【小倉百人一首解説】6番・中納言家持「かささぎの渡せる橋におく霜の白きを見れば夜ぞ更けにける」

小倉百人一首6番・中納言家持のイラスト
小倉百人一首6番・中納言家持のイラスト
「かささぎが渡す橋」といえば、旧暦7月7日の七夕の日に天の川の上にできる橋のこと。しかし大伴家持(おおとものやかもち)が詠んだというこの和歌は、冬の歌です。秋の風物を冬の情景から想起させるというのが不思議な和歌を紐解いてみましょう。

原文と現代語訳

【原文】
「かささぎの 渡せる橋に おく霜の 白きを見れば 夜ぞ更けにける」

【現代語訳】
「かささぎが織姫と牽牛のために翼を並べて天の川に渡すといわれる橋。そこに霜が置いたように真っ白になっているのを見ると、夜もずいぶん更けてきたものだなあ。」

歌の解説

かささぎの渡せる橋

「かささぎの渡せる橋」というのは、七夕の日の天の川にかささぎ2羽が翼を並べて作る橋のことで、中国の七夕に関する伝承に由来します。前漢の思想書『淮南子』に「七月七日夜、烏鵲(うじゃく)河を塡(うず)めて橋をなし、織女を渡す」とあります。

かささぎは烏科に分類される鳥で、全体は黒く、腹と翼の一部が白いのが特徴です。

おく霜の白きを見れば

現在は「霜が降りる」と表現しますが、古くは「霜が置く」と表現しました。ここでいう「おく霜」とは空に散らばる星々を例えたものです。

夜ぞ更けにける

「ける」は詠嘆の助動詞「けり」の連体形で、上にある係助詞「ぞ」の結びです。

かささぎは上で紹介したように、中国の伝説に関わる鳥。現在は日本にも生息していて目にする機会もありますが、奈良・平安時代ごろは日本に生息しておらず、見ることはできなかったはずです。そのため鵲を詠んだ和歌は多くはありません。その点でこの和歌は漢詩の影響を受けた和歌といえます。

作者・大伴家持

この和歌の作者名は「中納言家持」。大伴家持は従三位中納言まで昇ってまもなく没して最終官位となったので、そのように呼ばれました。

養老元(717)年(※716年説、718年説もあり)、家持は文武に優れた大伴旅人(おおとものたびと)の長男として生まれました。天平17(745)年正月に正六位上から従五位下に叙されると、翌年には宮内少輔、また越中守に任ぜられて地方に赴任しました。その後も何度か国守となっています。

家持は藤原仲麻呂暗殺計画や氷上川継(ひがみのかわつぐ)の乱といった事件に連座したとして左遷や解官をしながらも、宝亀11(780)年2月には参議に、翌年11月には従三位となり、延暦2(783)年に中納言春宮大夫、延暦3(784)年に持節征東将軍となって、延暦4(785)年8月28日に亡くなりました。

何度か事件に関与したとして処分を受けながらも復活した家持でしたが、死後1か月もたたないうちにまた事件(藤原種継射殺事件)への関与が発覚します。これにより家持の子は隠岐に流され、家持の遺骨も同様に配流されることになったとか。それから20年以上が過ぎてようやく罪が赦され、従三位に復せられました。

なお、大伴氏はこの後、貞観8(866)年に起こる応天門の変で「伴大納言(ばんだいなごん)」の名で知られる伴善男(とものよしお)が失脚したことにより、没落することになります。

政治家としては不遇でしたが、一方で歌人としては時代を代表するほどの人物でした。家持こそ『萬葉集』の、特に末期の代表歌人です。『萬葉集』の撰者であり、収録された和歌は全部で4516首、そのうち家持の和歌は473首(短歌に限らず、長歌、漢詩なども含まれる)。全体の1割を超える数で、最も多く入集した歌人です。

ふた通りに読める和歌

この和歌は、上の現代語訳のように空に輝く星々と霜を重ね合わせる読み方のほかに、別の読み方もあります。

「かささぎが渡せる橋」を宮中の御殿に上がる階段になぞらえる読み方です。宮中はよく天上界になぞらえられ、また宮中や神社などの階段は「御階(みはし)」と呼ばれ、「橋」と同音です。

