「足利義兼」頼朝の相婿 尊氏につながる最有力御家人の基礎築く

足利義兼の肖像(鑁阿寺蔵。出典:wikipedia)
足利義兼の肖像(鑁阿寺蔵。出典:wikipedia)
足利義兼(あしかが・よしかね、1154~1199年)は平安時代末期~鎌倉時代初期の武将で、源姓足利氏2代目です。源頼朝の挙兵にいち早く従い、平家追討や奥州合戦などで活躍し、鎌倉幕府の有力御家人・足利氏の基礎を築きました。

足利氏は源氏一門として幕府内で高い地位を得ます。数々の有力御家人が粛清される中、最後までその地位を守りました。そして、室町幕府を創設する足利尊氏へとつながります。

源氏一門、いち早く頼朝に味方

父は足利義康。母は熱田大宮司・藤原季範(藤原南家)の孫で、季範の養女です。源頼朝の母・由良御前も季範の娘なので、頼朝とは母同士が義理の姉妹。血縁では叔母と姪です。また、義兼の正室・時子は頼朝の正室・北条政子の妹。頼朝と同じく北条時政の婿になっています。

足利義兼の略系図
足利義兼の略系図

祖父・源義国は源義家の四男で、足利氏、新田氏の祖。坂東武士に崇拝された「八幡太郎」義家を祖先に持つ点でも頼朝と共通し、義家の弟・源義光を祖とする武田氏、安田氏などの甲斐源氏、佐竹氏の常陸源氏よりも頼朝の血筋に近い一門です。

義兼の身体的特徴として『難太平記』は身長8尺(約240センチ)としていますが、これは盛りすぎでしょう。

2つの足利氏…藤姓足利氏と競合

義兼の父・義康は保元の乱(1156年)で活躍しますが、翌年に31歳で病没。義兼は幼く、伯父・新田義重の庇護を受けていたようです。

異母兄に義清、義長がいて、若いときはともに京で活動した可能性があります。足利荘(栃木県足利市)は八条院(鳥羽天皇の皇女・暲子内親王)の所領であり、義兼は八条院の蔵人(秘書官)を務めていました。
足利氏には源氏の足利氏「源姓足利氏」のほか、藤原秀郷の子孫である「藤姓足利氏」があり、まったく別の一族です。足利荘を拠点としているので苗字はともに「足利」。義兼の祖父・源義国と藤姓足利氏が協力して八条院領足利荘を成立させた経緯があるのです。在京の義国が八条院との仲介役、藤姓足利氏がその下で現地開発を手掛けたようです。

ただ、この協力関係も世代を重ねて競合関係に変わっていきます。八条院の御所は反平家派の拠点で、八条院の猶子・以仁王は治承4年(1180)5月、ついに反平家の兵を挙げます。義兼ら兄弟は以仁王の挙兵に加わった可能性もあります。一方、藤姓足利氏の足利忠綱は平家軍の若武者として激流の宇治川を馬で渡河し、武功を挙げました。

この後、足利忠綱は野木宮合戦で志田義広(頼朝の叔父)に加勢し、頼朝に敵対。敗退して藤姓足利氏は没落します。義兼の異母兄・義清、義長は木曽義仲とともに行動、寿永2年(1183)閏10月、水島の戦いで戦死しました。

奥州藤原氏の残党蜂起では追討司令官

義兼は、木曽義仲に従った異母兄2人とは別の道を取り、頼朝に従います。藤姓足利氏も異母兄も足利荘をめぐるライバル関係にあり、対抗上、別の道を選んだと考えられます。

義兼は頼朝のもとで活躍します。元暦元年(1184)5月、甲斐に出兵し、木曽勢残党を追討。平家との合戦では源範頼に従軍。具体的な活躍は不明ですが、文治元年(1185)8月16日に戦功として上総介に任命されました。文治5年(1189)の奥州合戦にも参加し、文治6年(1190)1~2月、奥州藤原氏残党が挙兵した大河兼任の乱では追討司令官として乱を鎮圧しました。

頼朝の歯痛治癒を祈願

治承5年(1181)2月、北条時政の娘・時子との結婚は源頼朝の指示でした。頼朝は「人柄が穏やかで忠義心も厚い」と義兼を特に評価したのです。

また、建久5年(1194)10月18日、頼朝の歯痛の治癒を祈願するため代理で日向薬師(神奈川県伊勢原市)を参詣しました。日向薬師は行基が開山した伝承があり、当時は霊山寺といいました。源実朝誕生の際、北条政子の安産祈願のため読経させた寺院の一つで、長女・大姫の病気平癒の祈願のため御家人を引き連れて参詣するなど頼朝が大切にしている寺院です。義兼と頼朝の親密さがうかがわれます。

「空物狂」頼朝の猜疑心かわす処世術

しかし、頼朝と血縁関係が近い源氏一門でも安泰ではありません。義兼の伯父・新田義重は参陣が少し遅れたために頼朝の不興を買い、それが後々まで響き、鎌倉時代を通じて新田氏の地位は低く、同族の足利氏には大きく水をあけられました。

また、武田信義の嫡男・一条忠頼や同じ甲斐源氏の安田義定、義資父子らは頼朝によって粛清されました。より血筋が近い従兄弟・木曽義仲や叔父・志田義広、源行家、異母弟・源義経、源範頼も次々と追討、処罰されています。

