【小倉百人一首解説】1番・天智天皇「秋の田の かりほの庵の 苫をあらみ わが衣手は 露にぬれつつ」

小倉百人一首1番・天智天皇のイラスト
小倉百人一首1番・天智天皇のイラスト
現代では ”かるた” としても親しまれている『小倉百人一首』。平安末期から鎌倉時代前期の歌人・藤原定家(ふじわらのていか/さだいえ)が、『万葉集』の時代から、定家が生きた同時代(平安末期・鎌倉時代)の和歌を、有力な歌人ひとりにつき1首ずつ、全部で100首撰んだ作品で、嘉禎元(1235)年に成立したと考えられています。

その『小倉百人一首』のトップに選ばれたのは、飛鳥時代の天皇の天智天皇(てんぢ/てんちてんのう)です。作者・天智天皇とその和歌について紹介しましょう。

原文と現代語訳

【原文】
「秋の田の かりほの庵の 苫をあらみ わが衣手は 露にぬれつつ」

【現代語訳】
「秋の田のそばの刈り取った稲の見張り小屋(仮の小屋)は、草を編んで葺いた簡素なもので目が粗いので、番をする私の着物の袖は夜露に濡れつづけていることだ」

歌の解説

かりほの庵

「かりほの庵(いお)」は、「仮庵(かりいほ)」と「刈穂(かりほ)」を掛けています。仮庵とは、仮につくった粗末な小屋のこと。「仮庵」が変化して「かりほ」とも読むので、本来は「かりほ」だけでどちらの言葉の意味も含まれるのですが、「かりほのいほ」と重ねることで語調が整えられています。

苫をあらみ

「苫(とま)」とは、菅(すげ)や茅(かや)などの細長い植物の葉を菰(こも。むしろのこと)のように編んで、小屋の屋根や周辺を覆うために使用するものです。「あらみ」は「粗い」を意味する形容詞「あらし」の語幹に接尾語の「み」がついたもので、これは「~が(形容詞)ので」というように原因や理由を表す表現です。

衣手

「衣手(ころもで)」は着物の袖のことで、多くは和歌に用いられる言葉です。

ぬれつつ

「つつ」は反復や継続の意味を表す接続助詞で、ここでは「濡れ続けている」という状況を表しています。

作者・天智天皇

天智天皇は、626年に舒明天皇(じょめいてんのう)と宝皇女(たからのおうじょ。のちの皇極天皇/こうぎょくてんのう、斉明天皇/さいめいてんのう)の子として生まれた第38代天皇です。

称制(しょうせい。天皇が在位していない時、皇后や皇太子などの皇族が天皇の代理として臨時に政務を執ること)が661年から668年、在位が668年から671年と短いですが、日本史では必ず名前が登場するほど有名な人物。

天智天皇が行ったこととして最も有名なのは、大化元(645)年6月の大化の改新(乙巳の変)でしょう。当時「中大兄皇子(なかのおおえのおうじ)」という名であった天智天皇は、中臣鎌足(なかとみのかまたり。藤原鎌足)らとともに有力な豪族であった曾我氏を打倒し、次々と政治改革を行っていきました。

中国の律令制を参考にしながら公地公民制、つまりすべての土地と人民を公(天皇)のものとする制度を設けて中央集権化を進め、天皇の権力を強めました。

671年、天智天皇は子の大友皇子(おおとものおうじ/おおとものみこ)を太政大臣として後継者にしようと考えましたが、同年12月、それが整う前に崩御してしまいました。

残された子の大友皇子は結局天皇になることはありませんでした。天智天皇の同母弟・大海人皇子(おおあまのおうじ/みこ)が皇位をめぐって争い、敗れてしまったのです。この古代最大の内乱と呼ばれる「壬申の乱」で勝利した大海人皇子はのちに天武天皇(てんむてんのう)となりました。

一時的な中継ぎの女性天皇として、天智天皇の娘の持統天皇(じとうてんのう。天武天皇の后)と元明天皇(げんめいてんのう。天武天皇の子・草壁皇子の妃)が立つことはありましたが、孝謙天皇(こうけんてんのう。称徳天皇/しょうとくてんのう)に至るまでのおよそ100年の間、天武天皇の系統が続きます。そして次に光仁天皇(こうにんてんのう)が即位したことで、再び天智天皇の系統に皇統が移ることになりました。

実は天智天皇の和歌ではない?

