「藤原秀衡」 源義経を庇護した北方の王者!奥州藤原氏第三代当主

源平合戦が本格する平安時代末期、東北地方で源氏や平家と並ぶ一大勢力を率いた人物がいました。奥州藤原氏の当主・藤原秀衡(ふじわら の ひでひら)です。

秀衡は奥州を発展させる一方、朝廷から鎮守府将軍に任じられて支配権を公的に認定されます。一方で源氏にも平家にも与せず、あくまで中立姿勢を崩しませんでした。源義経が奥州に現れると身柄を保護して養育。来るべき挙兵の時まで支え続けています。
頼朝が天下を掌握すると鎌倉方と対立。義経に再び庇護を与えて共に戦おうと決断します。

大河ドラマ『鎌倉殿の13人』にも登場する藤原秀衡。彼は何を目指して誰と出会い、どう生きたのでしょうか。その生涯を見ていきましょう。


奥州藤原氏の一族に生まれる


保安3(1122)年、藤原秀衡は奥州藤原氏第二代当主・藤原基衡の子として生を受けました。生母は安倍宗任の娘と言われています。幼名(あるいは通称)が次郎と呼ばれることから、次男であったと考えられます。


奥州藤原氏は、平安時代後期に平泉を中心に勢力圏を築いた藤原北家支流の一族でした。支配領域は現在の東北地方にあたる、陸奥国及び出羽国一帯に及んでいたと考えられます。


奥州藤原氏の本拠地・平泉は、平安京に次ぐ人口を誇る大都市でした。無量光院や毛越寺など、仏教文化が花開き、仏国土と称されるほどの規模を誇っていたのです。


毛越寺のイラスト

奥州は金や名馬を産出して富を蓄財。「十七万騎」と称される強大な武士団を抱えていました。


保元2(1157)年、父・基衡が病没したことにより、秀衡は家督を相続して奥州藤原氏の第三代当主となりました。同時に陸奥国と出羽国の横領使を拝命。東北地方の郡司や土着武士らを統率し、潤沢な経済力を一手に握る立場にありました。


しかし秀衡はあくまで中央政界とは距離を置き続けます。秀衡の家督継承の前年には、京で保元の乱が勃発。後白河天皇と崇徳上皇がそれぞれ武士団を動員して武力衝突を繰り広げていました。


保元の乱では源氏や平氏などの武士が台頭し、平治元(1160)年には、院近臣・藤原信頼が源義朝らと挙兵し、平清盛に打ち破られています。


全国の武士たちが平家になびく中、秀衡は独自の勢力を保ったまま奥州の発展に尽していきました。



奥州の鎮守府将軍


嘉応2(1170)年、秀衡は従五位下・鎮守府将軍に叙任されました。


五位以上は「殿上人」と呼ばれる身分で、朝廷の清涼殿に昇殿が許される身分でした。いわゆる貴族の仲間入りを果たした格好です。

鎮守府将軍は、陸奥に置かれる鎮守府(軍政府)の長官職にあたります。令外官(律令制にない新設の官職)であり、征夷大将軍や近衛大将に次ぐ武門の栄誉職でした。


朝廷内部では、秀衡への人事に異論が出ていたようです。右大臣・九条兼実は『玉葉』に秀衡を「奥州の夷狄」と呼んでいました。叙任に対しては「乱世の基」と嘆くなど、良い印象を持っていません。


九条兼実は関白・藤原忠通を父に持ち、五摂家の一つである九条家の家祖となった人物です。いわゆる都の貴族の代弁者でもありました。京の貴族は、奥州藤原氏を「蛮族」や「蝦夷」と蔑みつつも計り知れない財力と軍事力を認識して恐れていたようです。


秀衡は貴族たちの差別意識を認識していたため、中央政界との関わりを必要最小限に留めていたようです。


特筆すべきは、秀衡への人事に平家が関わっている可能性です。当時の太政大臣は、藤原(花山院)忠雅でした。忠雅は平家に近く、嫡男は平清盛の娘を正室に迎えています。平家は保元・平治の乱において勝利して飛躍。源氏の多くが没落したことで、中央政界において政権の足場を築きつつありました。


