「富山の役(越中征伐、1585年)」羽柴秀吉 VS 佐々成政!大軍包囲で圧倒、北陸の反秀吉派掃討作戦
- 2020/10/12
信長亡き後、その覇業を継承して天下人となった秀吉。しかし織田家中は決して一枚岩ではなく、秀吉をリーダーとすることに反発した勢力が少なからずありました。その最たるものが猛将・柴田勝家との軋轢ではないでしょうか。
ご存じのとおり勝家は秀吉によって滅ぼされますが、その余波はさらに越中(現在の富山県あたり)にまで及びました。それは織田家中でも名将として誉れ高い、佐々成政との対決です。
柴田勝家を降し、徳川家康と講和を結んだ秀吉は、反羽柴の一派であった成政を討つべく北陸方面へと大軍勢を動員します。今回はそんな「富山の役(越中征伐)」について、秀吉軍の部隊編成を参照しながらみてみることにしましょう。
ご存じのとおり勝家は秀吉によって滅ぼされますが、その余波はさらに越中(現在の富山県あたり)にまで及びました。それは織田家中でも名将として誉れ高い、佐々成政との対決です。
柴田勝家を降し、徳川家康と講和を結んだ秀吉は、反羽柴の一派であった成政を討つべく北陸方面へと大軍勢を動員します。今回はそんな「富山の役(越中征伐)」について、秀吉軍の部隊編成を参照しながらみてみることにしましょう。
合戦の背景
佐々成政とは
最初に、富山の役で秀吉の攻撃対象となった「佐々成政」とはどういう武将だったのかをおさらいしておきましょう。成政は信長の精鋭として名高い、「黒母衣衆(くろほろしゅう)」の筆頭を務めたことで知られています。黒母衣衆は親衛隊である馬廻からの選抜とされ、若くして信長の側近かつ実動部隊として活躍したことがうかがえます。
信長死後の織田家中における主導権争いで、主に羽柴秀吉と柴田勝家が対立したのは周知のとおりです。本来、佐々成政は北陸方面司令である柴田勝家の与力であり、清洲会議以降での立場は一貫して反秀吉の陣営でした。
天正11年(1583)の賤ヶ岳の戦いでも勝家派につきましたが、越後の上杉景勝への抑止力として自身は越中を動けず、部隊員を派遣するに留まっています。勝家の敗北後は剃髪して子女を人質として供出、秀吉に恭順する姿勢を示して越中一国を安堵されます。
翌年には秀吉の茶会に招かれ官職名を授かるなどしていましたが、徳川家康とのパイプを構築して再び反秀吉の旗色を鮮明に。そして天正12年(1584)の小牧・長久手の戦いで家康と講和した秀吉は、各地へ大規模な征討軍を派遣し、越中の成政も標的となるのでした。
戦に至る経緯
小牧・長久手の戦いにおける講和は秀吉の政治的勝利ともいわれていますが、越中の佐々成政はほぼ兵力を温存した状態のまま反抗を続けていました。秀吉にとってはいわば旧織田家中における最後にして最大の反勢力であり、信長の継承者としてどうしても越えなければならない壁であったともいえるでしょう。
天正13年(1585)7月、すでに紀州・四国方面の平定を決定的としていた秀吉は佐々成政を征討すべく、織田信雄を総大将とする大軍の越中派遣を発令しました。
合戦の経過・結果
富山の役における羽柴軍の陣立(部隊編成)
この富山の役(越中攻め)に際しての陣立書、つまり部隊編成等の命令書が『陸奥棚倉藩主岡部家文書』に残っています。まずは以下に、その内容を書き出してみましょう。
越中江先遣覚
一番 前田又左衛門尉殿 壱万
二番 羽柴五郎左衛門尉殿 弐万
三番 木村隼人佐殿 三千
堀尾毛介殿 千
山内伊右衛門尉殿 七百
佐藤六左衛門尉殿 弐百
遠藤大隅守殿 弐百
遠藤左馬助殿 弐百
四番 加藤作内殿 千
池田三左衛門尉殿 三千
稲葉彦六殿 千五百
森仙蔵殿 千五百
五番 民部少輔殿 二千五百
蒲生飛騨守殿 三千五百
船手衆 因幡衆 二千
長岡越中守殿 二千
以上
信雄 馬廻 五千
都合五万七千三百
七月十七日 秀吉(朱印)
加藤作内とのへ
以上は秀吉の朱印が捺された加藤作内(光泰)あての陣立書であり、ここからさまざまな戦略をうかがうことができます。
一から順に番号が分けられているのは、それぞれが越中に向けて進発する順番を示していたようです。それぞれの部隊は各領地から動員され、個別に着陣したと考えられています。
一番の「前田又左衛門」とは、加賀百万石の祖・前田利家のことで、北陸方面部隊では「府中三人衆」の一角として成政の近しい同僚だった武将です。
戦闘地域からもっとも近いこともあったでしょうが、先遣隊として成政の手の内を熟知した人物を配したとも考えられるでしょう。
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二番の「羽柴五郎左衛門」とは「米五郎左」の異名で鳴らした織田の重臣である丹羽長秀の嫡子・丹羽長重を指しています。
羽柴姓を称していること、そして2万という各部隊中最大数の兵員を擁していることが注目され、先発した前田利家隊1万に続く主力打撃群としての役割が想定されます。
