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【やさしい歴史用語解説】「幕藩体制」
- 2025/05/07

日本の政治体制は、その時代によって大きく異なります。古代は「律令制」、中世は「権門体制」、近世は「幕藩体制」、そして近代は「資本主義制」といった感じでしょうか。今回は江戸時代における幕藩体制を解説していきます。
幕藩体制とは、江戸幕府(将軍)を頂点として、幕府の統制下に各藩(大名領)がおり、領地と人民を支配する中央集権的な支配体制のことです。
江戸幕府は徳川家康が初代将軍となってスタートしますが、世の中はまだまだ戦国の気風で満ちていました。もし徳川家に万が一のことがあれば、再び乱世へ逆戻りすることも考えられるでしょう。そこで諸大名を服従させつつ、徳川家を中心とした政治体制の構築が望まれました。
まず諸大名に「将軍に忠誠を誓わせる」旨を記した誓詞を提出させますが、そんな紙切れだけで服従が担保されるものではありません。そもそも家康自身が秀吉に提出した誓詞を破っているわけですから、あくまで形式上のことです。とにかく諸大名の動きを封じ、その行動を縛るものが必要でした。
そこで考え出されたのが、諸大名を拘束する法度すなわち法律「武家諸法度」です。2代将軍・徳川秀忠から8代将軍・徳川吉宗へ至る100年の間に、何度か改訂が加えられました。
初期の内容としては、武士があるべき姿を説いたり、藩主は政治をうまく行うこと、あるいは城を修築する際は届け出る必要があるなど、比較的簡単にわかりやすく述べられています。
ところが3代将軍・徳川家光の時代になると、その項目は一気に増えて厳しいものとなります。ちょうど諸大名が数多く改易(取り潰し)された時代と重なりますから、幕府の強気な方針が垣間見えるところですね。
このように幕府の絶大な権力のもとで、幕藩体制は構築されていきました。基本的に幕府(将軍)は朝廷に代わって政治をおこない、諸大名との間で主従関係を結んでいます。つまり、将軍には後ろ盾となる天皇の権威が常に付きまとっているわけですね。これでは諸大名が逆らおうにも逆らえません。
また、秀吉が遺した「太閤検地」という遺産も幕藩体制の構築に役立っています。全国の土地の取れ高を把握している幕府ですから、貫高制から石高制へ移行させることは難しくありません。しっかり諸大名の財源を握ることで、加増や減封、転封を自由自在に行えました。
諸大名に課した「参勤制度」も見逃せません。これは2年ごとに諸大名を江戸へ出府させる制度で、将軍との主従関係を確認させるための目的がありました。また大名の妻子を江戸に置くことで、人質としての効果を狙ったものです。

そのほか、天下普請や手伝普請など、諸藩の財政を圧迫させる方法も取られました。河川の改修を命じられた薩摩藩などは、あまりにも費用が掛かったために財源が底を着き、借金で事業を続けざるを得ない状況に追い込まれています。こうした普請は諸大名にとって大きな負担となり、もはや幕府に逆らうどころではありませんでした。
幕藩体制は、徳川家を頂点としたヒエラルキーであることはむろんですが、あらゆるシーンで諸大名は統制を受け、絶対に反抗できないシステムとなっていました。とはいえ、幕府は天皇の権威があって初めて成り立つものです。幕末になると、相次ぐ失態によって幕府の存在感は大きく揺らぎ、ついに大政奉還へ追い込まれていくのです。
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