リアル・キテレツ斎!150年前にカメラや電気を操った伝説の男・大野弁吉とは?

  • 2026/02/19
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 皆さんは藤子不二雄原作のアニメ『キテレツ大百科』の登場人物、キテレツ斎のモデルになった人物をご存じですか?それは江戸後期に実在した加賀藩の奇人、大野弁吉(おおの べんきち)です。

 今回は清貧に生きた天才からくり師・大野弁吉の数奇な生涯と、彼が作り出したからくり人形の極意に迫っていきたいと思います。

父親作のからくり人形を一瞬で再現した神童

 藤子不二雄名義原作のアニメ『キテレツ大百科』の主人公は小学生発明家の木手英一。キテレツのあだ名で親しまれる彼は、先祖譲りの発明の才能を発揮し、数々の珍妙なアイテムを作り上げました。その中には航時機(こうじき)と名付けたタイムマシンも含まれるのですから、希代の天才と言わざるを得ません。

 そんなキテレツのご先祖様がキテレツ斎。キテレツの相棒を務めるからくり人形・コロ助の生みの親であり、自分の発明道具を分類した『奇天烈大百科』を後世に伝えた人物です。

 キテレツ斎のモデルと目される大野弁吉は享和元年(1801)生まれ。京都の羽根細工師・六三郎の次男として生を受け、その影響で幼少期から発明に目覚めます。「羽根細工」とは鳥の羽毛を用いた細工物をさし、手先の器用さや確かな技術が要求されました。幼い頃の弁吉は神童の呼び声高く、父が完成までに長い歳月を費やしたからくり細工の構造を一目で見抜き、あっというまに再現してみせたそうです。

 それが父子の確執を生んだのでしょうか、弁吉の子供時代は決して幸福ではありませんでした。そもそも弁吉は次男なので、いかに発明の才に恵まれていても、家督を継ぐのは難しいです。そこで比叡山延暦寺で働く叔父、佐々木右門の養子に入り、「佐々木薫」と名を改めます。以降は叔父のもとで四条派の絵を学び、彫刻の分野で頭角を現しました。

 人生最大の転機は弁吉(薫)20歳の時に訪れます。前々から海外の技術に興味を持っていた弁吉は長崎に渡り、出島に滞在するオランダ人の師を得て、語学・医学・理化学・天文学・航海術などを学びます。さらには対馬経由で朝鮮留学を果たしたというのだから、類稀なる行動力に驚かざるを得ません。一説によると彼の師は日本に西洋医学を伝えたシーボルトとも言われており、ここで弁吉は人体構造への造形を深め、のちのからくり人形の改良に生かしました。

豪商のパトロンに支えられ からくり師として本格始動

 朝鮮から無事帰国した弁吉は、一旦紀伊に滞在し、そこで馬術・砲術・算学・暦学を修めます。その後、京都の豪商・中村屋八右衛門の長女・うたに婿入りし、以降は「中村屋弁吉」と名乗ります。

 天保2年(1831)には夫婦ともども加賀藩大野村に移住。同時に一番弟子の米林八十八と出会い、ますます発明にのめりこんでいきます。大野村の隣村・宮腰に住む長者の銭五こと銭屋五兵衛と親交を結んだのもこの頃で、資金援助を得ることができました。

 当時の弁吉は「銭五の知恵袋」として五兵衛に頼られ、近隣の村人たちに親しまれていたそうです。その頃の代表的な発明品は時計からくりを駆使した茶運人形や京都の山鉾がモデルの山車、火薬を仕込んだ花火人形や螺旋仕掛けの動物模型など…。

 ライターやピストル、望遠鏡に懐中電灯に懐中磁石、さらには万歩計や測量計の試作品も作っており、先見の明には驚かされます。発明品にはエレキ(電気)を使った物も多く、この事が「加賀の平賀源内」の異名に繋がりました。

 加賀藩の儒学者・塚本稼堂は『三州遺事』にて弁吉の発明に言及しています。

「弁吉ハ多芸ナル人ニテ モトハ竹田ノ生人形ノカラクリヲ学ビシモノ」
『三州遺事』より

 生人形とは、江戸期の見世物小屋で人気を博したからくりで、別名を活人形ともいい、実際に生きているかのようなリアルさと、滑らかな動きが注目を集めました。弁吉が自作の茶運人形に生人形の仕組みを取り入れた可能性は高く、その一点をとってもこだわりを感じさせます。

 「一東」、または「鶴寿軒」と号したのもこの頃。後者の由来は不明なものの、前者の由来は生涯東の方角……即ち江戸を目指したからとされています。ならば江戸に移住すればいいのに、そうできない事情があったのでしょうか?ちょっと気になりますね。

 ちなみに夫婦仲は良好だった模様で、発明品のカメラでうたを撮った記録が残っていました。なんか想像すると微笑ましいですね。弁吉が些事に煩わされずに発明に取り組めたのは、うたの内助の功のおかげかもしれません。

金も名誉も興味なし 貧乏生活の中で発明に打ち込んだ晩年

 発明に人生を捧げる加賀の平賀源内の噂は徐々に広まり、遂には加賀藩が士官を打診してきました。若狭の小浜藩も弁吉の才に目を付け、「士官しないか?」と口説いてきます。

 弁吉はこの申し出を断り、発明以外は目立った業績を残さず、妻のうたと共にひっそり晩年を過ごしました。せっかく出世の道が開けたのに、お金に興味がなかったのでしょうか。その代わりに多くの弟子を持ち、彼等に看取られて70歳で往生しました。

 亡くなったのは明治3年(1870)です。155年前にカメラを手作りした日本人がいたと思うと、改めて驚かされますね。士官の誘いを断固として退け、発明に一生を費やした弁吉は、最期に何を想ったのでしょうか。彼が遺した発明品は石川県の大野からくり記念館に所蔵され、誰でも自由に見学できます。

 実はキテレツ斎のモデルにはもう一人います。それが江戸の鳥人間こと浮田幸吉。宝暦7年(1757)生まれの彼は、幼い頃より空飛ぶ鳥に関心を持ち、飛行のメカニズムを熱心に研究しました。

 やがて竹の骨組みに紙や布を張った人工の翼を作り、それを背中に括り付けて京橋の欄干から滑空。上手く風に乗って数メートルの飛行に成功したとも、即座に落下して笑い者になったとも言われています。

 片や川面に羽ばたいた江戸の鳥人間、片や無欲を貫いた幕末のからくり師。歴史の表舞台には立たず、趣味が高じた発明に情熱を注いだ2人がキテレツ斎の原型と考えると、無限のロマンを感じませんか?

おわりに

 以上、キテレツ斎のモデルとなった大野弁吉の解説でした。

 もし弁吉と幸吉が同時代に生きていたら、志を同じくする親友になれたかもしれません。生き方のみならず名前も似ているせいか、勝手に運命を感じてしまいました。

【参考文献】
  • 本康宏史『からくり師大野弁吉とその時代: 技術文化と地域社会』(岩田書院 2008年)
  • 太田浩司(監修)、勝盛典子(監修)他『江戸の科学 大図鑑』(河出書房新社 2024年)
  • 中江克己『大江戸〈奇人変人〉かわら版』(新潮社 2004年)
  • 村上和夫『完訳 からくり図彙』(並木書房 2014年)
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  この記事を書いた人
読書好きな都内在住webライター。

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