徳川家康の次男、秀康が継いだ結城氏とはどんな家柄?
- 2023/07/04
徳川家康の次男・結城秀康(ゆうき ひでやす)は関東の名門武家・結城氏の養子に入りました。あえて家康の跡継ぎの地位を望まず、他家の大名として異母弟の2代将軍・徳川秀忠をサポートする立場に徹しました。秀康を迎え入れた結城氏はどんな家柄だったのでしょうか。
結城氏は鎌倉時代以来の名門武家ですが、天下の覇権を競った戦国大名たちに比べると、かなりマイナーです。しかし、関東一円支配を狙う北条氏に抵抗し、戦国の勝ち組として生き残りました。そして、さまざまな猛将、名将を輩出した興味深い一族です。
結城氏は鎌倉時代以来の名門武家ですが、天下の覇権を競った戦国大名たちに比べると、かなりマイナーです。しかし、関東一円支配を狙う北条氏に抵抗し、戦国の勝ち組として生き残りました。そして、さまざまな猛将、名将を輩出した興味深い一族です。
秀郷流藤原氏の名門武家 名将も多数輩出
結城秀康は出生後も徳川家康に父子として認知されないなど数奇な運命をたどり、天正12年(1584)、小牧・長久手の戦いで家康と豊臣秀吉が和睦すると、秀吉の養子となります。事実上の人質です。家康の長男・信康は天正7年(1579)に織田信長の横車で切腹させられたので、秀康が最年長の子息ですが、家康は三男・秀忠を跡継ぎとします。
そして、天正18年(1590)、家康が関東へ国替えになるタイミングで、秀康は結城晴朝(はるとも)の養女を妻とし、結城氏家督を相続します。
鎌倉の最有力御家人・結城朝光の子孫
結城氏は、平将門を追討した名将・藤原秀郷の子孫、秀郷流藤原氏です。秀郷流藤原氏は源氏、平氏と並び数多くの武家を輩出。結城氏も名門意識の強い家柄です。初代は源頼朝に重用された有力御家人・結城朝光(ともみつ)。朝光は小山朝政、長沼宗政の弟で、小山氏から独立して結城氏を起こしました。拠点は下総・結城(茨城県結城市)です。なお、結城朝光は頼朝の隠し子という史料もありますが、これは俗説です。
親族である小山氏とは所領も隣接し、それぞれ嫡男不在のとき、養子を出して助け合いました。こうして戦国時代まで家名を守ってきました。
※参考:結城氏の系譜(歴代当主)
- 結城朝光(初代)
- 朝広(2代)
- 広剛(3代)
- 時広(4代)
- 貞広(5代)
- 朝祐(6代)
- 直朝(7代)
- 直光(8代)
- 基光(9代)
- 満広(10代)
- 氏朝(11代)
- 持朝(12代)
- 成朝(13代)
- 氏広(14代)
- 政朝(15代)
- 政勝(16代)
- 晴朝(17代)
- 秀康(18代)
- 直基(19代)
「結城合戦」11代氏朝、「享徳の乱」13代成朝
結城氏は室町時代中期、6代将軍・足利義教とその親族で鎌倉公方・足利持氏の対立に巻き込まれます。永享12年(1440)~嘉吉元年(1441)、11代当主・結城氏朝(うじとも)とその長男・持朝は足利持氏の遺児・春王丸、安王丸らを匿って結城城を攻められ、敗死。結城合戦です。
氏朝四男で13代当主・結城成朝(しげとも)は享徳3年(1454)、鎌倉公方・足利成氏(春王丸、安王丸の弟)に従い、関東管領・上杉憲忠を殺害。これをきっかけに、将軍家寄りの上杉氏と鎌倉公方・足利成氏が28年間戦う享徳の乱が始まります。享徳の乱は応仁の乱(1467~1477年)以上の長期戦で、関東一円に戦乱が広がりました。
東国の戦国時代の幕開けに結城氏は大きく関わっていたのです。
「生身の摩利支天」負け知らず 15代政朝
足利成氏は鎌倉から古河(茨城県古河市)に拠点を移し、古河公方と呼ばれます。古河公方に従って戦った結城氏では当主の若死にが続きます。中興の祖は15代当主・結城政朝(まさとも)。生涯4度の主要合戦に勝利し、『結城家之記』で「生身の摩利支天(まりしてん)」とたたえられます。その遺言は猛将らしい激しさがありました。
「自分が死んだら小田氏、宇都宮氏が攻めてくるぞ。その者たちを討ち取って、その首をわが墓前にささげよ。(自分の葬儀など)供養や宝塔は不要だ」
