「芥川龍之介」彗星の如く登場した文壇の寵児が抱え込んだ闇? その生涯を遺作・遺書から読み解く

芥川龍之介の肖像写真(出典:<a href="https://www.ndl.go.jp/portrait/" target="_blank">国立国会図書館「近代日本人の肖像」</a>)
芥川龍之介の肖像写真(出典:国立国会図書館「近代日本人の肖像」
「どうかこの原稿の中に僕の阿呆さ加減を笑つてくれ給へ」

 このような沈鬱な言葉を序文に含めた遺作『或阿呆の一生』の原稿を遺して、昭和2年(1927)、芥川龍之介は35歳で自殺しました。大正時代から昭和時代に世相が移る中での人気作家の突然死は、当時の人々に大きな衝撃を持って受け止められました。デビューから12年程度という、あまりにも短い活動期間。小説家としての大成はむしろこれからと当然期待されていた中での死のニュースでした。

 しかし思い返してみればこの芥川龍之介という作家、死の突然さに限らず、文壇への登場からして、それは彗星のような突然な印象でした。特に大正5年(1916)、雑誌『新思潮』に発表した短編小説『鼻』は夏目漱石に激賞されるという幸運に迎えられました。

 時の大文豪の熱い推薦を受けながらの新人登場という、この上ない文学人生のスタート。しかし、これだけの華やかな登場を果たした人気作家には、生涯どこか言い知れぬ「暗黒」が付きまとっていたように思えます。「人生は一行のボードレールにも若かない」という『或阿呆の一生』の中の有名な、まさに「一行」につきまとっているような、暗いナニモノか。

 この稿ではそんな芥川龍之介という作家の生涯を、彼が苦しみ続けた心の暗黒という観点から、遺作の『或阿呆の一生』や、自殺現場から発見された遺書からの引用を交えつつ、振り返ってみたいと思います。

生い立ちと家庭環境

 芥川龍之介は明治25年(1892)、東京都の現在でいう中央区明石町に生まれました。

 龍之介の父は東京で牛乳販売業を営んでおりましたが、ルーツを辿れば岩国出身。そういう意味では芥川龍之介に流れている血は現在でいう山口県から来ており、広い意味での長州出身とも言えます。

 もっとも彼は生まれてまもなく、母親の実家である芥川家に預けられ、そこで伯母の世話を受けながら成長することとなったため、実家である新原家の印象はそうとう薄かった筈ですが…。彼が早いうちに芥川家に預けられた理由は、実母のフクが精神に異常をきたしたための処置でした。

 よその家で育てられ、かつ、実の母は狂気に陥り苦しんでいると知りながら過ごした少年時代は、どこか芥川龍之介の生涯に付きまとう、狂気への強迫観念の背景とも考えられます。その実母・フクは龍之介が11歳の時に亡くなります。

 そういえば、冒頭にも紹介した『或阿呆の一生』には「母」と題された章があります。その章においては実の母の面影の描写はなく、ただ大人になった主人公(作中では「彼」)が精神病院を見学していると、精神病の患者たちから、”死んだ母と同じ臭いがした” という痛切な描写が綴られています。

初期の傑作『鼻』のいいようのないブキミさ

 龍之介は早くから文才を示し、特に英語と漢学とに興味を持っていました。やがて東京帝国文科大学のイギリス文学科に入ると、ここで様々な人脈を得、さらに文学への情熱をたぎらせるようになります。

 大正4年(1915)、まずは短編小説『羅生門』を発表。その翌年に、短編小説『鼻』を発表します。この『鼻』が夏目漱石の激賞を受け、華々しい文壇デビューとして世間に受け取められたことは、前述した通りです。

 それにしても、この『鼻』という短編。学校現代文の授業でも定番の作品でありつつ、なかなか一筋縄ではない小説であることも確かです。

── 鼻の長いことにコンプレックスを持っていた僧侶が、その鼻を短くする方法を見つけ、それに成功する。しかし、鼻が長かった時よりも何やら周囲に笑い者にされていることに気づく。しばらくすると、残念ながら鼻はもとの長さに戻ってしまったのですが、僧侶はそれで「もう笑われなくなるかな」と思う。──

 そのような話です。

 一筋縄でないのは、鼻が長かった時よりもさらに笑われているように ”感じた” のも、最後に鼻がまた長くなったことで、人は自分を前ほどには笑わなくなるだろうと ”思った” のも、徹底的に主人公の僧侶の主観にあることです。

 真意が読めない、それでいて、冷淡で残酷な ”他人の目” というものに閉じ込められているような窮屈な自我。その息苦しさがひしひしと伝わってくる作品です。

 『今昔物語』および『宇治拾遺物語』に載っていた古典説話を現代風にアレンジした作品とのことですが、まことに近代的な ”他人と自分との残酷なズレ” を巡る小説になっている辺り、現代に読んでもなお、言いようのないブキミさを感じます。

忠臣蔵の主人公すら苦悩する存在として描き出す

 『羅生門』や『鼻』にも現れている通り、芥川龍之介の創作のスタイルには、古典文学や伝承説話に題材をとり、それを現代的な小説として洗練する、という特徴があります。ただしその題材選びが、日本の古典だけでなく、中国やインド、西洋文学の古典までをも広く射程に収めているところに芥川龍之介の凄みがあります。

 また同じ日本の古典といっても、『羅生門』や『鼻』のような古代物ばかりでなく、江戸時代の忠臣蔵を題材にした『或日の大石内蔵助』という作品もあり、題材の時代についても特定の時代に束縛されるということはありませんでした。そして、どのような題材を持ってきても、現代的な自我の苦痛に満ちた表現を与えてしまうところが彼の手腕と言えましょう。

