江戸幕府9代将軍・徳川家重を徹底分析…妙な感じに描かれている肖像の謎

徳川家重の像(狩野英信 画、徳川記念財団蔵、出典:wikipedia)
徳川家重の像(狩野英信 画、徳川記念財団蔵、出典:wikipedia)
 9代将軍・徳川家重(とくがわ いえしげ、1712~1761)というと、8代将軍で名君の誉高い吉宗の長男であり「言語不明瞭な将軍」「暗愚の人」という評価が定着しています。「近習が支えた将軍」と評されることもあります。

 代々、徳川将軍の座に就いた人は御姿を絵に残しますが、他の将軍は普通に描かれているのに、家重だけは ”ひょっとこ” のように口を尖らせ、眉根を寄せているような、明らかに妙な感じに描かれています。

 この絵を見ると「何かあったんだろう」ということは分かりますが、一体、何があったのでしょうか?あまり取り上げられることのない将軍である9代家重を徹底的に分析してみたいと思います。

家重の性格と暮らしぶりについて

 教育熱心だった吉宗は、我が子である家重が年齢を重ねるにつれ「本当に家重に跡を継がせても大丈夫だろうか」という疑念を強くしていったようです。事実、吉宗が家重に将軍職を譲ったのは、実に吉宗62歳、家重35歳という年齢でした。これはあまりにも遅すぎます。いかに吉宗が躊躇していたかが分かります。

 できれば文武ともに優秀な次男の宗武を跡継ぎにしたかった、と言われていますが、徳川将軍家では「長幼の序」が重んじられ、長男が跡継ぎとなるのは大原則でした。次男の宗武を将軍にするのは、将軍自らがこの大原則を破ることになりますので、諸藩に対する影響を考えると、とても出来なかったのです。

 家重の長男である家治は子供の頃から英才の誉高く、吉宗は「少しでも家重の将軍期間を短くして家治に後を託す」という思いがなかった、と言えばそれは嘘になるでしょう。吉宗にそこまで思わせたのは彼の病弱問題や言語障害の問題ではなく、暮らしぶりにあったと思われます。

 ご存じのように当時のヘアスタイルは「ちょんまげ」でしたが、家重はちょんまげを結う時に使う「鬢付け油」の匂いが嫌いで、ちょんまげを結おうとしませんでした。髭もそらず、バサバサの髪で乱れ放題で「なんとも、みすぼらしい姿」だったそうです。

 当時の常識から考えると、それだけでも異形ですが、大人になると酒の味を覚え、さらに大奥で女色に溺れました。こうした暮らしぶりでは「次期将軍として大丈夫か」と思われるのは致し方ないことでしょう。

 家重は享保16年(1731)12月に伏見宮邦永親王の娘・比宮増子を正室に迎えたのですが、彼女は家重の姿を見て、驚きのあまり気鬱症になってしまったと伝えられています。京都生まれで京都育ちの比宮増子には家重の異形ぶりは相当にショックなものだったようです。

家重の持っていた他の身体的障害について

 家重は子供の頃から歩く時に「少し難があった」と伝えられています。どのような内容なのか詳細は分かりませんが、言語障害の他に何等かの身体的障害もあったようです。ですが、大奥で酒色に溺れることができた位ですから、下半身はそれほど深刻なものではなかったらしいことが推察されます。

 そして生まれた長男の家治(第10代将軍)は子供の頃から英才の誉高く「平時には惜しい将軍であった」と評されるほどの人物であったのです。つまり遺伝的な病気であった気配は感じられません。ちなみに家重は将棋が得意で、よく近習の人達と指していた、ということです。

 この将棋好き、と言う点は家治にも影響を及ぼし、家治は「御撰象基攻格」という将棋指南の問題集を自ら作っているほどです。将棋が得意というのは知的障害がある人には考えられないことです。


 また、家重が将軍になってから「小便公方」というあだ名を付けられてしまいますが、これは明確に「頻尿で尿もれもあった」ことを表しています。これは、いわゆる「排尿障害」です。

 人は誰でも年齢を重ねると排尿のコントロール力が落ちてくるものですが、当時の家重は30代から40代で、まだ加齢によるものとは思えません。従って、これも身体障害の1つと考えて良いと思われます。また冒頭でも記しましたが「 ”ひょっとこ” のように口を尖らせ、眉根を寄せている」と言う顔つきは多分、日常的なものであったと思われます。そうでなければ「御姿を描く絵師」が、あのように描くはずはないからです。

 本来「御姿を描く」場合、少しでもかっこよく描くのが習わしでした。なのに、あのように描かざるをえず、それで誰も文句も言わなかったということは「それが普段通りで、それ以外の顔付を見たことがない」ことを表していると理解しても良いと思われるからです。一体、なぜ、こんな顔つきが「日常的な表情」なのでしょうか?これも一種の障害と考えて良いのかも知れません。

