足利尊氏の名言・逸話28選
- 2022/11/01
今回はそんな足利尊氏の逸話の数多くを一覧形式(なるべく時系列)でまとめてみました。
なお文中の人名は、時期により改名している場合もありますが、特に断りがない限り最も有名な名前である「尊氏」で統一しています。
家督相続まで
実は側室の子(尊氏0歳)
足利尊氏の母・上杉清子は、父・足利貞氏の側室(家女房)である。(『尊卑分脈』)
足利家は代々執権・北条家から正室を迎えていました。嫡子でない尊氏は、北条家とは血のつながりの薄い人物で、当時の政治状況から見ても家督相続が想定されていませんでした。兄がいる(0歳)
足利尊氏には、異母兄に足利高義がいた。(『尊卑分脈』)
高義は北条氏の娘・釈迦堂殿を母に持ち、尊氏より8歳年長でした。19歳頃に父・貞氏から家督を譲られますが、20歳で病死します。兄が死んでも家督継承者と見なされず(12歳~26歳)
足利高義の死後、父・貞氏が政務を代行した。(「金沢文庫古文書」ほか)
14歳で元服した尊氏の仮名(通称名)は「又太郎」で、嫡男が代々名乗っている「三郎」ではなかった。(「足利家官位記」)
最初の妻子を迎える(10代)
尊氏の長男は竹若と言い、足利家の庶流・加古基氏の娘との子であった。(『尊卑分脈』『太平記』)
竹若は後に戦死しており、そこから逆算すると尊氏が10代の頃の子だと想定されます。尊氏は当初家督を継ぐ予定がなかったので、家臣筋から妻をもらったものと思われます。勅撰和歌集に歌が選ばれる(20歳頃)
かきすつる もくづなりとも 此度は かへらでとまれ 和歌の浦波(『続後拾遺和歌集』巻16雑歌)
正中2(1325)年に編纂された勅撰和歌集『続後拾遺和歌集』に、尊氏の歌が入選しています。これより5年前に編纂された勅撰和歌集『続千載和歌集』にも歌を応募しており(結果は選外)、歌人としても精力的に活躍していたことが分かります。ワンナイトラブで息子を授かる(20代前半)
尊氏は越前局との間に「一夜通い」で息子・足利直冬を授かる。(『太平記』『足利将軍家系図』)
越前局の素性は分かっていません。おそらく遊女のような人で、そこに尊氏が通って産ませた子のようです。『太平記』によると、直冬は寺に入って働きながら、伝手をたどって尊氏へ父子の面会を求めましたが、尊氏は自分の子と認めておらず、面会を拒否します。後に、話を聞いた叔父の直義が彼を引き取り、養育します。
北条家の姫を正室に迎える(25歳頃)
足利尊氏は北条家の一門・赤橋守時の妹・登子を正室に迎える。(『足利将軍家系図』)
家督継承とほぼ同時期に、尊氏は北条家の姫を正室にしています。鎌倉時代、代々の足利家当主は北条家と血縁があったので、上杉氏を母に持つ尊氏にとって、この婚礼は必須でした。後醍醐天皇の二度の挙兵と尊氏
足利尊氏が家督を継いだ頃、後醍醐天皇が反鎌倉幕府を掲げて挙兵をします。後醍醐天皇はまず京都府笠置山で挙兵し、失敗して隠岐に流されますが脱出し、鳥取県の船上山で挙兵します。尊氏は、最初は天皇の追討軍として笠置山を攻めました。二度目も追討軍として鎌倉から鳥取に向かいましたが、途中で反幕府軍につこうと決意し、京都の六波羅探題を攻めました。鎌倉幕府への逆恨みで謀反した?
足利尊氏は、喪中にも関わらず出陣を命じた鎌倉幕府を恨み、討幕に参加した。(『梅松論』)
後醍醐天皇が笠置山で挙兵した時、尊氏は喪中でありながら、幕府軍の総司令官として出陣を命じられました。古くは、それが怨恨となり、後に討幕の呼びかけに応じたと言われていました。足利尊氏の謀反は、先祖からの運命?