これらのつながりから、「天の川にかかるかささぎの橋に例えられる宮中の階段に真っ白な霜が置いて、その白さを見ると夜も一層更けてきたことだ」という解釈ができるのです。

また、この和歌に似た作品もあります。平安中期に成立した歌物語『大和物語』の125段の中で壬生忠岑(みぶのただみね。百人一首30番歌の歌人)が詠んだ「かささぎのわたせる橋の霜の上を夜半にふみわけことさらにこそ(寝殿の階段に置いた霜の上を、この夜更けに踏み分けてわざわざうかがったわけで、よそへ行ったついでではございません)」という和歌です。

こちらはまさに寝殿の階段を「かささぎのわたせる橋」になぞらえた作品ですね。現代の感覚では七夕に関連する天の川を冬の情景に例えて詠むというのがなんだか不思議ですが、「宮中の階段」を天の川の橋になぞらえ、霜を星に見立てるなら、七夕のものを冬の歌として詠む必然性はここにあるのでしょう。

とすると家持の和歌も二番目の解釈が正しいのかもしれませんが、個人的には天の川の星々を霜に例える解釈のほうが好きです。冬は空気が乾燥していて星がはっきり見えるといいます。なぜか和歌には星を詠んだものが少ないですが、あえて冬の星を詠んだということは、普段関心のない星を和歌に詠むほどきれいだったんだなあなどと想像してしまいます。

おわりに

さて、ここまで触れてきませんでしたが、この「かささぎの……」の和歌も『小倉百人一首』の古い時代のいくつかの作品と同様に、作者とされる人物の作ではないのです。

家持は『萬葉集』を代表する歌人でありながら、なぜか藤原定家(ふじわらのていか/さだいえ)は『萬葉集』から和歌を採用せず、私家集の『家持集』から採りました。しかし『家持集』は家持が亡くなった後、平安時代に入ってから編纂されたもので、『萬葉集』の詠み人知らずの歌や別の歌人の歌、『古今集』以降の歌風の和歌などが混在していて、とても家持の歌集とは認められないものです。

定家があえてこの歌を採用したのはなぜなのか。父・藤原俊成(ふじわらのしゅんぜい/としなり)が『古三十六人撰』に家持の和歌として採っているので、それを以って家持の和歌とみなしたのでしょうか。

単純に次の7番歌が「天の原……」なので、つながりを意識して採用したという考え方もできますが、それにしても腑に落ちないチョイスです。


【主な参考文献】
  • 『日本国語大辞典』(小学館)
  • 『小学館 全文全訳古語辞典』(小学館)
  • 『国史大辞典』(吉川弘文館)
  • 『日本大百科全書(ニッポニカ)』(小学館)
  • 『世界大百科事典』(平凡社)
  • 吉海直人『読んで楽しむ百人一首』(角川書店、2017年)
  • 冷泉貴実子監修・(財)小倉百人一首文化財団協力『もっと知りたい 京都小倉百人一首』(京都新聞出版センター、2006年)
  • 目崎徳衛『百人一首の作者たち』(角川ソフィア文庫、2005年)
  • 校注・訳:峯村文人『新編日本古典文学全集43 新古今和歌集』(小学館、1995年)
  • 校注・訳:高橋正治『新編日本古典文学全集12 大和物語』(小学館、1994年)※本文中の引用はこれに拠る。

※この掲載記事に関して、誤字脱字等の修正依頼、ご指摘などがありましたらこちらよりご連絡をお願いいたします。

  この記事を書いた人
東滋実 さん
大学院で日本古典文学を専門に研究した経歴をもつ、中国地方出身のフリーライター。 卒業後は日本文化や歴史の専門知識を生かし、 当サイトでの寄稿記事のほか、歴史に関する書籍の執筆などにも携わっている。 当サイトでは出身地のアドバンテージを活かし、主に毛利元就など中国エリアで活躍していた戦国武将たちを ...

コメント欄

  • この記事に関するご感想、ご意見、ウンチク等をお寄せください。