平家に対する抵抗勢力と言えるのは、奥州藤原氏のみです。京の平家一門からすれば、奥州藤原氏との関係が安定した政権運営には必須でした。九条兼実が異論を唱えたことは、人事決定に関して貴族側の意見よりも別な力が働いたことを示唆しています。


源義経を奥州で庇護して養育


承安4(1174)年には、鞍馬寺から出奔した源義経が奥州に下向して藤原氏の庇護を求めています。


義経は河内源氏・源義朝の遺児であり、頼朝の弟でした。平治の乱の際に父を失い、兄頼朝も伊豆国へ流罪。他の兄弟はいずれも僧籍に入れられていました。平家からすれば、僧籍に入ることで義経ら源氏の生き残りを助命した形です。出奔した以上、追手がかかることも予想されました。


秀衡はいたずらに安穏を求める人物ではありませんでした。義経を不憫と思ったのか、奥州に匿って養育します。発覚すれば平家から睨まれる恐れもありましたが、秀衡には戦略的な思惑がありました。


源氏はかつて坂東(関東)や奥州に強い影響力を持っており、当時も確たる存在感を持っています。秀衡にとって、源氏の御曹司たる義経の存在は旗頭にもなり得るものでした。


奥州藤原氏がいつまで平家に対して中立を保てるかわかりません。奥州は名馬や金を産出する魅力的な土地であり、平家が手を出してくる可能性もありました。清盛による日宋貿易では、金が重要な輸出品として扱われていました。平家にとって奥州を確保することは、貿易面からも軍事面から有効な手段だったのです。


源平合戦の始まりは、奥州にも暗い影を落とし始めます。
治承4(1180)年、後白河院の第三皇子・以仁王が全国の源氏に対して平家打倒の令旨を発しました。
以仁王は挙兵に失敗し、源頼政らと共に落命。しかし反平家の狼煙は全国に挙がりつつありました。


伊豆国では、流罪となっていた源頼朝が挙兵します。義経は急いで頼朝のもとへ向かおうとしますが、秀衡は強く止めました。挙兵した頼朝の兵は当初三百騎とわずかであり、すぐに鎮圧されると踏んでいたようです。


しかし義経は密かに館を抜け出します。秀衡は去っていく義経を惜しみ、家臣の佐藤継信・忠信兄弟を付けて送り出しました。打算というだけでなく、親心にも近い心情で義経を心配していたようです。




陸奥守への叙任


坂東では新たな武家政権が生まれようとしていました。

頼朝は石橋山で敗れたものの、房総半島に逃れて勢力を盛り返し、相模国・鎌倉を制圧します。鎌倉は源氏が代々本拠地とした都市でした。同年、頼朝は富士川の戦いで平維盛ら平家軍を撃破。直後に義経と対面を果たしたようです。


鎌倉で頼朝が立つと、平家は平維盛(清盛の孫)を大将とする討伐軍を派遣しますが敗退。源氏の勢いは加速していきます。一方で
治承5(1181)年閏2月には、平家の総帥・平清盛が病没し、平家政権は揺らぎ始めていました。


養和元(1181)年4月、今度は京の都で不穏な噂が立ち始めます。秀衡に対して頼朝追討の院宣(院の命令文書)が出たというのです。


8月には秀衡は従五位上・陸奥守に叙任されました。陸奥守は朝廷から任じられる陸奥国の国司の官職です。秀衡の陸奥守叙任は、平家の棟梁・平宗盛(清盛の三男)の推挙によるものでした。鎌倉の頼朝ら源氏に対する牽制だったようです。


九条兼実は陸奥守叙任を「天下の恥」と嘆くなど、貴族社会においては批判の的となっていました。いわば鎮守府将軍の時と同様に平家の「位うち(叙位叙任によって協力させる)」だったことがわかります。


源頼朝との対立


東大寺再建に五千両の砂金を献上する


秀衡は外交において、あくまで中立姿勢を堅持していました。平宗盛のみならず、信濃国の源(木曽)義仲の軍兵動員要請を断り、何者にも加担しない方針を取ります。


しかし頼朝は秀衡を強く警戒していました。寿永元(1182)年、頼朝は秀衡を調伏(怨敵を破る祈り)すべく、江ノ島に弁財天を勧請します。翌寿永2(1183)年には、実際に奥州の秀衡と常陸の佐竹隆義の存在を理由に上洛延期を決断するなど、背後を脅かす存在として認識していました。


