【小倉百人一首】10番・蝉丸「これやこの行くも帰るも別れては知るも知らぬも逢坂の関」

『小倉百人一首』のうち古い時代の作者には多いことですが、今回取り上げる蝉丸(せみまる/せみまろ)も正体不明の歌人で、ほとんど伝説上の人物です。天皇の子、盲目の琵琶の名手などさまざまな説がある歌人・蝉丸の代表歌を紹介します。

原文と現代語訳

【原文】
これやこの 行くも帰るも 別れては 知るも知らぬも 逢坂の関

【現代語訳】
これが、都から東国へ下る人も、それを見送って都へ帰る人(東国から都へ帰ってくる人)も、知る人も知らない人も、みんなここで別れ、またここで逢うという、名前のとおりの逢坂の関なのだなあ。

歌の解説

これやこの

「これがうわさに聞く」という意味で、最後の「逢坂の関」にかかっています。「や」は詠嘆の間投助詞です。

行くも帰るも

「東国へ下る人も、それを見送って都へ帰る人も」という意味。「行く」「帰る」それぞれ連体形で、下に続くはずの「人」が省略されています。

別れては

「ては」の後は省略されていますが、この反復の語から想像できるのは「別れてはまた出会う」こと。出会いと別れを繰り返す、という意味です。ちなみに、この和歌は勅撰集『後撰和歌集』からとったものですが、『後撰集』では「別れつつ」となっています。

知るも知らぬも

「行くも帰るも」と同様に、「知っている人も知らない人も」という意味。「これやこの」「行くも帰るも」「知るも知らぬも」と反義語が3つも続き、調子のいい和歌です。

逢坂の関

滋賀県大津市と京都府京都市の堺にある逢坂山にあった関所で、都から他国へ行く交通の要所でした。関所自体は近江国(滋賀県)側にありました。大化2年(646)に設置され、延暦14年(795)に廃止されました。「逢坂」は「逢う」の掛詞になり、また関所があった「近江」も「逢ふ身」となるので、恋の歌に詠まれることが多い言葉です。

関所というからには通るのは大変、というイメージがあるかもしれませんが、平安時代にはすでに廃止されていたため、「越えやすい関」とされていたようです。62番歌の清少納言の和歌も逢坂の関を詠んでいます。「夜をこめて鳥の空音は謀るともよに逢坂の関は許さじ」。

『枕草子』にもこの和歌のエピソードがあります。藤原行成(ふじわらのゆきなり/こうぜい)とのやりとりの中で「鳥の鳴きまねで騙そうとしても逢坂の関は許しませんよ(私は騙されない、逢いませんよ)」というわけですが、行成はこれに「逢坂は人越えやすき関なれば鳥鳴かぬにもあけて待つとか(逢坂は人が越えやすい関なので、鶏が鳴かなくても関の戸を開けてくる人を待つとか)」という和歌を返しています。

出入りしやすい旧関なので、このような冗談のやりとりにも使われているのです。

作者・蝉丸

はじめに紹介したとおり、蝉丸はほとんど伝説の中の人物で、架空の人物か、ともいわれています。一説には、宇多天皇の第8皇子・敦実親王に仕えた雑色(ぞうしき)とか、醍醐天皇の第4皇子であるといわれています。

『後撰集』のこの和歌の詞書(ことばがき)には「相坂の関に庵室をつくりてすみ侍りけるに、ゆきかふ人を見て」とあります。蝉丸は盲目の琵琶の名手で、逢坂の関に設けた庵で隠遁生活を送ったとも伝えられています。盲目なのにゆきかふ人を「見て」というのは矛盾がありますが……。

琵琶の名手としての伝承

平安時代末期に成立した説話集『今昔物語集』には、宇多天皇の第8皇子・敦実親王の雑色だった盲目の琵琶の名手として登場します。琵琶の名手として知られる源博雅が蝉丸のうわさを聞いて京の都から逢坂の関まで通い続け、3年目の8月15夜にやっと秘曲『流泉』『啄木』を聴き伝授された、というエピソードです(巻第二十四「源博雅朝臣会坂盲許語」より)。

これと似たような説話はいくつもあります。「盲目の琵琶法師のもとへ通って秘曲を授けられる」という類型があり、その盲目の琵琶法師がやがて蝉丸として語られるようになったと考えられています。

一方、『平家物語』や中世の謡曲『蝉丸』は蝉丸を醍醐天皇の皇子としています。『平家物語』巻第十「海道下」では、『今昔物語集』と同様のエピソードを語るだけで、新しい情報はありません。なんとなく、『今昔物語集』の蝉丸の紹介部分を勘違いしたか誤記したかで誤って伝えられたような気がしますが……。『平家物語』成立時期にもよりますが、醍醐天皇皇子説はおそらく『平家物語』が最初です。

謡曲『蝉丸』は『平家物語』と同様に醍醐天皇皇子説をとりながら、蝉丸の人物像に新しい設定が加えられています。皇子でありながら蝉丸が逢坂の関で隠遁生活を送りながら琵琶を弾いているのは、幼少期に盲目を理由に捨てられたからだといいます。帝の命により逢坂山に連れていかれ、剃髪されて捨てられた。以来蝉丸は琵琶を慰めにして過ごします。そこに髪が逆立つ病にかかり諸国を放浪していた姉宮は逢坂山にたどり着き、弟宮との再会に喜びます。しかし、出会いがあれば別れがあるのが運命。ふたりは今生の別れを悲しみ、物語は終わります。

おわりに

「これやこの……」の和歌はリズミカルなのもあって、「これがうわさの逢坂の関か!ひっきりなしに人が通るものだなあ」程度の解釈もできると思いますが、一方では仏教の考えで解釈され、会者定離(えしゃじょうり)を表した作品といわれます。謡曲『蝉丸』も逢坂を舞台にしているためか、同じように人の出会いと別れの無常を題材としています。和歌と謡曲セットで鑑賞するとより楽しめるのではないでしょうか。


【主な参考文献】
  • 『日本国語大辞典』(小学館)
  • 『小学館 全文全訳古語辞典』(小学館)
  • 『国史大辞典』(吉川弘文館)
  • 『日本大百科全書(ニッポニカ)』(小学館)
  • 『世界大百科事典』(平凡社)
  • 吉海直人『読んで楽しむ百人一首』(角川書店、2017年)
  • 冷泉貴実子監修・(財)小倉百人一首文化財団協力『もっと知りたい 京都小倉百人一首』(京都新聞出版センター、2006年)
  • 目崎徳衛『百人一首の作者たち』(角川ソフィア文庫、2005年)
  • 校注・訳:馬淵和夫、国東文麿、稲垣泰一『新編日本古典文学全集37 今昔物語集3』(小学館、2001年)
  • 校注・訳:松尾聰、永井和子『新編日本古典文学全集18 枕草子』(小学館、1997年)

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  この記事を書いた人
東滋実 さん
大学院で日本古典文学を専門に研究した経歴をもつ、中国地方出身のフリーライター。 卒業後は日本文化や歴史の専門知識を生かし、 当サイトでの寄稿記事のほか、歴史に関する書籍の執筆などにも携わっている。 当サイトでは出身地のアドバンテージを活かし、主に毛利元就など中国エリアで活躍していた戦国武将たちを ...

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