信長の死後、織田の家紋は二男信雄とその子孫に引き継がれており、江戸時代に幕府に提出された『寛政重修諸家譜』によると、織田氏の家紋は以下の7つがあるという。
織田木瓜
揚羽蝶
桐
二引両
永楽銭
無文字
菊
上記7つの家紋うち、信長が使用したものがどれか、実はハッキリしていないのであるが、以下にそれぞれの家紋を詳細にみてみよう。
まずは織田木瓜であるが、これは信長が使用した家紋としてよく知られており、信長の定紋とみられている。
『寛政重修諸家譜』では、"信秀時代に尾張守護の斯波氏から受け継いだ" とあるが、どうやらこれは誤りらしい。
というのも、別の史料では、"木瓜紋は越前国の織田氏(織田氏はのちに尾張に移住する)が使用していた” とある。また、斯波氏がそもそも家紋にしていたのは桐と二引両なのである。
では一体、木瓜紋はどこから織田家に伝わってきたのであろうか?
先に、織田氏は元々、越前国の織田荘で荘官を務めていたということを記したが、実は越前の朝倉氏から譲り受けたという伝承があり、これが有力視されている。
朝倉義景で知られる越前朝倉氏は、南北朝期から越前守護の斯波氏に仕え、木瓜紋を家紋としていた。そして4代目当主・朝倉貞景の娘が織田氏に嫁いだときに、木瓜紋を織田氏に譲ったという。
この頃の朝倉氏は勢力を伸ばして越前守護代となっており、7代目孝景のときには、斯波氏に代わって越前守護の座に就き、下剋上を果たしたのである。
織田氏と朝倉氏は共に、南北朝期に越前国で斯波氏に仕えていたのであるから、この伝承はうなずける。しかし、戦国の世となり、のちに朝倉(義景)が織田(信長)に滅ぼされる運命をたどったのだから、皮肉な巡り合わせである。
桐紋と二引両紋は、先に記した斯波氏の他、今川氏などもこれを家紋としている。つまり、足利将軍家の血脈を引く者が使用した高貴な家紋なのである。
『寛政重修諸家譜』には、"信長が将軍義昭から賜った" とある。
信長が永禄11年(1568年)に上洛して足利義昭を将軍に誕生させたとき、これら2つの紋を拝領したと推測される。
ちなみに桐紋は、長興寺所蔵の織田信長の肖像画に描かれている。
永楽銭紋は信長が旗印として使用したとされている。
小瀬甫庵の書いた『信長記』には、信長の旗に永楽銭紋があったことが記してある。また、長篠の戦いの様子を描いた『長篠合戦図屏風』にも描写されている。
信長はこの家紋を黒田官兵衛、水野信元、仙石秀久に与えたという。
永楽銭は室町時代に日明貿易によって中国から大量に輸入され、江戸時代初頭まで流通した貨幣のひとつである。
『寛政重修諸家譜』には、"禁裏(=天皇)より賜った" とだけあり、織田家の誰が賜ったのかはわからない。ただ、『長篠合戦図屏風』の中で、信長の馬廻り衆の背中に確認できるため、おそらく信長が天皇から賜ったのであろう。
この家紋は奈良時代から使用されはじめ、のちに平氏がこれを定紋にしたという。
信長は自分の祖先が平氏であることを示したかったゆえ、これを家紋にしたのであろう。
この紋は信長の使用された形跡が全くないため、謎である。
信長の系図類は『続群書類従』『寛政重修諸家譜』『系図纂要』など、数多く伝わっており、それらによればその祖先は平氏であるという。
これらの系図は織田氏の祖先を平資盛としており、広く一般に流布しているようである。細部は異なるところもあるが、おおむね祖先の誕生は以下のような経緯となっている。
しかし、これら平氏をルーツとする織田家の系図は創作とみられている。その理由は以下の点にある。
上記のように織田一族は元々は藤原氏を称していたのである。
しかし、信長が15代将軍足利義昭を追放した天正元年(1573年)頃には、信長が先祖を平氏としていたことが『美濃路紀行』という兎庵(とあん)という老僧の旅の記録で示されている。
平氏を祖先とした背景には、信長が源平交替思想を取り入れたかったということらしい。つまり、源氏である足利氏(=将軍義昭)に代わる者は平氏(=織田氏)であると、世に示したかったのである。
では、信長の祖先は平氏でなく、藤原氏なのであろうか?