おそらく他に誰もいない秋の夜の田で泊まり番をする作者の袖を、夜露がしめらせ続けている。田舎の静かな田園風景を思わせる和歌ですよね。しかし、この和歌の作者とされているのは農民ではなく天智天皇です。

天皇と田んぼ、なんとも似つかわしくない組み合わせ。違和感を抱くのも当然です。実はこの和歌、現在では天智天皇の御製ではないことがわかっているのです。この歌とよく似た和歌が『万葉集』に入集しています。

「秋田刈る仮廬(かりほ)を作り我(あ)が居(を)れば衣手寒く露そ置きにける」
(『萬葉集』巻第十・秋の雑歌)

「秋の田に稲刈りの小屋を作り、私がそこにいると袖が寒く感じられるほど露が置いている」という意味で、内容もほとんど同じです。百人一首にとられた天智天皇の和歌は、この和歌が改作されたものと考えられています。

『万葉集』のこの和歌は「よみ人知らず」。作者の名前はわかりません。『万葉集』は都の豪族のような今でも名前が伝えられている人たちの和歌だけでなく、都から離れた地方の名もない人たちの和歌が多いのが特徴です。

本来は誰が詠んだかすらもわからない和歌なのに、今では百人一首の一番最初、しかも天皇が詠んだ和歌として伝えられているのです。それがどのようにして天智天皇の和歌と認識されるようになったのかはわかりませんが、2番目の勅撰和歌集『後撰和歌集』には「題知らず 天智天皇御製」の和歌として入集しているので、『後撰集』が編纂された平安中期の村上天皇の時代には、天智天皇の和歌として知られていたのでしょう。

おわりに

天皇と農民の暮らし。ギャップのあるこの和歌を、昔の人々はどうにかこうにか天智天皇の和歌として解釈しようとしました。

上で触れたように、天智天皇が崩御した後、皇統は一度弟の天武天皇の系統に移り、約100年ののちに再び天智天皇の系統が皇統に戻りました。平安時代の天皇は、というより現在に至るまで、皇統は変わらず天智天皇の系統です。

平安時代の人々は、天智天皇を王朝の祖とみなしていました。国は農民が作物を作ることで豊かに栄えていくものですが、その人々が暮らす国の原型をつくった人こそ王朝の祖である天智天皇といえるのではないか、そう結び付けて天智天皇の御製と納得したのではないでしょうか。

また、この和歌には複数の解釈があり、天智天皇が農民の辛苦を思いやって詠んだ和歌、皇太子だった頃の天智天皇が王道の衰微を嘆く心を重ねた和歌という解釈もあります。

百人一首を撰んだ藤原定家という人は、『古今和歌集』『後撰和歌集』『拾遺和歌集』のいわゆる三代集を何度も繰り返し書写したといわれています。定家の子孫の家・冷泉家に伝えられている歌集・歌学書・物語などの写本は数えきれないほどありますが、定家自身が書写したものも多数残されており、多くの作品を書き写していたことがわかります。

そんな定家ほどの人が、『万葉集』の中の、よみ人知らずとはいえ『後撰集』で天智天皇御製とされている和歌によく似た和歌に気づかないはずがありません。それでも、「天智天皇御製とされている和歌」を一番に選びました。当時の人々にとって天智天皇がどのような存在であったかがよくわかる気がします。


【主な参考文献】
  • 『国史大辞典』(吉川弘文館)
  • 『日本大百科全書(ニッポニカ)』(小学館)
  • 『世界大百科事典』(平凡社)
  • 吉海直人『読んで楽しむ百人一首』(角川書店、2017年)
  • 冷泉貴実子監修・(財)小倉百人一首文化財団協力『もっと知りたい 京都小倉百人一首』(京都新聞出版センター、2006年)
  • 目崎徳衛『百人一首の作者たち』(角川ソフィア文庫、2005年)
  • 校注・訳:小嶋憲之、木下正俊、東野治之『新編日本古典文学全集8 萬葉集(3)』(小学館、1995年)

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  この記事を書いた人
東滋実 さん
大学院で日本古典文学を専門に研究した経歴をもつ、中国地方出身のフリーライター。 卒業後は日本文化や歴史の専門知識を生かし、 当サイトでの寄稿記事のほか、歴史に関する書籍の執筆などにも携わっている。 当サイトでは出身地のアドバンテージを活かし、主に毛利元就など中国エリアで活躍していた戦国武将たちを ...

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