信長の兄弟、総勢11名のプロフィール一挙まとめ

織田信長とその兄弟の略系図イラスト
織田信長とその兄弟の略系図イラスト
織田信長にはずいぶんと多くの兄弟姉妹がいたようです。ただ、各史料によってその人数は異なっていてハッキリしていないようですね。

兄弟に関しては兄が1人で弟が10人いた、ということはほぼ一致しているようです。皆さんは信長の兄弟と聞いて、どのくらい思い浮かべられますか? そこで今回は信長の兄弟について、各々経歴をザックリと紹介していきたい思います。

※各人物のプロフィールに筆者の見解などは入っていません。なお、各人物は歴史家の谷口氏の見解を元にしての年齢順に並べています。


信広(兄・のぶひろ、?-1574年)

信長の唯一の兄(庶兄)にあたり、生母・生年はともに不明。三郎五郎と称して父信秀の西三河攻略後に安祥城を任せられたが、天文18年(1549年)に安祥城を太原雪斎率いる今川軍に陥落させられ、一時的に捕われてしまう。しかし、まもなく松平竹千代(のちの徳川家康)との人質交換によって無事、尾張へと生還する。

弘治2年(1556年)には斎膝義龍と通じて信長への攻撃を企てるが、失敗して降伏。その後は信長に忠義を尽し、信を得て厚遇されるようになっていく。永禄11年(1568年)の信長上洛後は、京で公家と将軍義昭の交渉を任され、元亀元年(1570年)に将軍山城(北白川城)に在城して京の治安維持に務めるなど活躍。その後、京の東の美濃岩村城を守備するも、武田信玄に攻められて陥落となっている。

天正元年(1573年)の将軍義昭と信長の対立時には、信長の名代として義昭と会見して和睦の実現もさせた。しかし、翌年の伊勢長島一向一揆攻めで討ち死にとなる。ちなみに娘は信長の養女として丹羽長秀に嫁いでいる。


秀俊(兄?・ひでとし、?-1556年)

生母と生年は不明。信秀の五男または六男であり、信長の弟といわれているが、歴史家の谷口氏の見解では信秀二男で信長の兄としている。なお、織田系図等では「信時(のぶとき)」の名で記してある。

『信長公記』には

「織田三郎五郎(=信広のこと)と申すは、信長公の御腹かはりの御舎兄なり。其弟に安房守(=秀俊のこと)と申候て、利口なる人あり」

とある。つまり、秀俊は庶兄の信広と同腹で、利口な人物だったということがわかる。

弘治元(1555)年に叔父の信次が出奔した際、柴田勝家の推薦により、後任として守山城を任され、その際に信次の宿老であった角田新五郎と坂井喜左衛門を付けられている。しかし翌弘治2(1556)年に角田新五郎が謀反を起こし、自殺を余儀なくされた。

『信長公記』によれば、秀俊が坂井喜左衛門の子である坂井孫平次を寵愛したことから、角田新五郎がこれを恨んで、守山城の塀を修理する際に手勢を入れて秀俊を切腹に追い込んだという。

信勝(弟・のぶかつ、?-1557年?)

生年不明、信長の実弟で生母は土田御前。『信長公記』では "勘十郎"、系図類には "信行" の名で登場する。兄の信長とは対照的に母・土田御前から溺愛され、父・信秀の死後には家中で当主としての期待を寄せられるほどの人物であった。

信長が家督を継いだあと、弘治2年(1556年)には重臣の林通勝や柴田勝家らに担ぎだされて信長と戦ったが、敗戦して母の嘆願で信長に赦免されている(稲生の戦い)。

しかし、その後も家督継承の野心を捨て切れずにいた信勝は再度謀反を企てたが、このときはかつての家臣・柴田勝家が信長に密告したことで露見。その背景に信勝の家中では若衆の津々木蔵人が重用され、柴田勝家は次第に疎まれていったようであった。

最期は仮病を装った信長に呼び出されて謀殺された。没年は弘治3年(1557年)(『寛政重修諸家譜」『織田家雑録』)、永禄元年(1558年)(『信長公記』)の説がある。


秀孝(弟・ひでたか、1541?-1555年?)

