「織田信包」兄は信長。兄弟の中で長く生き残り、のちに家臣団の筆頭格へ
- 2018/12/26
尾張の戦国大名・織田信秀には多くの子がいました。信長はその中のひとりです。子供の数は男子だけで12人とも伝わっています。信長と争い果てた者もいれば、信長に従い共に戦った者もいました。
今回はそんな信秀の子のひとり、織田信包(おだ のぶかね)についてお伝えしていきます。
今回はそんな信秀の子のひとり、織田信包(おだ のぶかね)についてお伝えしていきます。
伊勢攻略時に登場
信包と信長の関係は?
信包は天文12年(1543)、または天文17年(1548)に誕生したと伝わっています。生母は不明ですが、信包が信長から別格の重用を受けているため、同腹の兄弟ではないかと推測されていますので、土田御前という説が有力です。一般的には信秀の四男という扱いになります。信包の幼年期の記録は一切残されておらず、表舞台に登場するのは20歳を過ぎた永禄11年(1568)です。信長は伊勢を攻略するために、弟の信包を北伊勢の豪族・長野工藤氏に養子として送り込みました。
長野氏へ養子入りし「長野三十郎」を名乗る
信包は「長野三十郎」と称し、第17代長野工藤氏の当主となり、伊勢国上野城を居城とします。しかし、信長の命で養子縁組は解消され、織田姓に戻り、「織田上総介」を称することとなりました。正室には長野工藤氏・第15代当主であった長野藤定の娘を迎えています。信包と同様に、信長は北伊勢の神戸具盛と講和し、三男である信孝を神戸氏の養嗣子として送り込んでいます。こうして信長は徐々に伊勢国に勢力を拡大していったのです。
当時の伊勢国は南朝以来の国司である北畠氏が支配していました。信長は永禄12年(1569)の大河内の戦いで北畠氏に勝利し、次男の信雄を養嗣子として送り込んでいます。
ここで信長の伊勢国制圧が完了したといっていいでしょう。信包は伊勢国庵芸郡上野城主として、伊勢国庵芸郡・安濃郡あたりの支配にあたったとされています。
一門衆の筆頭格として活躍
各地を転戦し、信忠の補佐役へ
信長はその後も周辺諸国にますます勢力を拡大していくことになりますが、それに伴って信包もまた各地を転戦。天正2年(1574)伊勢長島一向一揆との戦い、天正3年(1575)越前一向一揆との戦い、天正5年(1577)雑賀攻め、天正6年(1578)石山本願寺攻め、同年から天正7年(1579)にかけては有岡城の戦い、というように多くの戦に参加しました。信長の嫡男である信忠が家督を継いで諸将を率いるようになってからは、信包は信忠を補佐する役目を任されています。信包にはそれだけの器量があり、信長から認められていたということでしょう。
信包の地位はどのくらいだったのか
信長には息子たちの他、弟である信照や長益、長利、一族である津田信澄などがいましたし、柴田勝家や明智光秀といった優秀な家臣も揃っていました。はたしてこの中で信包の地位はどのあたりだったのでしょうか?天正9年(1581)の京都馬揃えでは、信忠、信雄に続いて三番目に位置しています。これに続くのが信孝です。信長の嫡男、次男、信包、三男の順ということになります。これは信長の一代記で有名な史料『信長公記』にも記されており、織田一門の名が連なる場合、例外なく一に信忠、二に信雄、三に信包、四に信孝の順になっています。
信包は実質的に織田一門で三番目の地位にあり、信長の兄弟一族の中では筆頭格だったということになります。つまり、信長が肉親で最も信頼していたのが信包だったのです。また、信包は同年の第二次天正伊賀の乱で功をあげ、戦後には伊賀国の一郡を加増されてもいます。
信長死後は秀吉派
秀吉派として家康とも対立
天正10年(1582)に信長、信忠が没した後には、羽柴秀吉と信雄を支持し、伊勢津城15万石を領することとなります。信包は「津侍従」と称されました。地位としては、信長の後継者の座を巡って勢力争いをしてもおかしくはないほどですが、信包にはそのような野心はなかったようです。信長の仇を討った秀吉に従います。
天正11年(1583)には織田家中が秀吉と信孝・勝家に分かれて対立しますが、信包は秀吉に味方して賤ヶ岳の戦いに参加しています。また、翌天正12年(1584)には今度は秀吉と信雄が対立。信雄は徳川家康を味方に付けて衝突。いわゆる小牧・長久手の戦いです。このとき信包は当初は信雄側でしたが、秀吉に引き抜かれています。
織田一門と対立する立場をとり続け、秀吉に味方した信包でしたが、文禄3年(1594)にはその秀吉から改易処分を下されています。伊勢安濃津を没収され、近江2万石に移封されてしまったのです。ここまで秀吉に味方した信包がなぜ改易処分を受けることになったのでしょうか?
改易の理由は太閤検地で石高増加となったものの、それに見合うだけの任務を果たさなかったということですが、天正18年(1590)の小田原征伐の際に、北条親子の助命を嘆願したため、秀吉の怒りをかったという説もあります。
秀吉派を貫き、病没する
その後、信包は剃髪して「老犬斎」と号し、京都の慈雲院に隠棲します。さぞかし秀吉を憎んだことと思いきや、御伽衆(話相手をする役のこと)となって秀吉の傍に仕えていました。秀吉はその忠誠心を認めたのか、晩年になった慶長3年(1598)に、丹波国氷上郡柏原3万6千石を信包に与えています。
秀吉が没した後の後継者争いである慶長5年(1600)の関ケ原の戦いでは、信包は石田三成方の西軍に味方し、家康と敵対して丹後国・田辺城への攻撃に加わっています。しかし信包の長男・信重は、伊勢林1万石の領主として東軍に味方しました。親子で敵味方に分かれたことになります。
結果として信包が属した西軍は敗北しますが、家康は信包の罪を問わずに所領を安堵。こうして信包は、丹波柏原藩の初代藩主となったのです。
それでも信包は秀吉派であり続け、大坂城に入って秀吉の家督を継いでいる豊臣秀頼に近侍して支えました。そして慶長19年(1614)の大坂冬の陣の直前に病没しています。
おわりに
天下布武を目指した兄・信長に仕え、絶大な信頼を得て活躍し、信長の死後は秀吉に従って天下統一に貢献した信包。自分よりも地位の低かった者が成り上がり、そこに仕えることをそれほど苦にはしていなかったようです。下剋上の習わしをしっかりと理解していたのかもしれません。その分別がありながら、家康には最後まで抵抗しています。信包はどうやら家康とだけは相性が悪かったのかもしれませんね。
【主な参考文献】
- 太田牛一『現代語訳 信長公記』新人物文庫、2013年。
- 谷口克広・岡田正人『織田信長軍団100人の武将』新人物文庫、2009年。
- 谷口克広『尾張・織田一族』新人物往来社、2008年。
- 谷口克広『信長軍の司令官 -部将たちの出世競争』中公新書、2005年。
- 谷口克広『織田信長合戦全録 -桶狭間から本能寺まで』中公新書、2002年。
- 西ヶ谷恭弘『考証 織田信長事典』東京堂出版、2000年。
- 岡田正人『織田信長総合事典』雄山閣出版、1999年。
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