義兼もやはり心配だったようで、『難太平記』には、世をはばかって「空物狂(そらものぐるい)」になったと書かれています。変人のまねをしたのです。頼朝の猜疑心や厳しい対処法を間近で見た上での対応でしょう。調子に乗って権勢を誇るよりも家名存続を優先したのです。まさか、ストレスで本当に心身に変調をきたしたというわけでもないでしょうが……。

運慶に発注した大日如来坐像

足利義兼は建久6年(1195)3月、東大寺で出家します。東大寺大仏殿の再建を祝う法要に鎌倉の御家人がそろって参拝した機会をとらえて42歳の若さで出家しました。後継者の三男・義氏はまだ7歳です。

義兼の信仰心の厚さと財力を示すのが運慶に作らせた2体の大日如来坐像です。仏師として既に最高の評価を得ていた運慶に仏像制作を依頼できる人物はなかなかいません。義兼建立の樺崎寺の関係文書に大日如来坐像のことが記されており、現存する仏像2体が該当すると推定されています。いずれも重要文化財で、1体は海外流出後、米国のオークションで約12億円の落札価格がついたものです。

鑁阿寺創建、樺崎寺の浄土庭園

義兼が創建した寺院が栃木県足利市の鑁阿寺(ばんなじ)と樺崎寺です。樺崎寺は今ありませんが、寺跡は国指定の史跡です。

大日如来坐像2体も元は樺崎寺に安置されていたものです。樺崎寺の特徴は池を中心とした浄土庭園。奥州合戦(1189年)で中尊寺、毛越寺などを見てきた義兼が平泉文化を参考に整備したようです。出家後の義兼はこの寺で念仏三昧の日々を送りました。

鑁阿寺はもともと自邸内に建立された持仏堂。周囲を巡る堀と土塁が武家屋敷の面影を残しています。平成25年(2013)には本堂が国宝に指定されました。

鑁阿寺の本堂(出典:写真AC)
鑁阿寺の本堂(出典:写真AC)

義兼は建久10年(1199)3月8日、頼朝の後を追うように死去。樺崎寺で生入定(いきにゅうじょう)したという伝承もあります。生きたまま即身仏、ミイラになることですが、46歳でしたから衰弱するまで時間もかかり相当な苦痛が伴うはずです。頼朝死後の鎌倉の情勢、嫡男が幼い足利家の行く末も見届けねばならない時期で、生入定はあくまで伝承かと思います。

娘と妻の逸話

3代将軍・実朝にフラれた娘

足利義兼の死後、元久元年(1204)8月、娘が3代将軍・源実朝の正室候補として名が上がりますが、実朝が受け入れず、実現しませんでした。源氏一門の有力御家人、しかも北条政子の妹の息女ですから、申し分のない縁談のはずですが、13歳の実朝は公家から正室を迎えるのです。

比企能員の変(1203年)の例もあり、特定の有力御家人との深い関係は、かえってほかの御家人との軋轢を生むと配慮した人物がいたのでしょうか。

妻・時子の蛭子伝説

義兼の妻・時子の不思議な伝承が地元・足利市に残っています。義兼の鎌倉滞在中、腹が膨らみ、不倫を疑われました。時子は「わが身体を改めよ」と言い残して自害。遺体の腹を割くと、生水とともに飲んでしまったヒルが出てきたという蛭子伝説です。伝承が伝わる法玄寺の五輪塔は「お蛭子さま」と呼ばれ、鑁阿寺には時子を供養する蛭子堂があり、安産の神として信仰を集めています。

また、義兼自身にも頼朝に敵対したがあります。『難太平記』に「実は源為朝の子」という記述があるのです。為朝は頼朝の叔父で、保元の乱では凄まじい強弓が敵味方をうならせ、敗退後は伊豆大島に流され、そこでも大暴れして追討される規格外の武将です。しかし、義兼の実父というのはほかの史料にもなく、あまりにも唐突すぎます。

おわりに

足利義兼は御家人粛清や北条氏独裁が本格化する前から家名存続にかなり気を遣っていたようです。処世術だけでなく、仏教への厚い信仰心もあって早目の引退、出家となったのかもしれません。

ただ、鎌倉時代を生き残り、室町幕府将軍家となる足利氏の土台を作り、運慶の大日如来坐像や鑁阿寺など文化財も現代に残しています。鎌倉幕府の最有力御家人だったことには違いありません。


【主な参考文献】
  • 田中大喜編著『下野足利氏』(戎光祥出版)
  • 千田孝明『足利尊氏と足利氏の世界』(随想舎)
  • 五味文彦、本郷和人編『現代語訳 吾妻鏡』(吉川弘文館)

※この掲載記事に関して、誤字脱字等の修正依頼、ご指摘などがありましたらこちらよりご連絡をお願いいたします。

  この記事を書いた人
水野 拓昌 さん
1965年生まれ。新聞社勤務を経て、ライターとして活動。「藤原秀郷 小説・平将門を討った最初の武士」(小学館スクウェア)、「小山殿の三兄弟 源平合戦、鎌倉政争を生き抜いた坂東武士」(ブイツーソリューション)などを出版。「栃木の武将『藤原秀郷』をヒーローにする会」のサイト「坂東武士図鑑」でコラムを連載 ...

コメント欄

  • この記事に関するご感想、ご意見、ウンチク等をお寄せください。