家重の政治能力について

 言語障害と身体障害があり「バサバサの髪で髭も剃らず、みすぼらしい姿」で江戸城内で酒色に溺れ、頻尿で尿もれもあった家重に「政治能力などあるはずがない」と考えるのは速断すぎます。私生活と仕事能力は別物であり、関係性はないからです。普段はだらしない大酒飲みの人が、いざ仕事となると、人が変わったように凄い仕事をする例は数多くあります。事実、家重も結構、鋭い政治能力を示しているのです。

 家重が将軍に就任し、まず行ったのは老中首座である松平乗邑(のりさと)の罷免でした。松平乗邑は吉宗の享保の改革で活躍し幕府の財政建て直しに貢献した人物で、吉宗も家重を心配して「支え役」として付けておいたのです。ですが吉宗の改革はつまるところ「増税による財政の建て直し」であり、一般庶民、特に百姓からは怨嗟の声が上がっていました。また、幕府内部にも松平乗邑のやり方に批判的な意見もあったようです。

 家重がどこまで事情を把握して松平乗邑をいきなり罷免したかは分かりませんが、結果から言うと、これは大正解でした。何故なら、一般庶民の不満の声は松平乗邑を老中首座から、いきなり罷免という大転落をさせたことにより、収まっていったからです。いわば享保の改革の「後始末」という形になったのです。

 その他にも吉宗が家重を案じて付けておいた年寄りの老中や側近を家重は次々と罷免します。また弟の宗武を「登城停止処分」にします。これは多分に「宗武派」と呼ばれる「宗武を将軍にすべきだ」と運動していたメンバーへのけん制の意味があったようです。ご本尊である宗武を登城停止にしてしまえば「宗武派」はもはや動きを止めるしかないからです。

 そして酒井忠清の子孫である酒井忠恭を本丸老中に就任させます。長い付き合いの大岡忠光は御側御用取次という役目を命じられます。要は「通訳」です。家重の言語障害は年齢を重ねるにつれてひどくなっていったので、言葉を理解でき、部下に命令を伝えることが出来る唯一の人物である大岡忠光が「通訳」を命じられたのは当然のことでした。

 これで、あっという間に家重の周辺は30代ばかりのメンバーとなり、しかも酒井忠恭も大岡忠光も有能な人物であったので「強力な新体制」が発足した訳です。本来なら「大御所」として支えようとしていた吉宗は驚愕したでしょう。既に還暦も過ぎていた吉宗は以後、家重の政治に口を挟むことはありませんでした。

 さらに家重は後に幕府を動かす重要人物となる田沼意次を本丸小姓に任命、その後、御用取次まで出世させます。田沼意次は賄賂政治家として有名な悪役的なイメージがありますが、商業を重視する政策を実行した中心人物です。

 「白河の清きに魚も棲みかねて もとの濁りの田沼恋しき」と、寛政の改革で大ナタをふるった松平定信の、あまりにも建前重視の政策に参ってしまった一般庶民が「これなら田沼時代の方が、よっぽどよかった」とまで言わしめる位に「庶民的感覚」を持った人でもありました。

 かの平賀源内も田沼意次と交流があり、源内を経済的に支えていたとも言われています。家重の人を見る目は、予想以上に高かったのです。しかし自分自身はいわば「人事権」を掌握するにとどめ、政治実務は側近メンバーに任せました。

 確かに家重には経済政策や農業施策、産業新興施策など、当時政治に求められていた内容を実施する能力はなかったとみるべきでしょう。何しろ子供の時以来、江戸城すら出たことが無いのですから。しかし「自分自身には、その能力は無い」と見極められるというのは、相当に高い認識能力があることを示していると言えるのではないでしょうか。まぁ、考えようによっては「要は自分は大奥で酒色にふけっていたいので、政治は出来る奴に任せた」とも言えますが、一応、ちゃんとした始末を付けている訳で、しかも結果は良かったのですから、誰も文句は言えないでしょう。

 つまり色々な障害を持っていた家重ですが、決して無能な人物ではなく、実は優れた頭脳を持っていたのです。

家重の「病弱」の正体とは?

