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気長な性格はウソ!?神君徳川家康の知られざる姿とは

徳川家康の像

徳川家康と言うと、忍耐力を武器に着実に天下を手中に収めたと思っている人は多いと思われる。しかしながら青年期から家康を調べて行くと、意外に短気な面と無謀な面が見え隠れするのである。

「黒歴史」とは無縁のように思われがちな家康だが、実像はそうでなかったようである。ではその実像に迫ってみよう。
(文=pinon)

利口に書かれている少年時代

家康は幼名を「竹千代」と言い、8歳から19歳まで今川家の人質として駿府で育ったことは有名であるが、少年竹千代の聡明さを伝えるエピソードに「安倍川の石合戦」がある。

───ある日、駿府の西側を流れる安倍川にて150名ほどの組と300名ほどの組が石合戦をしているのを見物していた竹千代は、「少ない人数の組のほうが勝つであろう」と答えた。
お供がその理由を尋ねると、竹千代は「数の多い方は油断して半分くらいのものは遊んでおるし、残りの者も本気で戦っておらぬ。対して数の少ない方は必死である。よって少ない組が有利じゃ。」と答えた。
そして、竹千代の言う通り少ない組のほうが勝利したという話を聞き、師の太原雪斎和尚は竹千代の才を高く評価したという。──

この太原雪斎が本当に竹千代の教育係であったか否かは諸説あるが、竹千代の話を耳にしていた可能性は高く、ある程度の信憑性はあるのかもしれない。

このほか、武芸や学問に熱心であった等、とかく少年時代の家康は利口な人物に描かれていることが多い。江戸時代に書かれた史書は家康を神格化して書く傾向があるため、話の「盛りすぎ」には注意する必要があろう。

短気さや無謀さが見え隠れする青年時代

家康と言えば辛抱強く、気長に待てる性格と認識している人も多いであろう。なんせ「鳴かぬなら鳴くまで待とうホトトギス」という句が独り歩きしている側面が強すぎるのである。

この句は、当の家康本人が読んだ句ではないということはご存じであろうか。そして問題は「誰が」「いつ」詠んだのかということである。

実は、この句は江戸後期の『耳嚢(みみぶくろ)』という文献に見られる「狂歌」に過ぎない。

しかも読み人知らずである。

先にも書いたが、江戸時代の家康に関する評価には多分に脚色があり、多少差し引いて考えなければならない。実際に、家康が幕府を開く以前の史料を読み解いていくと、黒歴史と言っても過言ではない意外な面が浮かび上がってくるのである。

実は短気

家康愛用の軍配にはイライラして噛んだ歯形でいっぱいだったと言われる。また、そりの合わない年下の家臣を縁側から突き落とすなどの癇癪を起していたことも記述されている。

こぶしイラスト

特に戦の最中は怒りやすく、激高すると馬の鞍を拳で殴りつける癖があり、その結果拳は血だらけになったと言われている。

後年、その癖がもとで指の曲げ伸ばしがしにくくなったというから、かなり頻繁に激高したものと推測される。

結構無謀?

家康の無謀さを端的に表しているのは三方ヶ原の戦いであろう。

元亀3年(1572年)、西上作戦を開始した武田信玄は遠江国に侵攻したが、何と家康のいる浜松城を素通りして三方ヶ原台地に向かったとされる。

元々織田・徳川連合軍は浜松での籠城を計画していたのだが、この信玄の作戦には驚いたらしい。これを、信玄を背後から襲う好機ととらえた家康は、反対する家臣を押し切って追撃に出た。

浜松素通りは信玄の策では?という疑念は家康の頭にも当然あったと思われる。しかし、それをしても追撃の欲求に勝てなかったあたりに、無謀さが見て取れるのである。

この追撃策は信玄のフェイクを利用した戦略の1つであったという説もある。だが、命からがら逃げかえった家康が有名な「しかみ図」を描かせているところを見ると、無謀さのなせる業ではなかったかと思えてしょうがないのである。

<a href='https://sengoku-his.com/ieyasu'>徳川家康</a>のしかみ像(徳川美術館所蔵)
徳川家康のしかみ像(徳川美術館所蔵)

