「西行法師(佐藤義清)」武士を捨て、和歌と旅に生きた “魂の放浪者”

西行の肖像(MOA美術館蔵。出典:wikipedia)
西行の肖像(MOA美術館蔵。出典:wikipedia)
 佐藤義清(さとう・のりきよ、1118~1190年)は京で活動する名門出身の武士でしたが、23歳で出家します。出家後の「西行(さいぎょう)法師」の呼称が知られ、諸国を旅し、約2000首の和歌を残した歌人でもあります。

 平清盛と同い年で北面武士の同僚でしたが、まったく違う人生を歩みます。それでも平安時代末期を代表する人物として新しい時代を切り開いたことは共通しています。俳人・松尾芭蕉をはじめ後世の人々にも大きな影響を残し、今なお多くの人に愛されています。

清盛と同い年、北面武士の同僚

 西行(佐藤義清)は元永元年(1118)生まれで、出生地は京か佐藤氏の本拠地・紀伊国田仲荘(和歌山県紀の川市)とみられます。「のりきよ」と読むためか「憲清」と書く史料もあります。

 父は左衛門尉・佐藤康清で、本人は左兵衛尉。衛門府、兵衛府は近衛府とともに左右あって、「六衛府」と呼ばれ、天皇の親衛隊のような宮中警護の役職。尉は督、佐に次ぐ3等官です。

 そして義清は貴族・徳大寺家(藤原北家支流)に仕える家人で、さらに鳥羽院北面武士として鳥羽法皇を警護。同僚に平清盛や出家前の怪僧・文覚(遠藤盛遠)がいます。名門武家にふさわしい官職に就き、院、上級貴族に仕える典型的な京武者です。

父・佐藤康清が射術を披露する場面(『西行法師一代記』より。出典:国立国会図書館デジタルコレクション)
父・佐藤康清が射術を披露する場面(『西行法師一代記』より。出典:国立国会図書館デジタルコレクション)

秀郷流名門、左衛門尉の藤原「佐藤氏」?

 佐藤氏は藤原秀郷の子孫、武家の名門・秀郷流藤原氏です。武芸に秀でた家系です。義清も弓術の名人で兵法書の奥義も学び、漢文、音楽、和歌の素養にも優れていたとされています。名門出身の文武両道の若者だったのです。

 父・康清、祖父・季清(すえきよ)、曽祖父・公清(きんきよ)は左衛門尉と検非違使(けびいし)を兼務。苗字「佐藤」の起源は「左衛門尉の藤原」が通説です。ただ、公清の兄弟の子孫も佐藤氏。公清の祖父・公行の官職・佐渡守を起源とする説もあります。「佐渡守の藤原」で「佐藤」。この説も説得力があります。

母方は芸能関係の血筋

 母は源清経の娘。源清経は中務省の出納を監督する役職・監物(けんもつ)で、今様や蹴鞠が得意な風流人でした。義清も「鞠聖」藤原成通の指導を受けた蹴鞠の名手で、芸能に強い母の家系の影響も受けているようです。

 同母兄弟に佐藤仲清。田仲荘を継ぐ人物です。義清の息子は『新古今和歌集』に作品が選ばれている隆聖(りゅうしょう)と、崇徳院御廟権別当(副長官)の慶縁(けいえん)。娘は義清の出家後、藤原北家支流・葉室家に預けられました。鴨長明『発心集』などには娘しか登場せず、隆聖らが義清の息子だったという点には異論もあります。

生涯を語る『西行物語』のウソ

 西行(佐藤義清)の生涯は『西行物語』に語られていて、人物像を探るよい手がかりです。『西行物語絵巻』もあり、視覚的にイメージしやすいのですが、創作話がかなり含まれています。

 史実は元永元年(1118)生まれ、保延6年(1140)、23歳で出家、文治6年(1190)、73歳で死去。しかし、『西行物語』は康和5年(1103)生まれ、大治2年(1127)、25歳で出家、建久9年(1198)、96歳で死去と書いています。西行の生涯に沿った内容ながらも肝心な場面がフィクションなのがややこしいところです。

出家の動機は?厭世説、悲恋説

 出家の動機として厭世説、悲恋説が目立ちます。

厭世説 友人の急死に無常観募らせる

 厭世説は友人の急死に世のはかなさを感じたというもので、『西行物語』にあります。

 友人で同僚の佐藤憲康が「われわれの先祖・秀郷将軍が東国を鎮圧して以来、われらの家系は長い間、皇室を警護する役目を担い、面目をほどこしている。それなのに最近どうしたことか、何事も夢まぼろしの如くはかない気分で明日があるとも思えないのだ」と口にします。