寿永3(1184)年、頼朝は遠江国に進軍。しかし秀衡が白河関を越えたとの知らせが入ると鎌倉に撤退しています。


秀衡としては、あくまで奥州の安定を意識していたようであり、鎌倉方と簡単にことを構えるつもりはありませんでした。実際に京の中央政界との繋がりは、寄進という形で保っていました。


元暦元(1184)年、秀衡は平家によって焼き討ちされた東大寺再建に協力すべく鍍金となる砂金を寄進します。坂東の頼朝でさえ千両に対し、秀衡は五千両という大金でした。


深刻化する頼朝との対立


平家が元暦2(1185)年に壇ノ浦で滅亡すると、頼朝は全国統治に向けて動き始めます。


すでに頼朝は、鎌倉を中心に武家政権の基礎を築いていました。加えて文治元年と改元された同年には、後白河院より文治の勅許を獲得。全国の守護地頭の任免権を手にしています。いわば事実上の鎌倉幕府成立でした。


もはや鎌倉方にとっての対抗勢力は、秀衡の奥州藤原氏のみでした。翌文治2(1186)年、頼朝は秀衡に書状を送付。奥州から京に献上される馬や金は、頼朝が仲介すると記されていました。


秀衡からすれば頼朝から指図をされる形です。のみならず、奥州藤原氏の富や外交の権利さえ奪いかねないものでした。しかし秀衡は衝突を避け、馬と金を鎌倉に届ける道を選びます。秀衡は頼朝の真意が奥州征伐にあると気付き、決して付け入る隙を与えませんでした。


義経を再び奥州に迎え入れる


文治3(1187)年2月、義経が再び奥州に現れます。兄・頼朝と対立して鎌倉や京から追われていました。


義経を匿えば、頼朝の心証を害することになり、鎌倉方と戦端が開かれることは確実でした。しかし秀衡は義経を奥州に迎え入れて匿うことを決意するのです。


頼朝は4月には既に奥州へさらなる圧力をかけていました。陸奥に配流となっていた院近臣・中原基兼の身柄返還や、東大寺再建に3万両拠出を命じています。


高まる圧力の中、9月に義経が奥州にいると発覚します。頼朝は朝廷を動かして義経の身柄返還を命じた院庁下文(院宣より強い公的命令文書)を発出させました。加えて頼朝は奥州に雑色(武家の従者)を派遣して「反逆の用意がある」との報告を受けています。



秀衡の最期と、その後の奥州藤原氏

秀衡は院庁下文に弁明しつつ、異心がないことを説明。しかし既に頼朝との決戦を覚悟していたようです。既に病身であった秀衡は、次男で嫡男の泰衡と庶長子・国衡、義経の三者に起請文を書かせています。起請文においては、義経を主君として戦うように記されてありました。


奥州藤原氏は、家督相続において兄弟間での争いが頻発していました。
泰衡と国衡が争えば、頼朝が介入することは明らかです。義経が二人の兄弟と協力することで、奥州を守れるという意識が秀衡にはありました。


10月、秀衡は平泉館で病によって世を去りました。享年六十六。墓所は中尊寺金色堂にあります。


岩手県西磐井郡平泉町にある中尊寺金色堂覆堂
岩手県西磐井郡平泉町にある中尊寺金色堂覆堂

しかし秀衡死後、奥州藤原氏は悲劇的な結末を迎えます。

泰衡は義経を自害に追い込みます。程なくして頼朝は奥州征伐を挙行して国衡は戦死。泰衡は家臣の裏切りによって命を落とします。こうして、奥州藤原氏は滅亡してしまうのです。



【参考文献】

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  この記事を書いた人
コロコロさん さん
歴史ライター。大学・大学院で歴史学を学ぶ。学芸員として実地調査の経験もある。 日本刀と城郭、世界の歴史ついて著書や商業誌で執筆経験あり。

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