まさかりかついだ金太郎、母親は山姥だった

子ども向けの絵本でよく見かける、「金太郎」の姿。金太郎といえば、力持ちで動物と親しく、仲間思いというイメージです。「金」と書かれた赤い腹掛けの姿は、五月人形のモデルとしても有名ですね。

そんな金太郎ですが、今の絵本ではあまり描かれないエピソードとして、「母親が山姥(やまんば)だった」というものがあります。「山姥」とは、山に住む妖怪の女のこと。怪力を持ち、おそろしい形相をしていると考えられています。

金太郎の母親が山姥だというのは、本当でしょうか?だとしたら、なぜそう言われているのでしょう。今回は、金太郎の出自と山姥伝説について紹介します。

金太郎のあらすじ

はじめに、絵本『きんたろう』で語られる物語について、ざっと見てみましょう。

「♪まさかりかついで……」の歌にもあるように、金太郎は足柄山に住み、動物たちと仲良く暮らしていました。

お話の最後で、金太郎はみなもとのらいこう(よりみつ/源頼光)という侍に見いだされ、京都へ向かいます。そして、名をさかたのきんとき(坂田金時)と改め、頼光とともに数々の鬼を退治したと伝えられます。

金太郎が源頼光と出会った場面を描いたもの(月岡芳年画、出典:wikipedia)
金太郎が源頼光と出会った場面を描いたもの(月岡芳年画、出典:wikipedia)

金太郎が生まれた足柄山

坂田金時(金太郎)が生まれ、幼少期を過ごしたという足柄山は、神奈川県と静岡県の県境にあります。
ここでいう足柄山とは特定の山の名前ではなく、古くは足柄峠や金時山を含めた一帯が足柄山と呼ばれており、金太郎ゆかりの地として人々に親しまれてきました。

一方で、長野県にも金時にまつわる伝説や山が存在します。

長野県大町市八坂にある大姥山では、鬼女・紅葉の子どもが坂田金時とされていました。また、木曽山脈(中央アルプス)南西部にある南木曽岳(なぎそだけ)は、別名「金時山」と呼ばれています。

箱根山地・矢倉沢峠付近からみた金時山
箱根山地・矢倉沢峠付近からみた金時山

金太郎の母は山姥だった

絵本『きんたろう』では、金太郎の父は侍でしたが、戦で亡くなったと書かれていました。そして、敵から逃れるために、金太郎と母は山奥に隠れたとされています。現代の絵本だと、金太郎の母は理由があって山へ移り住んだことになっているのですね。

ここで、疑問に思うことがあります。「坂田金時(金太郎)の母が山姥だった」という話は、どこから来たのでしょう?

その答えは、江戸時代の万治4(1661)年に作られた浄瑠璃『公平誕生記(きんぴらたんじやうき)』にありました。源頼光より下の世代の武勇伝、「公平誕生記」の主人公、公平。その父は、坂田公時(金時)です。この冒頭にて、公時が「鬼女山姥の子で、山中にて暮らしていた」ことが初めて書かれたといいます。

次に見ていきたいのは、『前太平記』巻第十六の「頼光朝臣上洛事付酒田公時事(よりみつあそんじやうらくのこと さかたのきんときがこと)」です。

『前太平記』の成立年は不明ですが、元禄5(1692)年の書籍目録に記載があるため、少なくとも江戸時代中期より前に作られたと考えられています。

このお話では、源頼光が公時と出会う場面が、以下のように描かれました。

源頼光が山中の雲気にひかれて部下を使いにやったところ、老婆と子どもがおり、老婆は子どもについて「赤竜と交わる夢を見て、雷に打たれて身ごもった」と言います。それを聞いた源頼光は、子どもを自分の部下にして「酒田公時」と名付けました。そして、酒田公時は頼光の四天王として名を馳せることになります。

ただ、この物語では、金太郎が「赤竜と人間の子」であると示唆されているものの、母は山に住む老婆であり、「山姥」だとは明言されていませんでした。

『公平誕生記』や『前太平記』。それらの設定を使ったのが、正徳2(1712)年初演の時代浄瑠璃『嫗(こもち)山姥』です。

近松門左衛門が制作した『嫗山姥』では、もと遊女の八重桐が、切腹した夫(坂田蔵人時行)の血を飲んで怪力となり、山姥となって山中にて出産したという話が語られます。

八重桐の子もまた常人離れした力を持ち、「怪童丸」と呼ばれました。そして怪童丸は、源頼光の部下となって公時と名付けられるのです。

この「嫗山姥」は高い評価を得て、以降は怪童丸の登場する浄瑠璃が多く作られました。

山姥とはどんな存在だったのか

ここで、「山姥」について見ていきましょう。

近世における山姥のイメージは「山に住む鬼女」であり、しわだらけの顔で怪力がある、恐ろしい妖怪というものでした。山姥が登場する昔話に、「三枚のお札」というものがあります。これは、山で夜をむかえた小僧が山姥に襲われ、三枚のお札を使って逃げるストーリーです。

