で、神田お玉が池に築いた玄武館は江戸を代表する道場として、全国各地から多くの武芸者が集まっていたのです。

千葉定吉は周作の弟で、桶町に道場を構えていました。龍馬は、父親から言い渡された修行の心得をよく守り、熱心に剣術の腕を磨いていたものと思われます。千葉佐那は定吉の長女で、この時が最初の出会いでした。

龍馬は、安政3年(1856)に二度目の江戸留学をし、再び桶町道場で修行を積んだのです。その成果もあって、定吉から剣術や長刀の目録・皆伝が与えられました。現存する目録には佐那の名前も記されています。

千葉佐那はどんな女性だったのか

佐那は天保9年(1838)の生まれですので、龍馬より3歳年下になります。桶町道場の娘ということで、幼い時から剣術の修行に励んでいたようで、男性顔負けの実力の持ち主だったと言われています。とくに長刀はかなりの腕前で、宇和島藩8代藩主伊達宗城の稿本「藍山公記(らんざんこうき)」には、伊達家の姫に剣術を教えていたという記述があります。

龍馬は文久2年(1862)に土佐藩を脱藩し、勝海舟の弟子になる前、桶町道場に身を寄せていた時がありました。佐那とは約6年ぶりに再会したわけですが、その翌年には姉の乙女あてに、佐那を紹介する手紙を送っています。

手紙によると、佐那は「馬に乗れ、剣や長刀ができて、力は並みの男より強い」と評しています。さらに「14歳で皆伝となった」と記していますが、このことは宇和島藩の記録を裏付けるものと言えるでしょう。

龍馬の許嫁として明治を生きた佐那

龍馬が桶町道場を離れてからは、佐那が龍馬と再会するチャンスはなく、慶応3年(1867)に龍馬が暗殺されたことで、二度と逢うことができなくなったのです。

明治に入ってから、佐那は心得のある灸の施術で生計を立てていたといい、足立区千住に千葉灸治院を開業しました。山梨県出身の自由民権運動家である小田切謙明と妻の豊次も通院し、佐那と親しくしていたそうです。

明治26年(1893)8月22日付の山梨日日新聞に「坂本龍馬氏の未亡人を訪ふ」という記事が掲載されました。ジャーナリストが佐那にインタビューした記事で、「龍馬と結納を交わし、龍馬から桔梗の紋が付いた小袖をもらった」などと書かれていました。

佐那は生涯独身を貫いたと言われていますし、生前「私は坂本龍馬の許嫁だった」と話し、小袖を見せたという話も伝わっています。佐那の没後、小田切豊次が分骨してもらって建てた甲府市内の墓には「坂本龍馬室」の文字が刻まれました。

おわりに

文久3年(1863)の龍馬の手紙には、佐那の人物像にも触れられています。そこには「十三弦を弾き、絵を描く」というたしなみがあり、「物静かな人だった」と記され、文武両道にすぐれた女性であることをうかがわせます。

また龍馬は、初恋の人とされる平井加尾を引き合いに出し、「かおかたち、平井より少しよし」と書いています。手紙からは、許嫁だった事実はくみ取れませんが、佐那に特別な思いを持っていたことは間違いなさそうですね。

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  この記事を書いた人
マイケルオズ さん
フリーランスでライターをやっています。歴女ではなく、レキダン(歴男)オヤジです! 戦国と幕末・維新が好きですが、古代、源平、南北朝、江戸、近代と、どの時代でも興味津々。 愛好者目線で、時には大胆な思い入れも交えながら、歴史コラムを書いていきたいと思います。

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