「織田信雄」ちょっと残念な信長次男坊?でも、終わり良ければすべて良し!
- 2020/04/06
織田信雄(おだのぶかつ)は、かの織田信長の次男です。信雄は優秀な人材がそろう織田家の中においては、どうも「残念な次男坊」のポジションから抜け出せないきらいがあります。天下人・信長の子として、周囲に利用されながら波乱万丈な人生を送った信雄。その生涯をご紹介します!
【目次】
織田信長の次男、茶筅丸
信雄は永禄元年(1558)に織田信長の次男として生を受けました。信雄の母は長男・織田信忠と同じ生駒吉乃(いこまきつの)。事実上の正室と目されていた女性です。ちなみに信雄のすぐ下の三男・織田信孝とは同い年ですが、母親が異なります。一説には、信孝の方が信雄より早く生まれていたにも関わらず、母親の身分の違いによって信雄が次男、信孝が三男とされたのだとも言われています。
さて、信雄は幼名を茶筅(ちゃせん)といいましたが、この茶筅は茶の湯でお茶を点てるときに使う道具のこと。髪を結ったら茶筅のようになりそうだから、というのが名前の由来だそうです。
変わった名前のように感じますが、名付けた信長のセンスからするといたって普通。長男・信忠は奇妙な顔をしていたから奇妙丸。三男・信孝は3月7日生まれだから三七丸。それに比べたら、「茶筅丸」はまだまともな名前のようにも感じられてしまいますよね。
伊勢国司・北畠家の養子となり、実権を奪い取る
永禄12年(1569)、父・信長は南伊勢へ勢力を拡大するため、代々伊勢の国司を務める名家・北畠氏へ討伐の兵を向けました。北畠氏の主城である大河内城を8万の大軍で取り囲み、ついには講和を結んで大河内城を開城させます。この時の条件の一つが信雄を北畠氏の養子とすることでした。この条件通り12歳で北畠家に入った信雄は、元亀2年(1572)には北畠具教の娘と結婚しました。元々、北畠家の家督は具教の息子・具房が継いでいましたが、徐々に信雄が北畠家の実権を握るようになったようです。
信雄が正式に北畠家家督を譲られたのは天正3年(1575)ですが、この頃にはすでに織田家による北畠家乗っ取りはほぼ完成していました。当主となった信雄は政務に精を出し、官位も正五位下左近衛権中将まで昇進。当主としては順調な滑り出しといえるでしょう。
しかし、信長にしてみれば、こんなことではまだまだ手ぬるい。北畠家の存在自体を消し去るため、信長は信雄に粛清を命じます。その命令通りに北畠家のことごとくを掃討。養子となって以来、北畠を名乗っていた信雄ですが、北畠の血は事実上、ここで途絶えてしまったのでした。
デキル兄・信忠への対抗心?勝手に出兵して惨敗を喫す
信雄が北畠家当主となった天正3年(1575)には、信雄の兄・信忠は、父・信長から織田家の家督を受け継ぎました。これ以降、信雄をはじめとする信長の子らは、連枝衆として信忠の下で働きました。信雄は織田軍における最大規模の遊撃軍として、天正5年(1577)の松永討伐戦、天正6年(1578)の大坂攻め、播磨出陣、有岡城攻め、と相次いで出陣し、活躍を見せています。
ところが天正7年(1579)9月、信雄は父・信長に無断で伊賀へと出兵してしまいます。前年に織田軍が修築した丸山城を伊賀衆に攻められた時の報復を行うためでした。
しかし、結果は惨敗。信雄本人は伊勢に敗走、重臣の柘植三郎左衛門らを討ち死にさせるという散々な結果に。この報を受けた信長は当然怒り心頭です。
信長は信雄へ書状を送り激しく叱責。信雄の軽率さを戒め、信長と信忠へ忠節を尽くすことを厳に命じます。「できなければ親子の縁を切る」と突き放されてしまった信雄。ですが、その汚名返上のチャンスを作ってくれたのもまた、父・信長でした。
天正9年(1581)、信雄は伊勢衆のほか、織田家の宿老や大和の筒井、それに信長の旗本である近江衆を率いて伊賀に出陣しました。大軍でもって伊賀衆を攻めに攻めた信雄、進攻からわずか10日後には伊賀全域の城塞を落城させます。信雄はさらに念を入れ、その後ひと月の間、残党狩りを行い、徹底して危険の芽を摘み取っていったため、信長が視察に来た時にはすでに平定が完了していました。
なんとか伊賀敗退の後始末を終えた信雄も、ほっとしたことでしょう。この功によって信雄は伊賀四郡のうち三郡を与えられ、面目を施しました。
本能寺の変の後、信長後継者の座を狙う
信長死後、安土城を炎上させた?