しかし、かつての日本では、山姥は山の神の妻、もしくは山の神そのものと考えられていました。民俗学者の柳田國男は、近世の山姥のイメージについて、山に住む恐ろしい存在でありながら、時には里へ現れて福を授ける存在でもあったと述べています。

また同じく民俗学者の折口信夫は、山姥について「山の神の巫女」であるとしました。折口によると、山姥は、もとは山に住む神の妻であり、祭りのある時には里に下りて舞をおどっていたといいます。それが次第に、山に住む鬼や天狗などの怪異と同一視されるようになったとのことでした。

このように山姥は、人を襲う妖怪であると同時に、福をもたらす存在ともされていたのです。

坂田金時は実在したのか?

ここまで見てくると、坂田金時について、どこか現実離れした印象を受けるかもしれませんね。確かに、文献を探ってみると、「坂田金時が実在した」という説の確証はとれていないようです。

坂田金時が仕えた源頼光については、平安時代中期に活躍したことがわかっています。源頼光は、藤原道長の側近として、「朝家の守護」と呼ばれるほどの立場へのぼりつめた武士として知られていました。

しかし、坂田金時については、説話などの中に名前が出てくるのみです。金時が登場する『前太平記』には、「酒顚童子退治事」などの鬼にまつわる伝説も収録されているため、実際にあった出来事なのか不明となっています。また苗字と名前の漢字も、「酒田」「坂田」、「公時」「金時」、というように作品によって異なるため、定かではありません。一説によると、坂田金時のモデルは藤原道長の随身である「下毛野公時(しもつけの の きんとき)」だ、と推測されているそうです。

現代における金太郎のイメージは、江戸時代中期以降の絵本や草双紙(挿絵入り小説)によって広まり、多くの人々に知られるようになります。その後は浮世絵でも「山姥と金太郎」を題材にしたものが流行し、喜多川歌麿や葛飾北斎、歌川国芳など著名な浮世絵師によって、多くの美人画が描かれました。

『坂田怪童丸』(歌川国芳画、出典:wikipedia)
『坂田怪童丸』(歌川国芳画、出典:wikipedia)

おわりに

金太郎および坂田金時については不明瞭な部分が多く、想像でしか語りえないという特徴があります。だからこそ、浄瑠璃や浮世絵などへ頻繁に登場し、人々から愛された存在となったのかもしれませんね。

また山姥と金太郎の関係については、江戸時代に広く知られたとされていますが、それ以前から山村で信じられていた「山姥伝説」と、近世になって広まった「金太郎伝説」が合体したという説もあるのです。そう考えると、金時に関係する山が各地にあるのも、納得がいくと思いませんか。

山姥が、山に住む巫女であったのか、妖怪であったのか。金太郎は山姥の子だったのか、そうでなかったのか。作品の数だけ積み重なる物語を、ひとつひとつ読み解いていくのも面白いですね。


【参考文献】
  • 近松門左衛門『嫗山姥』住沢正新堂、1894年
  • 折口信夫『翁の発生』青空文庫、2012年(1929年)
  • 柳田国男『山の人生』岩波書店、1976年
  • 平田昭吾『世界名作ファンタジー きんたろう』ポプラ社、1999年
  • 小松和彦『天狗と山姥 (怪異の民俗学 5)』河出書房新社、2000年
  • 鳥居フミ子『金太郎の誕生』勉誠出版、2002年
  • 鳥居フミ子『金太郎の謎』 みやび出版、2016年
  • 西川 照子『金太郎の母を探ねて』講談社、2016年
  • NHK for school おはなしのくに「三まいのおふだ」
  • 神奈川県立歴史博物館 山姥と舞をまう金太郎(喜多川歌麿)
  • 愛媛県伊予市観光協会 伊予稲荷神社「山姥金時」

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  この記事を書いた人
なずなはな さん
民俗学が好きなライターです。松尾芭蕉の俳句「よく見れば薺(なずな)花咲く垣根かな」から名前を取りました。民話や伝説、神話を特に好みます。先達の研究者の方々へ、心から敬意を表します。

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