 昭和33年(1958)に徳川将軍家の霊廟がある増上寺の改修工事が行われました。この時に、埋葬されている歴代将軍の墓を発掘して遺体の学術調査が行われました。そして、医師であり作家でもある篠田達明氏によって、調査結果が報告されています。つまり現代の医学知識で歴代徳川将軍の身体的特徴を明らかにしようという訳です。

 家重の遺体における非常に大きな特徴は「奥歯の著しい磨耗」でした。家重の奥歯は上下の歯列全てが滑らかに大きくすり減っていたのです。これは「常時、強い歯ぎしりをしていた結果」と推測されます。

 篠田氏は「こばと学園」という心身障害者施設の学園長も務めている方で、心身障害の症状にとても詳しい方です。この「奥歯の著しい磨耗」はアトテーゼ型脳性麻痺の典型的な症状と結論づけています。アトテーゼ型脳性麻痺が起こっている場合、咬筋(物を噛む筋肉)が常に強く作用するために、こういった「常に歯ぎしりをしている状態」が起こりやすいのだでそうです。

 また「御姿」の肖像画にも言及し、首を前につきだし、眉根を寄せ、両目が内斜視示し、唇をねじまげ、頬にしわがよっており、手つきもぎこちないという特徴は「上半身の不随意運動を表すものである」と語っています。

 脳性麻痺にはアトテーゼ型と痙直型の2種類があり、アトテーゼ型の場合、下半身よりも上半身に不随意運動という「自分の思う通りに動かせない症状」が起きやすく「本来なら御姿の絵は『実物』よりも良く描くはずなので、実際にはもっと酷かったのではないか」とも推測されています。

 そしてアトテーゼ型脳性麻痺では「何を言っているのか分からない」という言語障害が発生するのが常である一方、しょっちゅう付き添っている看護師や保育士さんは、何を言いたいのかが分かるのだそうです。まさに家重と大岡忠光との関係に合致します。

 アトテーゼ型脳性麻痺の大きな特徴として、知的障害は伴わず、むしろ優秀であることも多いそうです。篠田氏の施設の人の中には「足でそろばんが使える人」などもいるそうです。下半身は影響がほとんどないのでアトテーゼ型脳性麻痺の方は「主に足を使って」パソコンを操作したりするそうです。中には、各種のプログラム言語をマスターしプログラマーとして活躍している方もいらっしゃるそうです。

 これもまさに「将棋が得意」という家重の特徴と一致します。アトテーゼ型脳性麻痺が発生する原因は「未熟児での出生」「仮死状態での出生」「高ビリルビン血症による黄疸を持った状態での出生」が3大原因であるそうで、篠田氏は家重の各種の特徴から「高ビリルビン血症による黄疸を持った状態での出生」である可能性が高いと結論づけています。

 「高ビリルビン血症による黄疸を持った状態での出生」は母体と出生児の血液型不適合などが原因で発生することが多く、現代ならば出生前の検査で発見でき対処できるので、発生数は江戸時代に比べれば、激減していますが、出生前検査を行わなかった場合などもあり、現在でも発生例があるそうです。

 結論として「家重は知的に優れた脳性麻痺者」としています。このアトテーゼ型脳性麻痺というのは13代将軍である徳川家定にも推測されていることで、篠田氏は、やはりタウンゼント・ハリスの日記に示された家定の行動から「アトテーゼ型脳性麻痺であったと思われる」と語っています。しかし「家定よりも家重の方が明らかに重症」とも語っています。まだ医療が未発達であった江戸時代の出産は、色々な意味で「大変であった」ということでしょう。

おわりに

 家重が執政を取っていた江戸中期は、特にこれといった問題も無く「平和な日々」が続いていた時代でした。そんな時代だから家重も次の10代将軍家治も将棋に打ち込むなど、趣味にいそしんだ生活を送っています。

 しかし「障害者だから知的にも劣っており無能である」というのは大きな間違いで偏見である、と断定して良いでしょう。つまり「人を見た目で判断してはいけない」のです。家重の頭脳は周囲が考える以上に怜悧で人事権を掌握しリーダーシップを取る、という非常に賢いとしか言いようがない手法を用いている点からもそれが分かります。家重は49歳で排尿障害による尿毒症で死亡していますが、それは、ちょうど当時の平均年齢でもありました。

 色々と面倒なことを抱えながら送った49年でしたが、家重の人生は結構、幸福なものだったと言えそうです。大岡忠光という「通訳」がいてこそ、維持できた政権ではありましたが、立派に将軍職を務めあげたと言えるのですから。


【主な参考文献】
  • 中江克己『徳川将軍の意外なウラ事情家康から慶喜まで、十五代の知られざるエピソード』(2004年、PHP文庫)
  • 真山知幸『なにかと人間くさい徳川将軍』(2022年、彩図社)
  • 篠田達明『徳川将軍家十五代のカルテ』(2005年、新潮新書)

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  この記事を書いた人
なのはなや さん
趣味で歴史を調べています。主に江戸時代~現代が中心です。記事はできるだけ信頼のおける資料に沿って調べてから投稿しておりますが、「もう確かめようがない」ことも沢山あり、推測するしかない部分もあります。その辺りは、そう記述するように心がけておりますのでご意見があればお寄せ下さい。

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