生母は不明、生年は天文10年(1541年)頃とみられている。信秀八男と伝わるが、歴史家の谷口氏は信包より年上のために五男が妥当だとみている。

弘治元年(1555年)、喜六郎と称した秀孝が従者を伴わず、龍泉寺城の近くで馬を乗りまわしていたところ、その様子をみた叔父の織田信次と家中の者らに無礼者として殺害された。まだ15~16歳だったといい、このとき信次らは相手が信長の弟・秀孝だとわかると、報復を恐れて居城に戻らずに逃亡している。

秀孝の容姿は色白で美しく、気品あふれる顔・体つきであったと伝わる。

信包(弟・のぶかね、1543-1614年)

天文12年(1543年)生まれ。生母は信長と同じ土田氏とみられているが定かでない。信秀四男と伝わるが、谷口氏は秀孝に次ぐ六男とみている。

永禄11年(1568年)の信長の北伊勢侵攻の際、養子として北伊勢の豪族・長野氏の名跡を継ぎ、"長野三十郎"と称した。翌年には信長による北畠攻めに従軍、その後も長島一向一揆攻め、越前一向一揆攻め、雑賀攻め、石山本願寺攻め、伊丹城の荒木勢との対戦等、多くの戦いに従軍して功をあげている。

天正9年(1581年)の京都馬揃えでの序列は織田信忠、織田信雄に続いて3番目に位置していた。信長死後は秀吉に仕えたが、文禄3年(1594年)に改易処分で近江2万石に移封となると、出家して「老犬斎」と称し、その後は秀吉御伽衆となっている。

関ヶ原合戦では西軍に属したが、家康からの御咎めはなかった。最期は慶長19年(1614年)の大坂冬の陣の直前に大坂城内で吐血して急死した。享年72歳。


信治(弟、のぶはる、1545?-1570年?)

生母は不明。系図類では天文14年(1545年)生まれの信秀五男とされるが、谷口氏は七男の可能性があるとみている。九郎を称し、尾張国野夫(愛知県尾西市)の城主を務めたとされる。

元亀元年(1570年)に姉川の戦いに参陣、その後まもなく信長は摂津国で挙兵した三好三人衆らと戦うが、その最中に浅井・朝倉連合が近江の宇佐山城に進軍してきた。

このとき信治は京都から兵二千を率いて援軍に向かったが、宇佐山城を守備する森可成とともに討死を遂げた。26歳であったというが定かでない。

信興(弟、のぶおき、?-1570年)

生年と生母は不明で、信秀七男と伝わる。織田彦七と名乗り、尾張の小木江城の城主だったようである。元亀元年(1570年)に信長が近江で浅井・朝倉と長期対陣中(志賀の陣)、本願寺顕如がこれを機に伊勢で長島一向一揆を起こさせた。このとき小木江城に一揆勢が押し寄せ、無念と覚悟を決めた信興は最期に切腹して果てた。

信照(弟、のぶてる、?-?)

生没年、生母ともに不明であり、事跡はほとんど残されていない。

『尾張志』によると、三河の土豪・中根氏の養子となり、中根越中守と称し、常に屋敷から出ることなかったという。また、ただ1匹しかいない馬を50余匹いると豪語し、下男に命じて1匹の馬を1日に数10回も引き出しては終日にわたって洗わせ、いかにも馬が沢山いるように見せかけたともいう。

天正9年(1581年)の京都馬揃えでは騎馬10騎を従えて行進している。また、熱田神宮には文禄3年(1594年)7月7日に信照が寄進したという長刀が残ると伝わっている。

秀成(弟、ひでなり、?-1574年)