足利家には代々、八幡太郎義家の「私は七代目の孫に生まれ変わり天下を取る」という遺言が伝わっていた。その「七代目の孫」が尊氏の祖父・家時だったのだが、天下を取れなかったので、「私の命を縮めて孫に天下を取らせてください」と遺言を残して自殺した。ゆえに、家時の孫にあたる尊氏は、八幡太郎義家の生まれ変わりで、天下を取る運命だった。(『難太平記』)
完全な作り話と思いきや、どうも自害した足利家時の遺言状は実際にあったようで、尊氏の弟・直義の直筆文書内に、祖父の遺言状に関する記述が確認できるそうです。もちろん、この事実だけが謀反の直接的な動機ではありません。長男・竹若、殺害される(28歳)
尊氏の長男である竹若は伊豆にいたが、尊氏が討幕軍に参加したことで命を狙われ、山伏に変装して逃げようとしたところを殺害された。(『尊卑分脈』ほか)
のちに尊氏は駿河国宝樹院を竹若の菩提所と定め供養をしています。建武政権での尊氏
「高氏」から「尊氏」へ(28歳)
足利尊氏の初名は「高氏」だったが、これ以降、後醍醐天皇の諱「尊治」から一文字を貰い「尊氏」と名乗った。(『公卿補任』)
干された尊氏?(28歳)
建武政権では、尊氏は活躍した割に重要なポストに就けず、人々はそれを「高氏なし」と揶揄した。(『梅松論』)
かつては、尊氏が建武の新政で干されたことが、後醍醐天皇に反抗するきっかけと考えられていました。近年の研究では、むしろ尊氏はポストに就かなくても全国の武士に一目置かれていたことが明らかにされています。むしろ尊氏関係者ばかりが占めた「親政」(28歳)
後醍醐天皇の親政は、蓋を開けたら実際は重要ポストが尊氏関係者ばかり。中には高い位階をもらい宮中に昇殿を許された武士も出てきて、人々は、親政なので公家の世に戻ると思ったら更に武家の世になってしまった、と言ったという。(『神皇正統記』)
後醍醐天皇との対立と征夷大将軍任命
建武2(1335)年、建武政権を揺るがす反乱がおこりました。「中先代の乱」です。北条高時の遺児・時行が、反・後醍醐をかかげて関東で挙兵しました。その頃、鎌倉には尊氏の弟・直義をはじめ建武政権のメンバーが駐屯していました。鎌倉を襲われたと聞き、京都の尊氏は後醍醐天皇の命令も待たず出陣します。尊氏、征夷大将軍への任命を断られる(30歳)
北条時行追討に伴い、足利尊氏は後醍醐天皇に征夷大将軍への任命を要求する。しかし後醍醐天皇は尊氏を任命せず、鎌倉を任せていた成良親王を任命した。(『太平記』)
尊氏、平身低頭して後醍醐に謝罪しようとする(30歳)
「中先代の乱」平定後、尊氏は独断で恩賞を与えたことで後醍醐天皇に謀反人認定され、追討の軍を差し向けられてしまう。それを知った尊氏は絶望し、政務の一切を弟に譲ると宣言したっきり寺に引きこもり、髷を切って、何とか後醍醐天皇に許してもらおうとしていた。(『梅松論』『太平記』他)
尊氏の不自然な手紙は精神不安定の証?(30歳頃)
鎌倉を占領してから後醍醐天皇を京都から追い出すまでの期間に出された尊氏の手紙は、本文が湾曲していたり不自然に詰まったりしておりレイアウトが不自然である。どうやら、通常最後に書かれるはずの花押(サイン)が先に書かれており、本文が後で書かれたようだ。(清水克行『足利尊氏と関東』)
つまり、先に尊氏にサインだけ書かせて、必要に応じてその紙に本文を書いて出していた、ということです。通常は内容の承認を得てからサインをもらうのですが、それができないほど尊氏のメンタルが崩れていたと考えられます。この世は夢の如くに候(31歳)
この世は夢のごとくに候。尊氏に道心給ばせ給候て、後生助けさせおはしまし候べく候。猶々、とく遁世したく候。道心給ばせ給候べく候。今生の果報に代へて、後生助けさせ候べく候。今生の果報をば、直義に給ばせ給ひて、直義安穏に守らせ給候べく候。建武三年八月十七日尊氏 (花押)(「常盤山文庫」)
足利尊氏は建武3(1336)年8月17日、清水寺に自筆願文を奉納しました。そこには、早く出家遁世したいこと、現世の幸せは全て弟・直義に与えてほしいことが書かれています。尊氏がこの時期相当メンタルを病んでいたのが伝わってきます。将軍になった尊氏の呼び名は「鎌倉殿」(31歳~)
北朝から征夷大将軍に任命された足利尊氏は、公家たちから、当時「武家の棟梁」を意味した「鎌倉殿」と呼ばれていた。(清水克行『足利尊氏と関東』)