意外に新し物好き

新し物好きと言うと、真っ先に思い浮かぶのは織田信長であろう。
しかし、家康も信長に劣らぬ新しもの好きの一面があったとの記述が残されている。

日本で初めて「鉛筆」を使用

鉛筆は16世紀末にはイギリスで製造が開始されたとされているが、家康に献上された鉛筆も、この頃の物であると言われている。 鉛筆の登場のごく初期に家康の手に渡っていることから、鉛筆を日本で初めて使用したのは家康であるとされているのである。

眼鏡を使用

眼鏡が日本にもたらされたのは天文20年(1551年)、フランシスコ・ザビエルが日本に上陸したときと言われる。

その際周防の大名・大内義隆に献上されたとの記録がある。しかし、義隆が献上された眼鏡を使用したとの記述が見られないことから、義隆は眼鏡を使用しなかった可能性が濃厚である。

家康は実際に眼鏡を使用していたと言われ、事実、自身愛用とされるメガネが静岡県の久能山東照宮に2つ保管されている。

南蛮胴を着用

南蛮胴はヨーロッパの胴鎧を日本風に改造したもので、信長が好んで着用したことは有名である。家康もこの南蛮胴を実際に着用していたとされ、日光東照宮には関ヶ原の戦いに行くまでの道中で着用したとされる南蛮胴が残されている。

徳川家康所用 南蛮胴具足
徳川家康所用 南蛮胴具足(wikipediaより)

信長は単に、物珍しさから南蛮胴を着用し始めた側面が強いと思われる。しかし、家康の場合は主に晩年になってからの着用である点を考えると、戦において鉄砲の大量使用が既に当たり前となった状況に対応したものと取ることもできよう。

いつから「狸おやじ」に?

家康は、青年期は「短気」「無謀」、壮年期以降は「狸おやじ」と年齢を重ねるにつれて性格が劇的に変化している。

では、狸おやじとしての片鱗を覗かせるようになるのはいつ頃のことなのであろうか?

天正10年(1582年)の6月2日に本能寺の変が起こったとき、家康は堺にいた。信長のはからいで堺の町を見物していたということもあって、その時の供の者は少人数であった。三河へ帰還する際に明智の軍勢に見つかれば、皆殺しになるのは必定であり、かといって身を隠しつつ山越えを敢行すれば落ち武者狩りに合う可能性もあった。

このとき、家康は「信長公の跡を追い、腹を切る」と言ったとされている。この言動を見るに、少なくともこの時点では青年期の青臭さは完全には消えていないように思える。

史料の上から確認できる、最も古い「狸親父」ぶりは朝鮮出兵での立ち回りではないだろうか。

天正18年(1590年)、関東に移封となった家康は荒廃した江戸の地を開発し、領地経営を急ピッチで進めねばならない状況にあった。秀吉の朝鮮出兵の際に、家康はこの領国経営を理由に朝鮮半島への出兵を辞したとされる。

そもそも、朝鮮出兵には慎重な家康であったから、本音は国力の温存にあった可能性は高い。その後、出兵した西国大名の疲弊ぶりとは対照的に、江戸は発展を続け、関ヶ原の戦いの直前には、250万石を超える石高にまで成長している。実に見事な策ではないだろうか。

この時点ではもはや、「狸親父」ぶりを発揮していたと思われるのである。

実は野心はそれほど高くなかった?

播磨良紀「秀吉と家康 豊臣政権の中枢で、積極的な役割を果たした家康」(P148~160)によると、少なくとも史料に見える行動からは、豊臣政権を崩壊させようという意図は窺えないと分析されている。

小牧長久手の合戦にしても、関東での惣無事の権限を守ろうというところから行われたという側面があることが指摘され、家康は少なくとも秀吉の存命中は、天下への野心はなかったのではないかと言うのである。

歴史学の話からは少し逸脱するが、NHK大河ドラマ「真田丸」では、石田三成が家康襲撃を画策しているという話が諸将に広がり、徳川屋敷に続々と家康を支持する大名が集結するのを見て天下取りの野望に火が付いたというシーンがある。

脚本家の三谷幸喜氏も家康が天下取りを決心するのは秀吉の没後と判断したようであり、私の見立ても同様である。





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