江戸幕府3代将軍・徳川家光の困った性癖と後始末

徳川家光の肖像(徳川記念財団蔵、出典:wikipedia)
徳川家光の肖像(徳川記念財団蔵、出典:wikipedia)
 3代将軍・徳川家光(とくがわ いえみつ、1604~1651)は徳川将軍家15代の中でも有名な将軍です。家光について一般的に知られていることと言えば以下のような内容だと思います。

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2代将軍、徳川秀忠の長男であったが秀忠夫妻は次男の国松(のちの徳川忠長)を寵愛し、長男の家光は、あまりかまってもらえなかった。それを危惧した乳母の春日局が徳川家康に直訴して家光の次期将軍就任の確約を取り付けた。
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これは、ほぼ正しいようです。あまりかまってもらえなかった点に関する考察はまた別の機会に譲るとして、「将軍としての家光」は、どんな人物であったのでしょうか?今回はその性癖にフォーカスしてみていきたいと思います。

子供の頃からお化粧好き

 2011年放送の大河ドラマ「江 ~姫たちの戦国~」では、竹千代(家光の幼少名)が口紅を付けているのを見た江(家光の母)がショックを受ける場面が出てきます。実はこれは本当だったようで、当時の踊りは華美に装い、派手に行われたものだったので、男が化粧をするのも当たり前だったのです。

 若年の男の子を綺麗に見せることに重点が置かれていましたが、なぜでしょうか? それは戦国時代以前から美少年を相手とした「男色」という行為が普通に行われていたからです。つまり、美少年を華美に装わせ、躍らせるのは「男色相手のお披露目」の意味も込められていたようなのです。

 織田信長と小姓の森蘭丸も男色関係であったと言われています。そもそも「小姓」という役割は最初からその意味も含んでいたようなのです。このため、小姓になれるのは美少年だけでした。一般的な感覚で考えると、ちょっと違和感がありますが、「美少年趣味」は別名、「衆道」とも呼ばれ、公認されていたものでもあるのです。

 この習慣は特に高位にある人に多く見られ、これは「子供がたくさん増えないようにするため」であったとも言われています。子供がたくさん増えすぎると跡目争いが激化する可能性があるからです。とはいえ、それは少し言い訳のようで、日本では女色を禁じられていた僧侶の世界では、半ば公然と美少年を相手にした「衆道」が行われ、その風潮は一般にも広がっていました。

 女性相手の性行為は「種の存続」という自然の定めに従ったものであったので「天悦」と呼び、男性相手の場合は「大悦」と言われ、隠語化されていました。

 なぜ「大悦」なのか? というと、男性相手の性行為では男役には悦楽がありますが、相手となる男性には苦痛しかないので「一人悦」と呼ばれ、「一人」という二文字を合体させると「大」という字になったからなのです。このような隠語が使われる位に「衆道」は、一般庶民にまで広がっていたのです。

 江戸時代には、少年が相手をしてくれる「陰間茶屋」という物がありました。しかし、そんなことを知らない江にとって、男が化粧をするのは異常に思えたのでしょう。家光は幼少時から、美少年趣味の傾向が既に現われていたようですので、ショックを受けても当然でした。

 ここで注意しなければいけないのは「衆道」は、いわゆる「ゲイ」とは違うものです。ゲイの場合、先天的に男性なのに男性しか好きになれない、という方を指しますが、「衆道」は基本的には異性愛だけど、気に入った相手なら男性でも良いのです。一部では「衆道」は「高位者としてのたしなみ」として当然のこと、と考えられていた節も見られます。


第3代将軍就任で本領発揮

 家光が将軍に就任した元和9年(1623)、2代将軍の秀忠は大御所として、まだ存命でした。父親の秀忠が生きている間は大人しくしていましたが、秀忠が死去すると秀忠のブレーンを追放し、新たな人材を登用して本領を発揮し始めます。

 まず、参勤交代制の強化と「危険」と思われる藩の取り潰しです。家光はこれ以外にも、秀忠の作った武家諸法度をさらに厳しく大幅に改定するなど、幕府の体制強化を図るために色々なことを行なっています。つまり、予想以上に政治力があり、大局的な視点も持ち合わせた優れた人物だったのです。

 初代徳川家康が創設、2代秀忠が基礎を築いた徳川幕府を盤石なものにしたのは家光です。江戸時代という平和な時代が300年も続いたのは家光のおかげ、と言っても良いのです。つまり「美少年趣味」であっても決して愚かな将軍ではなく、むしろ徳川15代将軍の中でもひときわ、優れた将軍であったのです。

弟・徳川忠長のたどった運命

 家光の弟であり、秀忠夫妻から寵愛された国松。元和6年(1620)に元服して「忠長」と名乗り、家光が将軍になると、駿河、遠江55万石を持つ駿府城の主となりました。駿府城は祖父の家康が晩年を過ごした城ですので、いかに忠長が優遇されていたかが分かります。

 そして翌年には従二位大納言に叙され、「駿河大納言」と呼ばれるようになります。そうでなくても、子供の頃から「次の将軍は国松様ではないか」と考える大名も多かったようです。参勤交代の際には、駿府城に立ち寄って忠長に挨拶や贈り物をする大名も多く、忠長もそれに対して、まるで将軍のように接し、駿府城はさながら「第二の江戸城」のような様相を呈しました。

 これを危惧したのは大御所である秀忠です。もし忠長を担いで反乱でも起きたら大変なことになります。そして当時の駿府城はそのようなことが起きてもおかしくない雰囲気だったようです。そしてついに秀忠の逆鱗に触れる出来事が起こります。