三番は秀吉麾下の武将たちによる部隊で、「木村隼人佐(重茲)」「堀尾毛介(吉晴)」「山内伊右衛門(一豊)」らそうそうたるメンバーといってよいでしょう。
また、「佐藤六左衛門(秀方)」「遠藤大隅守(胤基)」「遠藤左馬助(慶隆)」ら、歴戦の美濃系武将も名を連ねています。
四番はこの史料の宛先となっている大垣城主「加藤作内(光泰)」、そして岐阜城主「池田三左衛門(輝政)」、曽祢城主「稲葉彦六(典通)」、金山城主「森仙蔵(忠政)」と、いずれも美濃衆によって構成されています。
五番はともに伊勢に知行地を有している「(小島)民部少輔」と「蒲生飛騨守(氏郷)」が配され、特に蒲生氏郷は信長の娘婿としても知られています。
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次に船手衆とあるのは水軍兵力のことであり、かつての鳥取攻めの後に配下として組み込んでいた「因幡衆」、そして当時丹後宮津城主であった「長岡越中守(細川忠興)」を動員しました。海上封鎖、あるいは水上戦闘にも備えた念入りな布陣が理解されます。
最後に「信雄」とあるのは、小牧・長久手の戦いでは徳川家康と結んで秀吉に対抗した織田信雄その人のことです。
富山の役では総大将としてのポジションではありましたが、すでに秀吉に臣従する立場であったことがよくわかり、他の武将連が「殿」と称されているのに対し個人名では信雄だけが敬称をつけられていないことも示唆的です。
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計、5万7300名という大部隊の編制でした。
富山城の集中防備も、大軍包囲によるプレッシャーで圧倒
織田信雄隊が京都を出陣したのが同年の8月4日。6日には第一陣として加賀国鳥越に展開していた前田利家隊が、佐々勢との戦端を開きました。7日には秀吉自らが京を出立。19日には加賀国津幡から越中に侵攻、各所に放火しつつ成政の本拠である富山城を包囲し、自身は加賀・越中国境の倶利伽羅峠に本陣を置きました。成政はその間、国内三十数か所に分散していた兵力を富山城に集中させ、総力をあげた籠城戦の構えを示します。
富山城は西方1km弱には南北に流れる神通川、東方3km弱には同じく南北に流れる常願寺川に挟まれ、しかも5kmほど北方には富山湾が広がるという水に関する防御の固い城でした。
「浮城」の別名をもち、力押しでの攻略には多大な犠牲が想定されたため、一説には秀吉得意の水攻めが計画されたともいわれています。しかし一方で、秀吉の別動隊が成政の同盟者である飛騨国の姉小路頼綱や内ヶ島氏理を制圧し、しかも越後の上杉景勝が越中境まで軍を進めるなど、成政にとってはまさしく四面楚歌の状態へと追い込まれます。
圧倒的戦力差を悟った成政は、同26日に織田信雄を通じて降伏を通達。各地で小規模な戦闘はあったものの全面衝突は回避され、ここに旧織田家中勢力のほぼすべてが秀吉の支配下に入ることとなりました。
戦後
最後まで秀吉に反目した成政でしたが大減封のうえ助命され、大坂にて秀吉の御伽衆として仕えることになります。その後、天正15年(1587)の九州征伐での武功から肥後国に移封されますが、国内統治に失敗した責任により切腹を申し付けられます。九州平定により西日本を掌握した秀吉はついに小田原・奥羽へとその圧力を増し、天下統一への大詰めを迎えていくことになるのでした。
おわりに
富山の役は旧織田家中同士の最後の紛争ともいえるもので、秀吉はここに多くのプロパガンダを込めたとも考えられます。信長直系の信雄を総大将に置くことで配下として使役しつつ、織田家の正当な後継であるという大義を見せつけました。一方では成政を孤立させる作戦に余念がなく、大軍による「位詰め(くらいづめ)」で最小限の被害にとどめながら「格」の大きさも示威しています。
各国の武将たちもこの戦況を注視していたことが予想され、やがてくる豊臣政権への布石を十二分に意識した軍事行動だったのではないでしょうか。
この富山の役は大規模な直接戦闘が起こらなかっただけに、より秀吉の凄味が伝わってくる出来事だったように思われてなりません。
【主な参考文献】
- 「豊臣秀吉陣立朱印状」(富山市郷土博物館特別展「秀吉 越中出陣―佐々攻めと富山城」チラシより)
- 「国掟の成立をめぐって」『商経論叢 38巻4号』 三鬼清一郎 2003 神奈川大学
- 『歴史群像シリーズ 45 豊臣秀吉 天下平定への智と謀』 1996 学習研究社
- 『史籍集覧.第13冊』 近藤瓶城 編 1926 近藤出版部
- 『芳春夫人小伝』 近藤磐雄 1917 高木亥三郎
- 『富山市史』 1909 富山市
- 富山市郷土博物館
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