徳川家康とはどのような武将だったのか?…非狸親父説は本当か?

徳川家康のあだ名といえば狸親父(たぬきおやじ)。
徳川家康のあだ名といえば狸親父(たぬきおやじ)。

 戦国武将・徳川家康というと、皆さんはどのような印象を持っているでしょうか?1つは「狸親父」(年老いてずるがしこい男)というイメージもあるかもしれません。

 これは、方広寺の鐘銘(「国家安康」「君臣豊楽」)を口実に豊臣家を挑発して戦争(大坂の陣)に追い込み、大坂城の内堀の埋め立てなどの謀略によって、豊臣家を滅ぼしたとの逸話から、家康=狸親父との認識が形成されたものと思われます。

 狡知に長けた狸親父との家康像(狸親父史観)は「偏向している」「間違いだ」「狸オヤジ史観は、江戸幕府と家康を根本から否定したい明治新政府の思惑から出ている」と説く作家さんもおりますが、私はいやいや、どうして、家康はやはりなかなかの「狸親父」だと史資料を見ていて思うのです(若い時から、家康は策略家だったと私は感じているので、親父というのは違うのかもしれませんが・・)。

 私がそう思った1番の理由が、三河一向一揆における家康の対応にあります。三河一向一揆は、家康の領国である三河国岡崎周辺で勃発したものです。永禄6年(1563年)9月から翌年(1564年)3月にかけての出来事ですが、この一揆は、家康三大危機の1つ(他は三方ヶ原の戦い、本能寺の変後の伊賀越え)と言われています。家康の家臣には、一揆方に属するものもいて、鎮圧にそれなりの時間を要したのでした。

 家康方が苦戦することもありましたが、家康の姿を見ると逃げ出す一揆方の元家臣もいて、次第次第に、一揆方が劣勢となっていきます。そしてついには、一揆方から和議の話が出てくるのです。「一揆を企てた者の命を助け、寺をもとのように置いてください」というのが、一揆方の者の要求でした。それに対し、家康の意向は「和議を結ぼうという者の命は助けよう。寺も元のように置こう。が、一揆を企てた者は処罰することになろう」というもの。一揆方の人々は「他の者もお助けください」と嘆願するが、家康はそれが不満だったようで、一旦、和議は進まなくなります。しかし、家臣の中からも「一揆を企てた者の命をお助けください」との声が出てきます。「色々なご不満は捨てて、相手の望みを叶えさせ、和議を結んでください。和議の後に一揆方に加わった者たちに先陣をきらせ、他の敵と戦わせるのです」と言うのです。(なるほど)と家康は思ったのか、和議を結ぶことにします。一揆方の要求を呑んで和議を結んだのです。

 しかし、ここからが、私が家康を狸と呼ぶ所以です。起請文(誓約書。神仏に呼びかけて、もし自らの言葉が偽りならば、神仏の罰を受くべきことを誓約すること)を書いて、和議を結んだにもかかわらず、家康は約束を破るのでした。寺を壊し、一向宗の人々に宗旨を変える起請文を書かかせようとしたのです。「寺は元のように置くとの起請文があります」と一揆方だった人々は不満を述べます。すると家康は「以前は野原だったのだから、以前のように野原にせよ」と命令し、堂塔を破壊したのです。この話は、江戸時代前期の旗本・大久保彦左衛門忠教の自伝『三河物語』に書かれているものです。この時、家康は21歳です。 

 どうです?若くして、なかなかの「狸」ではありませんか?『三河物語』は、家康のこの豹変については、論評していません。ただ、一揆方に加わり、敵となった人々を、助命したということを「お慈悲の深さ」として感動しない者はいなかったと記すのみです。

 さて、2023年に放送される大河ドラマ「どうする家康」(家康役は俳優の松本潤さん)は、若い頃の家康を「弱虫」だったと描くようです。番宣動画にも「家康弱虫編」というタイトルが付いています。「弱虫」だった家康が、織田信長や豊臣秀吉・武田信玄という「強敵」とまみえることや、困難を突破することにより、成長していくとの筋書きとなるのでしょうか。私としては、爽やかな松本潤さん演じる家康が、戦国の荒波に揉まれて、策謀家に「変身」していくところを見たいものですが、果たして、物語はどのように進んでいくのか。

 それにしても、若き頃の家康は本当に「弱虫」だったのでしょうか?『徳川実紀』という徳川幕府編纂の史書には、当然ながら、家康が弱虫だったと記しているような箇所はありません。幼少の頃から家康は武将としての才があったとする逸話が記載されています。

 例えば、家康がまだ駿河の今川氏のもとにいた頃。阿部川で行われた石合戦を家康は見物します。一隊は300人余り、もう一隊は150人ばかり。これは、どう見ても、多勢(300人余り)の方が勝利すると思われました。が、家康は小勢が勝つと主張したのでした。「人数こそ少ないが、彼らに恐怖の色なく、隊伍もよく整っている」というのが、家康が挙げた理由です。付き添いの者は家康の言葉を訝しく思いますが、いざ石合戦が始まってみると、家康の予言が当たるのです。多勢の側は、瞬く間に敗走してしまうのでした。この家康の言葉を聞いた者は「年少ではあるが、何という聡明なこと」と舌を巻いたそうです。

 同書記載の別の逸話では・・これまた家康が駿河の今川氏にいた頃。正月ということもあり、今川義元のところには、多くの者が年賀にやって来ます。そのなかには、まだ幼い家康の姿もありました。「この子供は誰だ」「誰の子だ」という話になり「あれは、松平清康の孫じゃ」という者もおりましたが、誰も信じる者はいなかったとのこと。

 その時、家康は座を立ち、縁側に向かうと、突如、放尿し始めたのです。しかも、家康にそれを恥ずかしがるような態度は見えませんでした。これを目撃した人々は「驚嘆」したようです。幼い頃から、堂々としていたということでしょう。「石合戦」「放尿」の逸話にしても、家康は年少の頃から凄かったということを補強したいがための創作のように思います。しかし『三河物語』は家康のことを「生まれつき、気のはやる殿」と記しています。せっかちだったというのです。ですから、私は家康をおっとりしていて、気の弱い、優しい「貴公子」とは考えていません。若い頃より、胆力ある人物だったと思ってます。

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  この記事を書いた人
濱田浩一郎 さん
はまだ・こういちろう。歴史学者、作家、評論家。1983年大阪生まれ、兵庫県相生市出身。2006年皇學館大学文学部卒業、2011年皇學館大学大学院文学研究科博士後期課程単位取得満期退学。専門は日本中世史。兵庫県立大学内播磨学研究所研究員、姫路日ノ本短期大学講師、姫路獨協大学講師を歴任。 著書『播 ...

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