 誘い合って鳥羽院に参上する約束通り、翌朝、義清が憲康邸に行くと、門の前で人が立ち騒ぎ、家の中から悲しみの声が聞こえます。「殿は寝たまま死んでしまわれた」と19歳の妻や70歳以上の母が泣き伏しています。あまりに意外な友人の死。出家願望のあった義清はただちに決意を固めました。

悲恋説 道ならぬ一度の逢瀬を胸に秘め

悲恋説は『源平盛衰記』にあります。

「名を申し上げるのも恐れ多い高い身分の女官」と恋愛しますが、その女官から「阿漕の浦」と告げられます。これは伊勢神宮に供える魚を捕るための禁漁区のことです。「一度は密漁できても何度もやれば発覚する」、つまり、「一度ならば発覚しない、もう会わない方がよい」という再会の拒絶。かなり危険な恋愛だったようで、義清はたった一度の逢瀬を思い出に出家したというのがこの説です。

真実は? 悪左府・頼長の取材によると…

 悪左府・藤原頼長の日記『台記』に康治元年(1142)、西行来訪の記事があり、本人に聴き出したのか出家時期や経緯が記されています。純粋な信仰心による出家だったとし、「人これを歎美する也」と結んでいます。

 西行本人が残しているのは和歌だけ。「さあ出家するぞ」とばかりに前向きにとらえている和歌があり、東山や嵯峨で草庵の下見を重ねていた形跡もあります。思案を重ねた上での出家というのが実態のようです。

「俗世の未練」4歳の愛娘を蹴落とす

 『西行物語』や『沙石集』では出家するとき、4歳の愛娘を「これこそ俗世への未練」と縁台から蹴落とす場面があります。

 左右に分けた振り分け髪も肩まで届かない年ごろで、父の帰宅を喜び、走り寄って狩衣のたもとにすがってくる娘を比べるものがないほどかわいく思いながらも「これまで出家を思いとどまったのもこの娘のためだ。これこそしがらみを断つ最初だ」と娘を蹴落とし、声を上げて泣くのも無視します。

西行が娘を蹴落とす場面(『西行法師一代記』より。出典:国立国会図書館デジタルコレクション)
西行が娘を蹴落とす場面(『西行法師一代記』より。出典:国立国会図書館デジタルコレクション)

 この後、妻にも「親子や夫婦は1代2代の関係。しかし、釈迦とは500回生まれ変わっても切れない永遠の縁」とくどくど説明。泣くばかりの妻を納得させることができぬまま、自らもとどりを切り、屋敷を後にしました。

 追従して出家するのが従者・源季正。この後、草庵生活などを共にする西住です。

『新古今』に最多94首

 出家後の西行は京近くの草庵に住みながら、久安2年(1146)ごろから2年かけて東国、奥州を旅します。30歳前後です。帰京後は高野山に移り、30年ほど生活の拠点とします。仁安2年(1167)、50歳のころは四国、九州方面へ。治承4年(1180)、63歳のとき高野山を去り、熊野参詣後、伊勢に移住します。文治2年(1186)年、69歳で再度奥州への旅に出ました。

 和歌の実力は出家前から認められています。『新古今和歌集』に最多の94首。『千載集』18首などほかの勅撰和歌集にも多数の歌が入っています。自撰家集も『山家集』『山家心中集』などがあります。

江口の遊女にやり込められる

 天王寺(大阪府大阪市天王寺区)の参詣の途中、江口(大阪府大阪市東淀川区)の遊女との間に面白いやり取りがあります。

 遊女の宿に雨宿りしようとして断られます。西行は「仮の宿を惜しむ君かな」と詠み、「現世の執着を捨てることは難しいでしょうが、無常の現世では仮の住まいでしかない家なのに雨宿りに貸すことも惜しむとは……」と仏教理論まで持ち出します。遊女は返歌で「出家の方なのでお断りしたまで。あなたこそ現世に執着されているのでは」と反撃。見事にやり込められます。

西行が江口の遊女と歌問答する場面(『西行法師一代記』より。出典:国立国会図書館デジタルコレクション)
西行が江口の遊女と歌問答する場面(『西行法師一代記』より。出典:国立国会図書館デジタルコレクション)

 仁安2年(1167)ごろの四国の旅では、保元の乱(1156)で讃岐に流され、長寛2年(1164)に崩御した崇徳上皇の白峰御陵(香川県坂出市)を参拝。崇徳上皇への鎮魂歌も何首か残しています。

涙の再会、愛娘に出家を促す

 旅に生きた人生の終盤、西行は娘と再会します。『西行物語』や『発心集』にある逸話で、この再会話は早くから伝承化していたようです。涙の再会を経て西行は娘に出家を勧めます。4歳で父と別れ、その後、母も出家し、養家で暮らしていた娘は西行の言葉に従い、尼になっていた母のもとで仏道に励みました。