先に述べた平氏説の中にある、「越前織田荘の神職の出自」という点については信憑性が高いとみられている。それは以下のように、越前丹生郡織田荘にある織田剣神社と織田一族との関係からもうかがえる。
一方、明治期において当時の歴史地理学者・吉田東伍氏が「信長の祖先は忌部氏」という説を唱えている。それは織田剣神社の所在地は伊部郷であり、その地はかつて伊部一族が栄えていたため、織田剣神社の神主は忌部氏であったといい、その末裔が織田氏であるということらしい。
結局のところ、信長のルーツは藤原氏なのか忌部氏なのかは定かでない。ただし、越前丹生郡織田荘の荘官を務めていた在地の豪族であったという点だけは可能性が高いということである。
時期は定かでないが、越前で荘官を務めていたという織田氏は、やがて越前守護・斯波氏に仕えるようになる。
斯波氏は足利一門で三管領の家柄であり、本領の越前国のほかに尾張国・信濃国・遠江国などの守護も務めたエリート一族である。その斯波氏が応永7年(1400年)に尾張国の守護も兼ねると、織田氏も尾張国に移住するようになる。
応永9年(1402年)に織田常竹という人物が史料で登場し、翌応永10年(1403年)に織田常松という人物が守護代となってから、以下のように織田一族が尾張守護代をほぼ独占するようになる。
応仁元年(1467年)からはじまった応仁の乱では織田氏はおおむね山名宗全方の西軍についていた。このとき主君である守護・斯波氏は家督争いで東軍西軍の2つに分かれて対立したが、やがて同じように織田氏でも、織田敏定の登場によって真っ二つに分かれる事態が発生する。
敏定は文明8年(1476年)に西軍方の斯波義廉が入城したと思われる守護所・下津城に火を放ち、織田敏広と戦ったという。そして以後に京へ移ったのであるが、文明10年(1478年)8月には幕府から尾張守護代に補任され、尾張に再び入国した。
こうして両陣営の戦いが繰り広げられ、和睦をきっかけに以下のように2つの織田氏が尾張国を分担支配する素地ができあがったという。
応仁の乱の後、織田氏の主君である斯波氏はどうであろうか。
乱による混乱で越前国の守護を越前守護代の朝倉氏に奪われ、遠江国も永正5年(1508年)に今川氏親の台頭によって遠江守護の座を奪われてしまった。 一方で、永正10年(1513年)には尾張守護の斯波義達が尾張守護代・織田達定と戦って達定を討っている。なお、この争いの原因ははっきりしない。
義達は遠江の失地回復のため、今川勢力とたびたび戦ったものの結局は大敗。永正13年(1516年)に最後は今川方に捕えられて降伏し、助命はされたものの尾張国へ送り返され、遠江を失うと同時に斯波氏は没落となった。
一方で織田氏が台頭していくことになるのであるが、清洲織田氏の守護代は敏定から寛定→寛村→達定→達勝と受け継がれていった。一方で岩倉織田氏は永正元年(1504年)を最期に史料からしばらく姿を消すため、事蹟はよくわかっていない。
さて、ここで識者による推察などを元に、織田一族の系図を以下にまとめてみた。
図でみるとわかるように、清洲織田氏は清洲三奉行家(因幡守家・藤左衛門家・弾正忠家)を従えた。
そして信長の家柄は、実はこの清洲三奉行のひとつである弾正忠家にすぎなかった。
この三家はいずれも織田一族であるが、清洲織田氏から分かれたのかどうか定かでない。また、織田の宗家は岩倉織田氏である見方が有力だが、これも定かでない。
信長の弾正忠家の祖は織田良信であるが、この良信の父もはっきりしていない。
このように織田氏の分かれははっきりしておらず、信長の系譜も歴史研究者の方々による推測などに頼るしかないのが現状である。
永正10年(1513年)以降、織田達勝が尾張守護代に就いた期間はかなり長かった(30~40年近く)とみられているが、その間に信長の祖父と父の代、すなわち織田信定・信秀の台頭によってやがて弾正忠家は主家である清洲織田氏をも凌ぐ力をもつようになるのである。
弾正忠家の系図は以下のとおり。
なお、弾正忠家の台頭期については、織田信秀の記事を読んでみてほしい。