 たとえば、その『或日の大石蔵助』も、かの華やかな赤穂浪士討ち入りのイメージを覆すような深刻な作品になっています。

 この作品では、仇討ちを成し遂げた大石内蔵助が、自分たちがやったことが世間に評価されていると聞いて喜んだのも束の間、庶民の間で安易な仇討ちブームが起きていると聞き、”いいようのない寂しさ”を感じて打ちのめされる、という筋書きになっています。芥川龍之介には生涯、このような自己意識と他者との”ズレ”についての重苦しい観察が付きまとっていたのでした。

「何の為にこいつも生まれて来たのだろう? この娑婆苦の充ち溢れた世界へ」
『或阿呆の一生』より

晩年の傑作『河童』『歯車』

 このように傑作を次々に発表し、時代を代表する小説家の一人となった芥川龍之介。しかしその作風は大きく変貌していくことになります。

 晩年(とはいっても三十代という若さですが)の彼は、古典に題材を求めることが少なくなり、自分自身をモデルにしていると思われる一人称の主人公「彼」が登場する、現代を舞台にした小説が増えていくことになります。

 有名作は、『河童』『歯車』でしょう。

 『河童』は、主人公が奇妙な河童の国に案内され、そこに滞在しながら河童たちの生態を観察し続けるという、一種の幻想小説です。ただしそれは、河童の国から逆に人間社会を反省することで、人間社会の側の偽善や虚飾を徹底的に皮肉っているという、ねじれた諷刺精神をもった作品となっています。

 特筆すべきは『歯車』でしょうか。この作品には、外套を着た自分自身の分身に悩まされる話、歯車の幻覚が見える話等が、狂気に陥ることへの強迫観念に満ちた緊迫した文体で書かれています。舞台も事件も現代東京の日常の世界なのに、途方もなく暗鬱な世界観を描いている傑作です。

 ただし、これらの作品にも現れているように、芥川龍之介の厭世観と強迫観念は、自殺という解決に向けて静かに走り出してしまっていたのでした。

発狂への強迫観念と、死

 昭和2年(1927)、龍之介は服毒自殺を遂げます。使用したのは不眠症の治療のために処方されていた睡眠薬。これを過剰摂取したことでの自殺でした。

 遺体の発見後、複数の宛先に向けた遺書も見つかりました。家族に宛てた遺書の他、親友の久米正雄に宛てたとされる『或旧友へ送る手記』が特に有名です。 広く世間の人々の話題となった次の言葉も、この遺書に出てきます。

「(自分の自殺の動機は)ただぼんやりした不安である」

 『或旧友へ送る手記』および、遺作となった『或阿呆の一生』を読むと見えてくるのは、ずいぶん以前より彼の心は自殺に向かっていたらしいという点です。

 既にたくさんの仮説が立てられてきた芥川龍之介の自殺の動機ですが、これだけたくさんの人が言及してもよくわからないままということは、おそらく本人の遺書にあった「ぼんやりとした不安」の表現がけっきょくは的確なところだったのではないでしょうか。

 ただ、この稿でキーワードとしてきた「狂気」への強迫観念が、自殺への後押しをしていたひとつの要因であったと思われる、そんな出来事をひとつ、紹介しておきましょう。

 文壇での交際も多かった龍之介の親友の一人が、作家の宇野浩二でした。その宇野浩二が龍之介自殺の少し前に精神異常をきたし、病院に入院するという出来事がありました。実母の狂気という昏い思い出を持っていた龍之介にとって、親友の精神異常という事件は衝撃をもって受け止められ、「次は自分では」という不安を高めたのではないでしょうか。

 実際、龍之介は死の前まで、宇野浩二を気遣い、入院先に贈物を手配する等の心配を見せていたといいます。そしてその際には、周囲に

「宇野君もついに行くところまで行ってしまった。でも芸術家としては間違いではないよ」

といった意味の、どこかで「芸術家というものは最期はああなる」と諦観を持っているような感想を述べていたといいます。

 もっとも、芥川龍之介が「先に行ってしまった」と思っていた当の宇野浩二は、芥川龍之介の死後に無事に病を治し、社会復帰を遂げているのですが。

おわりに

 いまだに人気の衰えない名作小説を数多く残しながら、いつも深刻な昏さを感じさせる生涯を送り、35歳という速さで自殺してしまった芥川龍之介。ただ彼の生涯を追うかぎり、そこに息づいていたのはまさに「ぼんやりとした不安」の連続だったといえるのではないでしょうか。

 振り返り見れば、その不安の予兆は、初期の『羅生門』や『鼻』、『杜子春』や『蜘蛛の糸』といった有名作、そして『河童』や『歯車』といった盤面の作品にまで、ずっと黒雲のようにずっとつきまとっていたもの、ともとれます。

 最後に、芥川龍之介が家族に宛てた遺書の中にあった言葉を引用して、この稿を終わりにしましょう。読む人にとって、力づけのようにも読めれば、陰鬱な認識の共有のようにも読めるのではないしょうか。

 そのコトバとは

「人生は死に至る戦ひなることを忘るべからず」


【主な参考文献】
  • 『芥川龍之介』(海老井英次/勉誠出版)
  • 『芥川龍之介考』(中村誠/青土社)
  • 『芥川龍之介全集』(ちくま文庫)

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  この記事を書いた人
瀬戸内ざむらい さん
現在は完全な東京人ですが、先祖を辿ると、いちおう、幕末の時に「やられた」側の、瀬戸内地方の某藩の藩士(ただし私自身は薩長土肥の皆様に何の恨みもありません!先祖の気持ちは不明ですが)。出自上、明治時代以降の近現代史に深い関心を持っております。WEBライターとして歴史系サイトに寄稿多数。近現代史の他、中 ...

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