平賀源内は天才か、奇人か? 時代の先を行きすぎた男の生涯

平賀源内像(慶應義塾図書館所蔵、出典:wikipedia)
平賀源内像(慶應義塾図書館所蔵、出典:wikipedia)
 江戸中期にあってまだ誰も見たことが無いエレキテルを発明したちょっと変わった人…というのが、平賀源内(ひらが げんない)のイメージではないだろうか。しかし、源内はただ変わっているだけの人でも、エレキテルを作った人でもない。その一生で驚くほど多くの発明や発見をしただけでなく、芸術的な才能も発揮していた。また、その最期も科学者としては考えられないあっけないものであった。

 今回は、たぐいまれな才能を持ちながら、天命を全うできなかった源内という人物の生涯を追ってみよう。

天狗小僧・四方吉(よもきち)

 源内が生まれたのは、享保13年(1728)である。父は高松藩の蔵番・白石茂左衛門、幼名を四方吉と言った。四方吉の家はあまり裕福ではなかったため、高松藩重臣の真田家へ奉公させられている。

 この時期から四方吉の生来の好奇心と才能は、周囲の人の注目を浴びるようになる。四方吉の才を見抜いた真田家主人は、高松藩家老と相談の上、高松藩お抱え医師について本草学(植物学)を学ばせた。

 四方吉は、探求心の赴くまま、ひたすら本草学を学び続け、藩の薬草園に勤めることになる。勤めの合間には、いろいろなからくりや水時計、オルゴールのような機械などを作って人々を驚かせ、ついたあだ名が「天狗小僧」だ。

御神酒天神

 四方吉11歳の頃に作ったのが「御神酒天神(おみきてんじん)」というからくりの掛け軸。軸の裏側から糸を引くと、軸に描かれている天神の顔が赤くなってほろ酔いになるという仕掛けだ。この掛け軸、香川県さぬき市志度の平賀源内記念館に現存している。わかってみると単純な仕掛けだが、これをわずか11歳の子どもが作ったというところがシュールで面白い。

家督を継ぐ

 寛延2年(1749)のとき、父・茂左衛門が亡くなる。四方吉は家督を継ぎ、南朝の重臣だった祖先の平賀国綱に倣って、姓を平賀に改め、名は国棟(くにむね)と変えた。(ややこしいのでここからは源内で統一する)

 家督は継いだものの、源内は大人しく高松藩で生涯を過ごすつもりがなかった。本草学に留まらず、自然科学の分野への向学の心は次第に大きくなっていたからだ。

 一方、高松藩藩主・松平頼恭という人も、自然科学を愛する人物であった。頼恭は、たびたび源内を呼び出し、動植物について話し合っていたという。

長崎留学

 ちょうどこのころの将軍であった徳川吉宗は、学問に対して深い理解を持ち、自身でもさまざまな学問をしていた。その中で、西洋の書物を紐解くことの重要性に気づいた吉宗は、鎖国真っただ中のこの時期に禁書の命(西洋の書物を禁ずること)を緩めたのである。日本もようやく西洋の学問に目を向けだした。

 この流れに目をつけたのが、高松藩藩主・頼恭である。彼は蘭学の最先端であった長崎へ、源内を留学させた。

学問三昧の日々を送る

 長崎での源内は、まるで水を得た魚のように、ひたすら学び、探求し、本を読んだ。外国からの珍しい器具を解体して原理を調べ、焼き物の研究を行い、西洋画を習う。

 源内が特に夢中になったのは、外国船の船内にあった電気器具だったという。ばらばらに解体して、また組み立てながら、細部にわたるまで調べたらしい。これがのちの物理学者・源内の下地になったのであろう。

源内、江戸へ行く

 新時代の空気を思い切り楽しみ、学んで高松藩へ帰ってきた源内だが、このまま高松に引っ込んでいられるわけがない。藩主へ大坂行きを何度も願い、とうとう許される。

 晴れて大坂へ遊学する源内だが、もう高松へ帰る気はない。源内は、藩に内緒で江戸へ向かった。

本草学者・田村藍水(らんすい)

