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江戸時代の医者とはどんなものだったのか? その実態と治療法

 三船敏郎さんが演じた黒沢明監督の名作「赤ひげ」、またTV番組の「大岡越前」で大岡忠助の友人として榊原伊織という医師が登場します。これらの映画やドラマで江戸時代には既に「医者」という職業があったことが分かりますが、まだ医療が未発達の時代、彼らは一体どんな治療を行っていたのでしょうか?

 そもそも、まだ国民健康保険や医師国家試験もない時代です。ならば、どういう方法で医師になったのか? 治療費はいくら位だったのか? 実際に効果はあったのか? など気になる点は色々あります。

 今回はそれを取り上げてみましょう。

日本における「医者」の登場は、南北朝時代

 貴族が施政を行っていた平安時代を経て、武士が台頭してくると、あちこちで武力衝突、いわゆる「戦(いくさ)」が多発することとなりました。すると怪我人が出ます。そして南北朝時代にそういった怪我人に対し、戦場で応急処置を行う僧が戦に同行するようになりました。これが日本における医者のルーツです。

 戦国時代になると、戦場に応急処置を行う医者が同行するのは普通のこととなり、これらの医者は「金創医(きんそうい)」と呼ばれました。要は日本刀や槍などの「金物の武器で負わされた傷を治す」という意味です。

 金創医は必ず頭を丸坊主にして戦場に同行しました。なぜなら戦で敵にやられないためです。人間同士が直接に相対した当時の闘いでは敵と味方の区別がつけにくく、もっぱら背負っている旗のぼりで敵か味方かを見分けたのですが、パニック状態に陥った兵士は何をするか分かりません。このため「私は兵士ではないぞ」ということを明確に示すために、頭を丸坊主にしたのです。

 この伝統はその後も長く受け継がれ、江戸時代でも医者といえば「頭が丸坊主」であることが一般的となりました。しかし戦っている武士からすると、そうやって戦に巻き込まれないようにしている金創医は臆病者であり、「ちゃんとした人物がする職業ではない」と考えられ、全く尊敬されず、むしろ蔑視されていたのです。

 ただ、実際に自分が傷を負ったら金創医の彼らに頼るしかありません。では金創医はどんな治療をしていたのでしょうか?

止血

 人間の血液量は1kgあたり、80ミリリットル程度になります。例えば、体重80kgの人なら、およそ6.4リットルの血液が体の中を流れており、その約1/3の量の血液である2.2リットルを失うと失血死してしまいます。このため、刀傷や槍傷などの外傷では、まずは止血が重要でした。

 止血は「膠(にかわ)」という接着剤を付けた和紙を傷口に張り付けることで行っていました。膠の正体はゼラチンであり、これは動物の皮や骨から作られますが、原材料となった動物が何であるのかは、この当時は不明でした。

 この和紙による止血はとりあえず傷口を塞ぐことが出来るので、一定の効果はあったと思われます。和紙は意外に防水性も高いため、血が滲み出てくることもなかったでしょう。和紙を張り付けて傷口全体を布できつく縛れば、止血処置としては十分な効果があったと考えられるのです。

気付

 人間は傷を負わされると精神的なダメージも受けます。場合によっては迷走神経反射が起こり、心拍数の低下や血管拡張による血圧低下、失神なども起こります。つまりフラフラ状態になってしまうのです。これでは、すぐに敵にやられてしまいますので、正常な状態に戻すため、「気付薬」というものが使われました。

 この気付薬は流派(金創医にも流派があった)によって違うのですが、「白朝散」「太白散」という色々な薬草を混合させたものが使われ、そこそこの効果はあったそうです。ただし、戦場という特殊な環境では、人間の脳は「緊急モード」に入っていると考えられ、「痛みを感じない」「骨折しても動ける」という状態になり得ます。よって、薬の効果であったかどうかは判定しかねる、というのが実情のようです。

 しかし、白朝散も太白散も、漢方の世界では現在でも処方されることがあるものだそうですので、決していい加減なものではなかったことが分かります。

 白朝散というのは「当帰、芍薬、川芎、地黄、人参、甘草、大黄、陳皮、紫檀、縮砂、木香、沈香、白芷、藿香を混ぜた物」で、ほぼ万能薬であるそうです。また、太白散というのは「滑石、生甘草を混ぜたもの」で鎮痛、整脈、精神安定などの効果があるそうです。