なお、室町幕府の由来でもある京都室町の屋敷「花の御所」は足利義満邸です。幕府の政務を分担する(31歳~)
「大御所(尊氏)は弓矢の将軍、大休寺殿(直義)は政道」(『梅松論』)
征夷大将軍になったものの、尊氏は政治にほぼ手を出しませんでした。彼自身は軍事方面の権利を一部残しただけで、残りは弟・直義に任せました。直義との死闘
とりあえず幕府は開いたものの、今度は尊氏の家来たちが対立を始めました。特に深刻だったのが、尊氏側近・高師直と、尊氏実弟・足利直義との対立です。直義と高師直の不和が顕在化する(37歳)
後醍醐天皇側の武将・北畠親房は、書簡の中で「足利直義と高師直の不仲は既に深刻な状態だ、そのうち彼らは自滅するだろう」と言っている。(「相良結城文書」)
高師直が尊氏邸を包囲し直義の罷免を要求する(44歳)
足利直義によって執事を罷免された高師直は、河内に駐屯していた兄弟・高師泰の軍勢や、師直派の武将らを率いて直義に圧力をかけた。尊氏は直義を自邸に避難させたが、却って高師直らの軍勢に取り囲まれ、直義らを罷免する要求を受け入れてしまった。(『太平記』『園太暦』ほか)
この時も、当初尊氏は「家臣に命令されるなんて恥だ!」と死のうとしたのですが、直義が説得して思いとどまらせたとか。尊氏、失踪する(45歳)
九州で反尊氏の挙兵をした足利義冬を討伐すべく進軍していた尊氏は、足利直義が京都から失踪し、政敵だった南朝と講和したと聞いて、「舟遊びをする」と告げたまま数日間失踪する。(『園太暦』)
腹心の高師直と、実弟の足利直義との間で板挟みになり、尊氏はまたしても心を病んでいたのでしょう。直義を毒殺?する(47歳)
足利直義は、幽閉先の鎌倉で死亡する。足利尊氏の指示だという噂がある。(『太平記』)
直義に従二位を追贈する(53歳)
尊氏は、故・足利直義に従二位を追贈した。(『愚管記』『園太暦』ほか)
一説には、尊氏は直義と対立し死に追いやったことに良心の呵責があったとか。この2か月後に、尊氏も死去します。尊氏の死後
戦前では天皇に歯向かった「逆賊」だった
足利尊氏は後醍醐天皇に敵対したため、戦前は尊氏の扱いが酷かった。
清水克之氏によると、尊氏の寺や墓が荒らされ、足利市の特産物の織物が「逆賊織」として不当に蔑まれ、足利氏や足利市出身者も差別されていたという。(清水克之『足利尊氏と関東』)
その他
肖像画別人説
江戸時代から2000年頃まで「足利尊氏」とされていた京都国立博物館所蔵の騎馬武者像は、現在は別人とされている。(藤本正行『鎧をまとう人びと』、黒田日出男『肖像画を読む』他)
室町将軍で唯一「義」がつかない将軍
足利尊氏は室町幕府将軍の中で唯一「義」がつかない。(『尊卑分脈』他)
もともと足利家は清和源氏の家に共通して「義」を名乗る慣習がありました。それが鎌倉時代に、執権・北条家と仲良くする戦略として、北条家の「氏」の字を貰ったことで、「義」をつける伝統が必ずしも徹底されなくなったそうです。なお、尊氏の父は貞氏、異母兄は高義、実弟は高国→忠義→直義で、「氏」か「義」がつく場合がほとんどです。
夢窓疎石の尊氏評
尊氏・直義兄弟の座禅の師匠であった夢窓疎石は、尊氏の性格を①死を恐れず、合戦に臨んでもむしろ微笑んでいる②慈悲深く、他人を恨むことを知らない③心が広く、物惜しみせず金銀を与える、と評している。(『梅松論』)
死を恐れない(簡単に死ぬ)点は尊氏の戦強さにつながる一方で、ピンチの時に簡単に切腹しようとする家来泣かせな一面にもつながります。おわりに
足利尊氏は、室町幕府初代将軍と聞くと何やら勇ましい人物のように思えるものの、それに増して失踪や自殺未遂、厭世願望など病んでいる逸話もたくさん残っています。確かに、仕えていた鎌倉幕府への謀反、支持した後醍醐天皇との反目、頼っていた弟との対立などを思えば、逃げ出したくなるのも仕方ないかもしれません。
【主な参考文献】
- 清水克之『足利尊氏と関東』(吉川弘文館、2013年)
- 森茂暁『足利尊氏』(角川選書、2017年)
- 亀田俊和『観応の擾乱』(中公新書、2017年)
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