娘と再会する場面(『西行法師一代記』より。出典:国立国会図書館デジタルコレクション)
娘と再会する場面(『西行法師一代記』より。出典:国立国会図書館デジタルコレクション)

頼朝に伝えた秀郷流武芸

 西行は文治2年(1186)8月15日、鎌倉・鶴岡八幡宮で源頼朝と会います。鎌倉御所に招かれ、歌道と武芸について尋ねられますが、ひとまず、すっとぼけます。

「出家のとき、藤原秀郷以来相続してきた兵法は燃やしてしまいましたし、人殺しの罪の元なので全て忘れました。和歌については花鳥風月への感動を三十一文字(みそひともじ)にするだけで特に奥義といえるものはありません」

 ところが、2人は夜通し語り明かし、西行は弓馬について詳しく語りました。実は何も忘れていなかったのです。『吾妻鏡』はここでは詳しい会談内容に触れていませんが、嘉禎3年(1237)7月19日の記事で海野幸氏の半世紀前の思い出として西行が語った弓術の極意が披露されます。武芸を捨てたはずの西行の意外な一面といえます。

門前の子に与えた銀の猫

 西行が鎌倉に立ち寄ったのは、東大寺再建のための寄進を求め、奥州の藤原秀衡のもとに向かう途中でした。頼朝との出会いは偶然ではなく、彼の参詣を予想して鶴岡八幡宮をうろついていたのでしょう。頼朝との会談では、奥州からの砂金輸送を認めさせ、道中の安全確保を求める駆け引きがあったはずです。

 翌日、西行は鎌倉御所を退出。頼朝に銀づくりの猫を贈られましたが、門の外で遊んでいる子供に与えてしまいました。

西行が童子に銀づくりの猫の香炉を与える場面(『西行法師一代記』より。出典:国立国会図書館デジタルコレクション)
西行が童子に銀づくりの猫の香炉を与える場面(『西行法師一代記』より。出典:国立国会図書館デジタルコレクション)

 そして、ちょうど1年後の文治3年(1187)8月15日、鶴岡八幡宮の放生会で流鏑馬が披露され、毎年の恒例行事になります。西行から聴き出した秀郷流武芸が鎌倉の流鏑馬に大きな影響を与えていたのです。頼朝が秀郷流武芸を重視していたことがうかがわれます。

お釈迦さまと同日、桜の下で…最期を予告

「願わくは春、花(桜)の下で死にたい。如月の満月のころに(釈迦入滅の2月15日に)」

 こうした意味の西行の和歌があります。この和歌自体は『山家集』などにあり、60歳以前の作。そして、西行の死は文治6(1190)2月16日、釈迦とは1日違いです。自身の死を予期し、その予告通りの往生は、極楽浄土に憧れる当時の人々にとって理想的で、崇拝の対象といえます。

超奇怪!人造人間造りに失敗?

 西行伝説の中で特に奇怪なのが人造人間の話です。

 『撰集抄』の逸話で、野原にある人の遺体を拾い集めて危険な薬を塗り、骨を藤のツタでつなぎ合わせ、「反魂の術」で死者の魂を呼び戻します。見た目は人間ですが、血相は悪く、声はか細く、魂も入っていない失敗作。西行はそのまま高野山の奥に放置します。その後、源師仲に製造方法の間違いを丁寧に指摘されますが、再度トライすることはありませんでした。

 何とも現実離れした話です。『撰集抄』は西行の自伝とされてきましたが、今はそれも否定されています。

おわりに

 西行の和歌は現代でも多くの人に愛されています。名門の家に生まれ、才能も周囲に認められ、出世も有望な状況で武士を捨てた生き方が格好いいというか、社会の束縛から逃れたいと願う現代人にも人気なのです。

 一方で、その和歌は自身の迷いや感情の揺れを率直に表現し、達観しきった世捨て人というよりは出家後も残る執着心、人間らしさをみせています。これもまた「分かるなあ」と共感されている部分かもしれません。


【主な参考文献】
  • 西澤美仁編『西行 魂の旅路』(KADOKAWA)角川ソフィア文庫、2010年
  • 桑原博史『西行物語 全訳注』(講談社)講談社学術文庫、1981年
  • 五味文彦、本郷和人編『現代語訳 吾妻鏡』(吉川弘文館)

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  この記事を書いた人
水野 拓昌 さん
1965年生まれ。新聞社勤務を経て、ライターとして活動。「藤原秀郷 小説・平将門を討った最初の武士」(小学館スクウェア)、「小山殿の三兄弟 源平合戦、鎌倉政争を生き抜いた坂東武士」(ブイツーソリューション)などを出版。「栃木の武将『藤原秀郷』をヒーローにする会」のサイト「坂東武士図鑑」でコラムを連載 ...

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