 ただ、金創医の中には、ちゃんとした人もいれば、いい加減な人もいたようで、「馬の小便が良く効く」といって実際に飲ませた例もあったそうです。しかし金創医の行っていた、こういった漢方薬治療が後に江戸時代の主流となってくるのです。

 金創医の漢方薬の知識は、中国から渡ってきた書物から得たものと推測され、また、儒学を学んでいた人が医者になる例が多かったのだそうです。というのも、中国から渡来した書物や文献は全て漢文で書かれていましたが、儒学者は漢文を読む事ができたからです。

 儒学者では生活が出来ないため、本で学んだ医療の知識を使い、生活費を稼ぎ始めたのが医者のはじまりだったのです。

江戸時代の医者

 江戸時代になると、金創医は一般庶民を診る医者として商売を始めます。もう戦がないため「外科治療」は少なく、もっぱら漢方薬を使った「内科治療」がメインでした。

 しかし、彼らの治療は効果があったりなかったりで、正直なところ、あまり信用されていませんでした。まだ医療知識も薬剤も未熟な状態ではやむを得ないことですが、それでも「名医」と評判を取る人もでてきたりしました。

 漢方薬の治療というのは「何をどれくらい混ぜるか」で効果が違うそうで、いわば「匙加減のうまい医者」が「治すのがうまい」と評判を取ったそうです。まだ国民健康保険もない時代ですから、全て自費診療です。そして治療代は医者が勝手に決めていたので、結構、高額になることが多く「一回の診療で一分~二分」というのが相場であったようです。

 一分というのは一両の1/4に相当する金額であり、ベテランの大工さんの日当で見ると、およそ2日分くらいに相当します。現在の貨幣価値で見ると2万~3万円です。しかも薬代は別料金でした。これでは気軽にかかることはできません。実際、医者にかかれるのはお金持ちの商人か位の高い武士くらいであったそうです。

 将軍家お抱えの医師は「官医、奥医師」、藩のお抱えの医師は「藩医」、朝廷のお抱えの医師は「朝廷医、医官」と呼ばれ、町で開業している医者は「町医」と呼ばれました。身分的には士農工商の「工」に入れられましたが、苗字帯刀も許されており、一般庶民とは違う扱いを受けていました。一般庶民も奥医師や藩医に診てもらうことは可能でしたが、前述のようにとても高額な治療費を請求されました。

 当時は国家試験などがあるはずもなく、医師になるのに必要な資格は全くありませんでした。ごく普通の人でもその気になれば、すぐにでも医者になれたのです。本気で医者を目指す場合は、評判の良い医者の弟子になり、何年か修行をして知識を得てから独立する、というのが手順でしたが、薬問屋に適当に教えてもらった知識だけで開業するような人もいたそうです。

 現在にもある「葛根湯」は風邪薬ですが、体調そのものを整える作用もある万能薬ですので、どんな患者が来ても葛根湯を処方する、という医者もいたそうです。この場合、それで良くなれば「名医だ」と言われますし、特に効果を感じられなくても、文句は言われないので問題はない訳です。しかし、やはり「ずぶの素人」が医者になっても評判が取れるほどにはなれず、結局、廃業になる例がほとんどだったそうです。

 町中で開業している町医でも、顧客をたくさん持っている医者は駕籠に乗って往診にいったので「乗物医者」、そこそこ金持ちの医者は、薬箱を持った中元を伴って歩いて往診に行ったので「徒歩医者」と呼ばれました。彼らはなんと上記の診療代、薬代の他に「駕籠代」「出張診療代」などと名目を付けて更なる高額な治療費を要求したそうです。

 その一方で、永田徳本(ながた とくほん)という医者は「名医」と評判であったそうですが、いかなる身分であっても「18文」で診療を行っていたそうです。徳本は2代将軍・徳川秀忠の治療も行い、全快させていますが、その際も18文しか受け取らなったそうです。やはり、いつの時代でもこういった方はいるものなのですね。

 ちなみに「町医」であっても場合によっては将軍や大名といった身分の高い武士の診療を行うことがあり、それが成功した場合は特別な計らいがあったようです。大名を治療し全快させると生涯3人扶持~5人扶持が与えられたそうで、これは完全に武士と同等の扱いということになります。