天正10年(1582)、父・信長が本能寺の変で横死したという知らせがもたらされると、信雄は明智光秀を討つため、すぐに軍を率いて近江甲賀郡土山まで進軍しました。しかし、兵力不足などの理由でそれ以上軍を進めることはできません。そこで信雄は、信長の居城であった安土城へと向かいます。一方、その安土城には光秀の武将が在城していましたが、山崎の戦いで光秀が敗れると、彼らは安土城を離れます。その直後のこと。安土城が出火して天守閣などが焼失するという事態に…。
光秀の武将が去ってから信雄が安土城に入るまでの間に何があったのでしょうか? 実はこの火災、『イエズス会日本年報』によると、信雄が放火したものだといいます。
不慮の事故だったのか、故意に信雄もしくは他の誰かが火をかけたのか…。この火災は諸説あって定かではありません。いずれにしても、信長の世の象徴である安土城の火災は、信雄の大将としての評価を著しく下げる原因となったに違いありません。
清洲会議では信長の後継者の座を逃す
天下人・織田信長の死後、その後継者選びが最大の焦点となった清洲会議。この時の後継者の有力候補は山崎の戦いで父の敵討ちに成功した弟・信孝と、織田家家督である信忠の嫡男・三法師です。信雄はといえば、信長の敵討ちに目立った功績がなかったこともあり、一歩遅れをとってしまった状態でした。結局、清洲会議では、羽柴秀吉の推す三法師が後継者と定められ、信雄・信孝は三法師を支えるといった体制に落ち着きました。
ちなみに信雄は、信長の後継者になるために姓を北畠から織田に戻しています。それなのに後継者候補として一向に名前が挙がってこなかったのは残念でしたね。ともあれ北畠の名はこれによって途絶えてしまいました。
秀吉と組み、ライバル・信孝を追い落とす
清洲会議の決定によって織田家の家督となった三法師。本来なら安土城に居るべきなのですが、信孝が側に置いて、なかなか手放そうとしませんでした。これに業を煮やした秀吉は三法師の持つ家督を信雄へ移し、信孝に対抗する方針に変更しました。信雄はあくまでも信孝に対抗するために後継者に担ぎ出されたのであって、その実力を評価されたわけではありません。しかし、この棚ぼたのチャンス到来に、信雄は武者震いしたことでしょう。
こうして三法師、織田信孝、柴田勝家の陣営と、織田信雄、羽柴秀吉、丹羽長秀、池田恒興、堀秀政の陣営との対立が徐々に深まる中、天正10年(1582)12月、ついに秀吉らが挙兵。
名目は「三介殿(信雄)のお迎えのため」とされていますが、これは清洲城から安土までの道中にある岐阜城(信孝の居城)と長浜城(柴田勝家の甥かつ養子である柴田勝豊の居城)のけん制が目的でした。
秀吉はまず長浜城を抑え、信雄合流して共に美濃に向かいました。すると美濃衆たちが次々と秀吉・信雄に降参。本来信孝を支えるべき者たちが離反したため、もう信孝には歯向かうだけの力はありません。なすすべもなく信孝は三法師を信雄へ渡し、さらに人質として信孝の母と娘を秀吉に差し出しました。
こうして信孝に勝利した信雄は、織田家家督をめでたく相承する権利を得たのでした。
秀吉に権力を握られつつも織田家家督に
信孝の死後、三法師は安土城に移されましたが、立場上はまだ織田家の家督を維持した状態でした。ただし三法師が幼い間、叔父である信雄が名代として家督を務めることになりました。やがて三法師が成長すれば、家督は本来あるべき三法師のもとに戻されるため、信雄の立場はいわば「仮の天下人」という微妙なもの。しかも天下人としての信雄はお飾りの存在にすぎず、背後では秀吉が権力を握っていました。それでも信雄は、秀吉に支えられつつ織田家家督・天下人としての体裁を徐々に整えていきました。この時はまだ、秀吉と信雄はお互いの利害のためにお互いを必要とする関係だったのです。
