今川氏と松平氏が鎬を削った戦場!三河「吉田城」の歴史について

帯刀コロク
 2021/03/22

吉田城の模擬鉄櫓(愛知県豊橋市今橋町)
吉田城の模擬鉄櫓(愛知県豊橋市今橋町)

信長・秀吉・家康の三人を「三英傑」と呼ぶことがあります。 長きにわたる戦国の世を終わらせていく道筋をつけたともいえる武将たちで、歴史上の人物としても高い人気を誇っています。

そんな三英傑ですが、彼らにはある共通点があります。それは「愛知県出身」ということ。正確には信長・秀吉は「尾張」、家康は「三河」の出身ですが、古くからこの地域は優れた武将たちが鎬を削る激戦地だったといえます。

今回はそんな三河地方の重要拠点であり、今川氏や徳川氏が基地としてきた「吉田城」の歴史についてみてみましょう!

吉田城とは

吉田城は現在の愛知県豊橋市今橋町に所在した平城です。豊川と朝倉川の合流点、豊川の左岸という立地から河川を天然の防御線として利用したタイプの城であることがわかります。

当初は土塁と空堀といった簡易的な防御機構のみを備えた構成でしたが、16世紀終わりごろには大きな改修を受けたことが調査で判明しています。それは川を背にした本丸を二の丸・三の丸・侍屋敷が半円状に囲むという、半円郭式とも呼ばれる構えに見てとることができます。

吉田城の位置。他の城名は地図を拡大していくと表示されます。

永正2(1505)年、今川氏の被官であった牧野古白が今川氏親の命によって築城したのがはじまりとされ、以降は今川氏と松平氏の紛争により両者の間で度々城主が変わっています。

永禄3(1560)年に桶狭間の戦いで今川義元が敗死すると、吉田城への今川氏の影響力は弱体化。永禄5(1562)年に松平元康(のちの徳川家康)が当城を攻撃し、永禄8(1565)年に開城させると、酒井忠次を城主として送り込みました。

元亀2(1572)年には城下にて、三河へと南進してきた武田軍を迎撃、防衛に成功するなど戦略的にも重要な役割を果たしてきました。

天正18(1590)年には家康が関東に移封されたことにより、代わって池田輝政が城主の座につきます。先述した16世紀末の城の大改修は、この輝政の統治時代に行われたものと考えられています。

慶長6(1601)年、輝政が姫路へと移封されたことにより城主には松平家清が入城、三河吉田藩が立藩されます。

以降、松平氏・水野氏・小笠原氏・久世氏・牧野氏らが城主を務めることになりますが、家流は違えど圧倒的に松平氏が多く、吉田城は徳川氏にとって重要な拠点であり続けたことがうかがえます。

明治2(1869)年、豊橋城とも呼ばれていた当城は版籍奉還により明治政府の統治下に置かれました。

明治4(1871)年には兵部省の管轄となり、明治6(1873)年には火災により城内の多くの建物が消失。明治9(1876)年には残った太鼓櫓などの建物20棟が入札で払い下げられました。

なお、明治18(1885)年には陸軍の歩兵第18連隊が城内に設置されています。

第二次大戦後の昭和24(1949)年には旧・三の丸を中心に豊橋公園として整備され、昭和29(1954)年に本丸跡に隅櫓が模擬復元されました。

昭和52(1977)年には本格的な調査が開始され、現在までに50次を超える発掘が行われています。

平成28(2016)年には隅櫓内の資料館がリニューアルオープンし、翌年に続日本100名城に選定されています。

まとめ・略年表

今川氏と松平氏のせめぎあいの歴史を物語る吉田城。徳川氏にとってはまさに血で購ったともいえる、重要な拠点の一つであったことがよくわかりますね。

その敷地は名古屋城よりも広いとされており、往時の壮麗さが目に浮かぶようです。

※参考:略年表
永正2年
(1505年)
今川氏被官・牧野古白により築城
永正3年
(1506年)
今川氏と松平氏の戦闘で吉田城が落城、牧野古白が討死
享禄2年
(1529年)
松平清康が吉田城を攻略
天文4年
(1535年)
清康が暗殺され、牧野成敏が吉田城主に
天文6年
(1537年)
牧野氏を放逐し、戸田宣成が吉田城主に
天文15年
(1546年)
牧野保成の要請で今川氏が吉田城を攻略、小原鎮実が城主に
永禄3年
(1560年)
桶狭間の戦いで今川義元が敗死、吉田城への今川氏の影響力が弱体化
永禄5年
(1562年)
松平元康が吉田城を攻撃
永禄8年
(1565年)
吉田城が開城し小原鎮実は退去。酒井忠次が城主に
元亀2年
(1572年)
南進してきた武田氏の軍勢を吉田城下で迎撃、防衛に成功
天正18年
(1590年)
家康が関東に移封され、池田輝政が吉田城主に
慶長6年
(1601年)
池田輝政が播州姫路に移封
同年竹谷松平氏の松平家清が吉田城に入城、三河吉田藩が立藩
慶長18年
(1613年)
深溝松平氏が城主に就任
寛永10年
(1633年)
水野氏が城主に就任
正保2年
(1645年)
小笠原氏が城主に就任
承応3年
(1654年)
城主・小笠原忠知が空堀を水堀に改修、農業用水にも利用
元禄11年
(1698年)
久世氏が城主に就任
宝永3年
(1706年)
牧野氏が城主に就任
宝永4年
(1707年)
宝永地震で吉田城に被害
正徳3年
(1713年)
大河内松平氏が城主に就任
享保15年
(1730年)
本庄松平氏が城主に就任
寛延3年
(1750年)
大河内松平氏が城主に就任
嘉永7年
(1854年)
大地震で吉田城に被害
明治2年
(1869年)
版籍奉還で吉田城(豊橋城)は政府の統治下となる
明治4年
(1871年)
吉田城の敷地が兵部省の管轄に
明治6年
(1873年)
火災により城内の建造物が焼失
明治9年
(1876年)
残った太鼓櫓などの建物20棟が入札で払い下げられる
明治18年
(1885年)
陸軍・歩兵第18連隊が城内に設置される
昭和24年
(1949年)
旧・三の丸を中心に豊橋公園として整備
昭和29年
(1954年)
本丸に隅櫓が模擬復元される
昭和52年
(1977年)
吉田城の発掘調査開始
平成28年
(2016年)
隅櫓内の資料館がリニューアルオープン
平成29年
(2017年)
続日本100名城に選定

【主な参考文献】
  • 『日本歴史地名体系』(ジャパンナレッジ版) 平凡社
  • 『国史大辞典』(ジャパンナレッジ版) 吉川弘文館
  • Aichi Now 吉田城(豊橋公園内)

  この記事を書いた人
帯刀コロク さん
古代史・戦国史・幕末史を得意とし、武道・武術の経験から刀剣解説や幕末の剣術に ...

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