 忠長の納める地には浅間神社があり、猿を「神獣」として崇め、一切の殺生が禁止されていたのですが、忠長はたくさんの勢子(狩りでけものを追い込む係)を使い、1240頭の猿を捕まえて殺してしまったのです。

 しかも、その少し前から忠長は奇行が目立ち始めていました。いきなり人を切りつけたりするような粗暴な振舞いが目立ち始めていたのです。そこへ「神獣」とされる猿の大量捕獲殺傷事件。元々、殺生が大嫌いであった秀忠は忠長に甲斐の国に蟄居を命じます。忠長は救済を嘆願しますが、許されませんでした。世間一般には、家光が忠長を切ったと思われていますが、実際には父である秀忠だったのです。

 秀忠の死後、家光は忠長を上野高崎城に幽閉する処分を下します。蟄居はいわば「反省せよ」ということですが、幽閉とは「終身刑」です。家光のこの判断は「子供の頃の恨み」と思われがちですが、徳川幕府という絶対権力を守るためには、忠長の存在は危険であると判断したためと思われます。

 なぜなら、好き嫌いが激しくて切れやすい性格の家光が「切腹申しつける」とはしなかったからです。もし恨みを晴らすのなら、即座に命を奪うこともできましたが、そうはしませんでした。家光もそこまで忠長を恨んではいなかったのではないでしょうか。しかし将来を悲観した忠長は自ら自刃して死んでしまいます。

 忠長がおかしくなってきたのは、母親の江が亡くなってからです。最大の庇護者であった江を失い、忠長の中の「何か」がおかしくなったのかも知れません。一般的に甘やかされて育った子と、辛い思いをして育った子では、大人になってから大きな違いが出るものですが、忠長の場合、あまりにも江の存在が大きすぎたのではないでしょうか。逆にいうと、あまり可愛がられなかった家光は「それが幸いした」とも言えるのです。


止まらぬ「少年愛」と解決策

 将軍としては着実に実績を上げ、徳川幕府を盤石なものにするべく奮闘していた家光でしたが、どうにも「少年愛」の性癖だけは止まりませんでした。

 当時、男色は珍しいことではなく、「衆道」として高位者のたしなみの1つとされてもいたので、「止めろ」とは誰にも言えなかったのです。乳母である春日局でさえ、絶対権力者である家光を諫めることはできませんでした。家光は好き嫌いが激しく、切れやすい性格なのです。

 しかし、このままでは「世継ぎ」が生まれません。家光は関白である鷹司信房の娘、孝子を正室に迎えていましたが、会おうともせず、男色にふけっていました。吹上御苑に「中の丸御殿」というのを作り、孝子をそこに住まわせました。要するに別居させた訳です。

 本来なら孝子は正室であり、「御台所様」と呼ばれなければならないのに「中の丸様」と呼ばれる始末でした。そこで困った春日局は一計を案じます。家光の美少年選びには一定の好みがあったので、その好みに合いそうな美少年風の少女を次々とあてがってみました。すると、貴族である冷泉家の一族である六条宰相有純の娘が家光の好みに合い、初めて女性に興味を持ちます。彼女は「お楽の方」として側室となり、のちに4代将軍となる家綱を授かるのです。”やれやれ”でした。

 その後、家光は男女両刀使いとして「お玉の方」という側室も持ち、のちの5代将軍・綱吉を授かります。家綱は40歳で病死した時点では跡継ぎがいなかったので、危ないところでした。そういった意味では徳川幕府は随分と春日局に助けられたと言えるでしょう。あまり評判が良いとは言えない彼女ですが、結果から見ると大変な貢献をしてくれているのです。

おわりに

 先ほども申し上げましたが「衆道」はゲイとは違うものです。事実、家光も途中から女性を好きになるようになっています。ゲイであれば、こういったことは起こらないはずなので何かきっかけがあったことが推測されます。

 男子であれば、年頃になると性欲が出てきて異性に興味を持つのは当然ですが、家光は将軍家という特殊な環境にありました。当時は避妊のための用具や薬もなかったので、下手に女性と性行為をさせると、「跡継ぎ」が出来てしまう可能性もあります。春日局もそれは「まだ早すぎる」と分かっていたはずなので、代わりにあてがったのが美少年だったのではないでしょうか。

 これは全くの憶測に過ぎないのですが、そうとでも考えないと理解できないのです。年頃の少年が性行為の快感を味わったら、それはやみつきになっても仕方ないといえるでしょう。元々、家光は凝り性な所もあったようなのですから。つまり、「火を付けたのは春日局」であるように思えてならないのです。ただ結局は、彼女が問題解決をしたのですから「ちゃんと自分で後始末もした」と考えて良いのでしょう。結果よければ全て良しと言いますから。


【主な参考文献】
  • 渡辺信一郎『江戸の色道 古川柳から覗く男色の世界』 (2013年、新潮選書)
  • 中江克己『徳川将軍の意外なウラ事情 家康から慶喜まで、十五代の知られざるエピソード』(2004年、PHP文庫)
  • 真山知幸『なにかと人間くさい徳川将軍』(2022年、彩図社)

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  この記事を書いた人
なのはなや さん
趣味で歴史を調べています。主に江戸時代~現代が中心です。記事はできるだけ信頼のおける資料に沿って調べてから投稿しておりますが、「もう確かめようがない」ことも沢山あり、推測するしかない部分もあります。その辺りは、そう記述するように心がけておりますのでご意見があればお寄せ下さい。

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