 逸話として慶安3年(1650)に、大藩の大老の病を治した町医者が1000両という治療費を支給され、あまりの高額さに幕府に受け取って良いものかどうかを尋ねたところ、更に薬代として1000両を追加支給されたという話も残っています。

 医療が未発達であった江戸時代では、病気にかかったら死ぬしかないことがほとんどでした。それが盲腸炎であっても、口内炎であっても、麻酔も手術も出来ず、抗生物質も消炎鎮痛剤もない時代では治しようがなく、死ぬしかなかったのです。

 そんな時代ですから、病気を治すことは大変なことであり、もし治したらまさに「命の恩人」であった訳です。しかし、江戸の一般庶民がその恩恵を受けることは、ほとんどありませんでした。

江戸時代の公立病院と医学校

 そんな江戸の一般庶民のために幕府は享保7年(1722)に小石川養生所という、いわば公立病院を開設します。

 なんと小石川養生所では診療費は無料でした。当然、一般庶民が殺到して、そのあまりの多さにまもなく、「入院が必要な重病患者だけ」という限定処置が設けられてしまいます。

 黒沢明監督の「赤ひげ」は、この小石川養生所が舞台です。また、医師の養成のために明和2年(1765)に医学館という医師養成所が設立され、ここでも医師の養成のために誰でも無料で診てくれました。この医学館の開設により小石川養生所の負担も随分と軽くなったそうです。

 徳川家康は自分自身が薬草に強い関心を持っており「自分の病気は自分で治す」という人であったこともあり、江戸幕府は開府当初から江戸に住む人達のために麻布と大塚に薬草を育てる薬園を設けています。これらはのちに小石川に移され「小石川薬園」となるのですが、小石川養生所は、その小石川薬園の中に設けられました。つまり幕府も「手をこまねいてみているだけ」ではなかったのです。

 当時としては出来ることはやってみたのですが、それをやったのは八代将軍の徳川吉宗でした。現代の医療水準と江戸時代の医療水準を比べたら、物凄い違いがありますが、その現代医学でも、最終的には自然治癒に頼るしかない病気や、まだ治せない病気などは山ほどあります。現代でさえ、そうですから、ましてや江戸時代では医療で救える人は本当にごく限られた少数でしかなかったのはやむを得ないことででしょう。

 江戸の一般庶民にとって「医者」というのは「高い金ばかり取って、ちっとも治らない」という結果になることがほとんどでした。その結果、江戸時代の医者は「特別な存在」でもなく「尊敬されてもいなかった」のです。

江戸一般庶民がよく罹患した病気

 江戸時代の平均寿命は40歳前後です。これは幼児の死亡率が高かったことが原因ですが、それでも50歳を超えると老人扱いでした。つまり主たる年齢層は20歳~40歳ということになります。この年齢層ではまだ老化は始まっていませんので体力があります。体力があるということは免疫機能が十分に働いているということでもありますので体に抵抗力があります。ですので普通の風邪程度なら「干した生姜」を飲んだり、怪しい医者の葛根湯をのむだけでも治癒する人が多かったと考えられます。

 では、他にはどんな病気が多かったのでしょうか?

労咳

 「労咳(ろうがい)」とは、本来は結核のことですが、当時は肺になんらかの問題が発生し、咳が多くなると全て労咳とされたようです。例えば、肺炎・肺気腫・肺がん・気管支炎などもすべて労咳に該当します。

 本来の意味である結核は、空気感染する感染病であり、実際に江戸時代では罹患する人が多く、新選組の沖田総司も結核であったと推定されています。また江戸時代は10歳くらいから喫煙の習慣を持つ人が多かったので、肺気腫や肺がんも多かったものと推測されますが、「咳が多発するなら労咳」という診断だったらしく、現在では詳細な統計は取れません。

 当時の医者は労咳に対しては麦門冬湯(ばくもんどうとう)、麻杏甘石湯(まきょうかんせきとう)などを処方したようですが、これらは単なる咳止めなので完治しません。労咳に対しては「打つ手無し」という状況でした。

痘瘡

 「痘瘡(とうそう)」とは天然痘のことです。現在では天然痘は撲滅されている病気ですが、江戸時代には誰でも普通にかかる感染病でした。

 天然痘の致死率は50%と非常に高く、これはエボラ出血熱と同程度のレベルです。運良く生き残っても天然痘に罹患すると体のどこかに「醜いあばた」が残ったり失明したり等、何等かの障害が残り、当時はこれを「瘡(かさ)っかき」と呼んでいました。