生年と生母は不明。信秀八男(または九男)といわれ、津田を苗字として津田信成(つだ のぶなり)と称した。
事蹟については天正2年(1574年)の伊勢長島一向一揆征伐で討ち死にしたということしかわからない。このとき一揆軍に対する総攻撃実施で海上から攻め入り、討死を遂げたという。

ちなみに兄・信広、従兄妹の信成らもこの海上からの攻撃で討死している。

長益(弟、ながます、1547-1621年)

千利休から茶道を学び、茶人として名を残した「織田有楽斉」の名で知られる。生母不明、天文16年(1547年)生まれ。 信秀十男とも十一男とも伝わる。

天正9年(1581年)の京都馬揃えに参列、翌天正10年(1582年)の甲州征伐では甥の織田信忠に従軍して木曾口から侵入、降伏した武田方の深志城の受け取り役なども務めている。

同年の本能寺の変では信忠とともに二条御所にいたが、脱出して岐阜へ逃れている。その後は織田信雄に仕え、検地奉行をつとめたという(『織田信雄分限帳』)。

天正18年(1590年)、秀吉が北条を滅ぼしたのちに信雄が尾張を改易されると、秀吉に仕えた。このころに出家して "有楽斉" と号した。秀吉の御伽衆となり、天正20年(1592年)の朝鮮出兵の時には肥前の名護屋に駐屯している。

関ヶ原の戦いでは家康方の東軍に属し、戦後に大和国で三万石の大名となり、一方で豊臣家に出仕を続けて淀殿をサポートした。家康と豊臣秀頼の二条城での対面や大阪の陣(1614-15年)での和平交渉に尽力。元和7年(1621年)に75歳で他界した。現在の東京の有楽町は、有楽斉の江戸屋敷があったことに由来している。


長利(弟、ながとし、?-1582年)

生年生母ともに不明。信秀十一男(または十二男)という。津田姓を称し、名を又十郎と称した。実名「長則」とも伝わる。

天正2年(1574年)の伊勢長島一向一揆征伐に従軍、のちの天正9年(1581年)の京都馬揃えにも御連枝衆の一員として参列している。翌年の本能寺の変で二条御所で信長嫡男の信忠とともに討死した。なお、娘は織田信雄の側室となり、82貫文を与えられている(『織田信雄分限帳』)。

おわりに

いかがだったでしょうか? 以上、信長の兄弟の事績を簡単にお伝えしてまいりましたが、最後に少し要点をまとめてみましょう。

  • 生誕年の不明な人物がいて、兄弟の出生順はハッキリしていない。
  • 信長の実弟(=母が同じ兄弟)とされる人物は「信勝(信行)」一人だけ。他の兄弟は生母が曖昧。
  • 信長(1582年没)よりも確実に長生きした兄弟は信包と長益(のちの有楽斎)の2人だけ。

信長の死後、11人もいた兄弟がわずか2人しか生き残っていないというのはなんとも寂しいですね。信包なんかは織田家中で序列は相当高かったはずですが、信長死後に特に目立った活躍もなく、秀吉に従っているところを見ると、家中での影響力はそんなに強くなかったのかもしれませんね。


【参考文献】
  • 谷口克広・岡田正人『織田信長軍団100人の武将』(新人物文庫、2009年)
  • 谷口克広『尾張・織田一族』(新人物往来社、2008年)
  • 西ヶ谷恭弘『考証 織田信長事典』(東京堂出版、2000年)
  • 岡田正人『織田信長総合事典』(雄山閣出版、1999年)

※この掲載記事に関して、誤字脱字等の修正依頼、ご指摘などがありましたらこちらよりご連絡をお願いいたします。

  この記事を書いた人
戦ヒス編集部 さん
戦国ヒストリーの編集部アカウントです。編集部でも記事の企画・執筆を行なっています。

コメント欄

  • この記事に関するご感想、ご意見、ウンチク等をお寄せください。