 源内は江戸で本草学者の田村藍水門下に入る。そこで本草学を学び直しながら、多くの学者、若者と交流した。しかし、いまだ高松藩へ仕えている身である。無断で江戸へ出てきてしまったことに心を痛めることもあった。

妹婿に家督を譲る

 宝暦4年(1754)。源内は、高松藩へ退役願いを出し、妹婿に平賀家の家督を譲った。しかし、主持ちではなく自由の身で学問をしたい、研究をしたいという源内の思いは、そう簡単にかなえられなかった。

晴れて自由人となった源内

 宝暦11年(1761)、度重なるいとま願いの提出により、源内はとうとう藩から離れることができた。

「格別の思し召しをもって、お扶持米召し上げられ、永のおいとま下さる。ただし、お屋敷への出入りはこれまで通りと心得られたく、他家への仕官はならぬ旨、仰せあり」

 お屋敷への出入りは許す、他家への仕官は許さないというあたり、高松藩藩主は、まだまだ源内に未練があったのだろう。いつでも帰ってきて欲しい、そして高松藩のために役立って欲しいという気持ちが見え隠れしている。

 他の藩への仕官ができないということに対して、源内はどう思っていたのか。藩という大きな後ろ盾を失ったことは、経済的には痛手になるだろうが、自分がやりたいことを自由にできる身分を得たことの方が、源内はうれしかったのではないだろうか。

 この後、源内は、八面六臂の活躍を見せる。

源内の発明した物・生み出した物

 浪人となった源内は、安定収入が無くなり、生活費や研究費を自らの手で稼がなくてはならない。源内が次々と発明品を生み出した理由の一つには、生計を立てるためという部分もあったはずだ。天才源内といえど、霞を食べて生きていけるわけはない。またさまざまな研究をするためにはお金はいくらあっても足りないくらいだっただろう。

 発明品が生み出される背景はどうであれ、源内は頭脳をフル回転させ続け、常識を超えた活躍を見せることになった。彼の活躍ぶりをざっと紹介してみよう。

薬品会・物産会をプロデュース

 源内は、師匠である田村藍水を主催者として、薬品会と称した物産展(博覧会のようなもの)を何度も開催している。この物産展により、本草学や薬学、鉱物学というものが一般にも知られるようになった。また、のべ1300種類を超える出品数の中から、厳選した360種類の解説を加えた『物類品隲(ぶつるいひんしつ)』を刊行している。

火浣布

 老中・田沼意次も喜んだというのが、燃えない布・火浣布(かかんぷ)である。秩父山で石綿を発見した源内は、それを織り込んで作り上げたのである。翌年には、『火浣布略説』を刊行している。

1765年出版『火浣布略説』(出典:国立国会図書館デジタルコレクション)
1765年出版『火浣布略説』(出典:国立国会図書館デジタルコレクション)

鉱山開発

 源内は、秩父山や秋田藩などで鉱山開発を行っている。火浣布の材料である石綿も鉱山開発の中で発見したものだ。秋田藩からは謝礼として百両もの大金を受け取ったころもあるらしい。しかし、技術者も少ない日本においては、源内が思うような鉱山開発は難しく、どの事業も数年後には自然消滅している。

源内焼を考案

 源内が考案した焼き物は「源内焼」と呼ばれ、今に残っている。明和7年(1770)に2度目の長崎幽学を行った時、源内は、中国・交趾(こうち)の美しい焼き物を見て研究をした。その作り方を郷里の志度に伝えるとともに、『陶器工夫書』として刊行している。

戯作者の顔

 源内は、博物学の書物以外に戯作とよばれる通俗小説も書いている。『根南志具佐(ねなしぐさ)』、『風流志道軒伝(ふうりゅうしどうけんでん)』を執筆して、一躍世間の注目を浴びている。『根南志具佐』は、地獄が舞台となっているが、その世界は社会風刺が効いたユーモアであふれている。わいろが横行する田沼時代、「地獄の沙汰も金次第」という世相が反映されたことで、大いに人気を博し、その後は浄瑠璃の脚本などにも手を広げている。