 痘瘡は発病すると高熱が出るので、当時の医者は麻黄湯という解熱効果のある薬を処方しましたが、これは単なる解熱剤に過ぎません。当時、痘瘡にかかったら運を天に任せるしかなかったのです。「痘瘡は赤を嫌う」と言う迷信があり、医者も痘瘡患者を赤い布で包んだり赤い着物を着せたりしたそうです。

 歴史上の有名人でも天然痘に罹患した人は非常に多く、源実朝、豊臣秀頼、吉田松陰、孝明天皇、夏目漱石など枚挙にいとまがありません。

歯痛

 「歯痛」というのは、ちょっと拍子抜けするかもしれませんが、江戸庶民を悩ませた深刻な病気でした。

 虫歯は主にストレプトコッカス・ミュータンス菌が糖質を得ることによって発生する酸が原因で発生します。そして糖質の主なものは「砂糖」です。江戸時代の初期から中期にかけては砂糖は希少品であり、非常に高価で一般庶民が気軽に口にできるものではありませんでした。ですので、それ以前には虫歯にかかる人はいなかったのです。
 
 当時、江戸幕府はオランダ船が台湾、琉球で積み込んでくる砂糖を買っており、それは非常に高価でした。しかし砂糖の需要は増え続け、5代将軍、徳川綱吉の時代には幕府の財政を圧迫するまでになっていました。

 8代将軍吉宗は、その状態を改善すべく、琉球からサトウキビを取り寄せて江戸城内で栽培を始めて国産化を図りました。一方で諸藩でも高値で売れるサトウキビの栽培が盛んになり、江戸時代中期以降は砂糖を使った和菓子が多く作られるようになり、それに伴って虫歯も多くなってきたのです。

 そして当時の町医者が虫歯の治療として行ったのは「抜歯」でした。つまり虫歯を抜いてしまう訳です。しかし、まだ麻酔薬はない時代です。考えただけでもぞっとしますが、虫歯をやっとこみたいな道具で引っこ抜いていたのです。しかし抜歯後に消毒をするという知識も薬剤もなかったため、抜歯後に雑菌が入って敗血症を起こし、死んでしまう人も多くいたと考えられています。つまり、虫歯は命に関わる病気でもあったのです。

 なお、当時でも既に「歯科専門の町医者」というのがおり、抜歯を行っていたそうです。有名な松尾芭蕉も抜歯治療を続けた結果、最後には1本も歯が残っていなかった、と伝えられています。

血の道

 血の道とは女性特有の病気で月経痛、女性ホルモンの変動による、めまい、たちくらみ、腰痛、頭痛など全般を指します。ですので女性のこういった症状に対して当時の医者は実母散を投薬していました。

 実母散は現在でも使われているものですのでご存じの方も多いと思います。実母散が作られたのは1470年頃(室町時代)と伝えられており、月経痛、腰痛、のぼせ、肩こり、めまい、動悸、息切れ、手足のしびれ、こしけ、血色不良、便秘、むくみを改善する効果があるので、長く一般庶民の女性に愛用されてきたもので、日本橋と京橋へ抜ける目抜き通りの中橋付近に元祖、本家と名乗る実母酸散専門の売薬店があったそうです。

 江戸時代の医者というのは、対症療法を主とした治療を行いました。そもそも病気の原因が分からない以上、それ以外の対処法はなかったのです。効果は限定的でしかなかったので、大金を払ってまで医者にかかる一般庶民はほとんどいませんでした。つまり、江戸時代では「どんな病気でも、かかったら死ぬ」というのが半ば常識であったといっても過言ではないのです。

 江戸時代では「全てが人力」であり、男性は筋肉隆々という人がほとんどあったそうです。つまり現代人よりも体力があったといえるので、それだけ免疫力も強く、多少の風邪などは強靭な体力で自然治癒を待つというのが最も効果的で経済的でもありました。そんな時代に医者が一目置かれることなど有るはずがなかったのです。

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  この記事を書いた人
なのはなや さん
趣味で歴史を調べています。主に江戸時代~現代が中心です。記事はできるだけ信頼のおける資料に沿って調べてから投稿しておりますが、「もう確かめようがない」ことも沢山あり、推測するしかない部分もあります。その辺りは、そう記述するように心がけておりますのでご意見があればお寄せ下さい。

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