佐竹、宇都宮とともに反北条連合の一角
16代当主・結城政勝(まさかつ)は弘治2年(1556)、分国法「結城氏新法度」を制定します。これが家臣の生活態度まであれこれ規定した法律で、家臣の統制に心を砕いたことが分かります。結城政勝は実子に先立たれており、小山高朝の三男を養子に迎え、跡継ぎとします。17代当主・結城晴朝(はるとも)です。小山氏からの養子ですが、小山高朝自身が結城政朝の三男です。晴朝は伯父(結城政勝は結城政朝の次男)の養子となったわけです。
実家・小山氏の祇園城を攻めた17代結城晴朝
このころ、北条氏の北関東侵攻が激しさを増します。晴朝は当初、北条氏寄り。宇都宮氏、佐竹氏、小田氏を相手に合戦と和睦を繰り返していました。天正4年(1577)ごろには一転、佐竹氏、宇都宮氏と同盟。反北条連合の一角を担います。北条氏に降伏した実兄・小山秀綱とは敵対関係に。天正18年(1590)、北条氏滅亡時には、小山秀綱の居城・祇園城を攻め落とします。小山秀綱は所領を失います。小山秀綱、結城晴朝の兄弟は勝ち組と負け組に明暗が分かれました。
幻の当主・宇都宮出身の結城朝勝
17代結城晴朝は宇都宮氏と同盟したとき、宇都宮広綱の次男を養子に迎えます。結城朝勝(ともかつ)です。結城氏側の史料には、朝勝は歴代結城氏当主に数えられていません。ところが、ほかの史料からは、結城晴朝が隠居し、朝勝が当主の座に就いたことが有力視されています。
しかし、家康次男・秀康を養子に迎えたとき、この関係は解消されます。結城氏にとって、宇都宮氏出身の結城朝勝は邪魔な存在で、佐竹、宇都宮との反北条連合も用済み。むしろ、関東での大名の連携は家康にとって目障り。結城晴朝はスパッと宇都宮との連携を切りました。
同盟関係にあった宇都宮氏、佐竹氏と距離を置き、家康に接近していく結城氏。その方針転換は重臣の間でも賛否が分かれました。水谷氏と多賀谷氏です。
水谷勝俊は積極的に結城秀康を迎え入れました。一方で多賀谷重経は、秀康派の嫡男・多賀谷三経を排除して、佐竹義重の四男・宣家を養子に迎え、家督を譲る始末。結局、多賀谷重経は結城氏を離れ、佐竹氏に臣従しました。
秀康は大幅加増で越前へ そして松平〝復帰〟
慶長5年(1600)の関ヶ原の戦い後、加増幅が最も大きかったのは、関ヶ原で戦ったどの武将でもなく、結城秀康でした。関東に残って上杉景勝を封じた功績で結城10万1000石から越前北の庄(福井県福井市)68万石余。50万石以上の加増です。結城秀康は武芸、人望とも評価され、本多正信が「後継者にふさわしい」と家康に進言したという逸話もあります。異母弟である2代将軍・秀忠やその側近には少々厄介な存在でもあり、警戒の対象となってしまいます。しかし、結城秀康自身が将軍の座を狙った形跡はなく、立場をわきまえていたようです。
結城秀康の子息は松平姓に
慶長12年(1607)、結城秀康は34歳で病死。秀康長男は結城姓を捨て、松平忠直。400年続く関東の名門より、将軍家の同族の方がやはり魅力的。なお、結城秀康が越前移転後、松平姓に戻したという説もあります。秀康五男・直基が結城の家督を継ぎますが、結城晴勝死後は松平姓に戻します。
おわりに
江戸時代初めに大名としての結城氏は消えますが、大名の家老や藩士として存続する分家はいくつかありました。養子・結城秀康の移転に伴って越前に移った結城晴勝は、故郷への帰還を強く願いながらも果たせず、81歳の生涯を終えました。数多くの名門武家が消えていった戦国時代をしたたかに生き抜き、家康への接近も戦略として間違いではなかったはずです。それなのに所領、家名、血筋が跡絶えました。往生を迎えたとき、結城晴勝の胸中に去来するものは何だったでしょうか。
【主な参考文献】
- 荒川善夫『シリーズ・中世関東武士の研究8下総結城氏』(戎光祥出版、2012年)
- 産経新聞社宇都宮支局編『小山評定の群像 関ヶ原を戦った武将たち』(随想舎、2016年)
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