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秀吉と対立し、徳川家康と手を組む
ライバルを退けて天下人に上り詰めた信雄ですが、天正11年(1583)に賤ヶ岳の戦いで柴田勝家に勝利し、事実上の天下人として権力をふるい始めた秀吉には密かに警戒心を抱いていました。やがて両者は不和となり、安土城を追い出された信雄は、いずれ秀吉と闘うことを見越して三河の徳川家康と同盟を結びます。一方で秀吉も、信雄の家臣・津川義冬、岡田重孝、浅井長時の三家老を取り込もうと画策していましたが、内通を察した信雄は三家老をただちに処刑。この出来事により秀吉は信雄と対立する立場を示しました。
天正12年(1584)、信雄・家康は小牧山、秀吉軍は楽団に陣を構えて対峙しました。しかし、両軍には2度の小競り合いがあっただけで、大きな動きは見られず膠着状態に…。これを打破するために仕掛けてきたのは秀吉方。家康の本拠地である三河の岡崎城を攻めるという作戦です。しかし、家康方の忍びにこの作戦は筒抜け状態だったため、秀吉は大きなダメージを受けてしまいます。
この後も両者にらみ合いが続きますが、11月に秀吉から和睦が申し出られたため、信雄は秀吉と和解。こうなると家康も秀吉と闘う理由がなくなってしまったので、兵をおさめて講和を受け入れました。
信雄が秀吉に臣従、ついに立場が逆転
天正13年(1585)2月、信雄はついに秀吉に臣従します。秀吉がその見返りとして信雄の織田家督を承認したため、なんとか織田家の名を遺すことには成功。また、秀吉の旧主家として正二位内大臣という高位につくことも認められました。しかし天正18年(1590)、小田原攻めに従軍して北条氏の降伏を促すなどそれなりに活躍しますが、戦後に秀吉から東海五か国への転封を命じられた際、信雄は難色を示しました。この態度に対し、秀吉はここぞとばかりに信雄を追放。天下統一を成功させた秀吉にとって、信雄はもう利用価値のない男。もう不要、とばかりにさっさと追い出してしまったのです。
出家して「常真」と名を変えた信雄は、秋田、伊予へと移動させられますが、その後、秀吉の御伽衆(おとぎしゅう)として、再び秀吉の側近くに就くこととなります。大和内で1万7000石の扶持を受けるまでに復活しました。
関ヶ原の戦いではいずれにも加担せず
秀吉の死後、天下分け目と言われる慶長5年(1600)関ヶ原の戦いでは、信雄自身は両軍に通じながらもいずれかに加担することはありませんでした。しかし、息子の秀雄が西軍に着いたため、関ヶ原の戦いの後、領地を失ってしまいます。その後、信雄は大坂天満に居を構え、俗世から離れて生活していましたが、各地の大名とは連絡を取り合っていたようです。それから十数年後、慶長19年(1614)、豊臣家と徳川家の間の雲行きが怪しくなると、信雄を再び担ぎ出し、総大将として大坂城に籠城しようとする意見もあったようです。しかし、信雄自身はこれ以上権力争いに巻き込まれたくないと思ったのか、京都嵯峨へと逃れました。
おわりに
「三介(信雄)様のなさることよ…」と家中の者から呆れられるような失敗も多かった信雄。それなりに挽回はできているものの、世間からのイメージも「暗愚」などといったネガティブなものが多数派のようです。しかし、戦国時代を生き抜き、信長の血を後世にまで残すことができたのは信雄あればこそ。凡庸な二代目であったという点がかえって功を奏したのかもしれませんね。【参考文献】
- 太田牛一『現代語訳 信長公記』(新人物文庫、2013年)
- 小和田哲男編『総図解 よくわかる戦国時代』(新人物往来社、2010年)
- 谷口克広『尾張・織田一族』(新人物往来社、2008年)
- 谷口克広『信長軍の司令官 -部将たちの出世競争』(中公新書、2005年)
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