西洋画法教授

 長崎幽学の期間に、源内は西洋画についても学び、研究をしている。彼の弟子と言われる小田野直武は、『解体新書』のイラストを描いている。杉田玄白とも交流のあった源内が、小田野を杉田に紹介したのである。幅広い人脈と多才な源内だったからこその出会いであった。

エレキテルの復元

 源内といえば、エレキテルである。エレキテルとは、静電気を発生させる機械のことだが、源内はこれを一から作ったわけではない。もともとはオランダで作られたものだったが、源内が長崎を訪れたときに壊れたエレキテルを譲り受けたのである。

 そしてナント、源内は7年もかかって修理に成功、無事に復元したのだ。復元したエレキテルを源内は見世物にして、ちゃっかり稼いでいる。

見世物として電気ショックで人をおどろかせたエレキテル(『紅毛雜話』5巻より。出典:国立国会図書館デジタルコレクション)
見世物として電気ショックで人をおどろかせたエレキテル(『紅毛雜話』5巻より。出典:国立国会図書館デジタルコレクション)

疑問が残る源内の最期

 エレキテルを復元させて、わずか1年後。源内は獄中で亡くなった。彼が獄中にいた理由は、殺人である。

勘違いで大工を斬った源内

 その頃、ある屋敷の修繕を請け負っていた源内は、自宅を訪問してきた大工の棟梁たちと酒を酌み交わしていた。すっかり酔いつぶれて寝てしまった源内、朝になると大事な図面や建築仕様書が見当たらない。さては大工が盗んだなと思った源内は、大工を斬ってしまったのである。

 傷を負った大工は逃げ出したのだが、その後死亡。我に返った源内は、「もはや死罪は免れない」と覚悟を決め、身の回りを片付けていると…、図面や仕様書が出てきたではないか!

 自らの誤解に気づいた源内は切腹しようとしたところを、駆けつけてきた知人に止められ、牢へ入ることとなった。

死因は破傷風

 入牢して1ヶ月後、源内は切腹しようとしたときの傷がもとで破傷風になり、病死した。享年52歳。輝かしい発明や作品を生み出した天才のあまりに悲惨な最期である。

疑問が残る源内の罪状

 実は源内は酒が飲めなかったという話がある。もし本当なら、大工と酒を飲み明かすことはなかったはずだ。また、斬られたという大工は、どちらも源内と親しく、盗みの疑いがかけられるような仲ではなかったとも言われている。

 なぜ源内が刃傷沙汰に及んだのか、または全く別の事件だったのか。調べたくても源内は獄中死しているため、何の手掛かりもない。

杉田玄白、源内を偲ぶ

 源内の遺体を引き取り、葬儀を行ったのは杉田玄白だったという。玄白が源内の墓碑に刻んだ言葉を最後に記す。

「嗟非常人、好非常人、行非常事、何死非常」
(ああ、本当に変わった人だった、好みや行動は常識を超えていたが、最期まで常識を超えた迎え方をするなんて)

おわりに

 源内は、田沼意次との交流があったのだが、そのせいか、源内が獄中で死亡したというのは真っ赤な嘘で、実は田沼の手のうちに入り、密かに様々な研究や発明をしている…というドラマティックな説がまことしやかにささやかれたこともあるらしい。

「あれほどの奇想天外な男だ、どこかできっと生きているはずだ」という彼を惜しむ江戸っ子の心理が生み出したさまざまな俗説が生まれたところを見ると、きっと源内は愛すべき奇才だったのだろう。

 もし今、源内が生きていたら…いったい何をやらかしてくれるのか。見てみたかった。


【主な参考文献】
  • 平野威馬雄『平賀源内の生涯』(筑摩書房、1992年)
  • 河合敦『こんなに変わった!「日本史」偉人たちの評判』(講談社、2008年)
  • 江崎俊平/志茂田誠諦『真実の江戸人物史』(ぶんか社、2006年)
  • 『再現日本史』(講談社、2003年)

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  この記事を書いた人
fujihana38 さん
日本史全般に興味がありますが、40数年前に新選組を知ってからは、特に幕末好きです。毎年の大河ドラマを楽しみに、さまざまな本を読みつつ、日本史の知識をアップデートしています。

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