江戸っ子の四季の楽しみ 秋は月見に菊人形見物

菊の花を見て楽しむ江戸っ子たち(『絵本四季花 下』喜多川歌麿 画、出典:国立国会図書館デジタルコレクション)
菊の花を見て楽しむ江戸っ子たち(『絵本四季花 下』喜多川歌麿 画、出典:国立国会図書館デジタルコレクション)
 つましい暮らしの中でも四季の移ろいを忘れず、日本の美しい自然を愛して暮らした江戸っ子たち。そんな彼らの秋の楽しみといえば、やっぱり”月見”と”菊人形見物”です。

中国から渡ってきた菊

 江戸の人たちは春の桜と同じように秋の菊を楽しみました。菊は奈良時代に大陸からやって来た外来植物で仙人の住むところに咲くと言われ、また不老不死の象徴で重陽の節句には長寿を願って菊の花びらを浮かべた菊酒をいただきます。この重陽の節句が江戸幕府の正式な行事五節句の一つと認められ、大名が節句挨拶のために江戸城へ登城したこともあり、江戸の街でも菊を育てて楽しむ人が増えました。

 江戸で菊の栽培が盛んだったのは文京区本郷でしたが、徐々に開けて家が立ち並ぶようになり、菊畑が潰され、同じく文京区の白山・千石・豊島区の巣鴨へと移って行きます。巣鴨で菊が栽培されるようになったのは元文・寛保年間になってからで、そのころの巣鴨・染井・駒込は、世界でも最大クラスの一大園芸センターと言ってよいほど花卉・樹木の栽培・販売が盛んでした。

菊を仕立てる、でも儲かるのは茶屋ばかり

 巣鴨でも最初は屋根のついた囲いの中に鉢植えの菊を並べる花壇造りを見せているだけでしたが、文化年間に麻布狸穴で鶴や帆掛け船・富士山を菊で形作ると、これが評判を呼びます。

 目新しいものの好きな江戸っ子は、これを「形造り」と称してすぐに巣鴨・千石・染井・駒込でも真似をします。やがて安政のころになると、千駄木団子坂の植木屋「植梅」が、歌舞伎の一場面を再現した菊人形を作り始めると、これが大勢の客を集める大繁盛。近隣の植木屋も競って人気役者や演目の舞台を仕立てます。

『風俗画報』に描かれた菊人形の名所「団子坂」(出典:wikipedia)
『風俗画報』に描かれた菊人形の名所「団子坂」(出典:wikipedia)

 そうなると、さっそく評判の菊の見立て番付や道案内双六が出版され、それを見ればどこへ行けばどんな「形造り」が見られるか一目でわかるようになりました。

 菊のシーズンになると、江戸の近郊でも売り出され、奥州辺りからも菊番付を片手に大勢の見物客がやってきます。シーズンともなると100軒ほども茶店が店を出したと言いますからかなりの人出ですが、肝心の植木屋はさほど儲かりませんでした。見物料を取れば良かったのですが、客の心付けや座敷を貸した時の席料が手に入るぐらいで、手間暇をかけた割には儲かりません。

 そんなこんなで植木屋の菊の形造りは一旦は廃れてしまいます。しかし幕末になると、ブームはまた息を吹き返し、現在の菊人形へと発展しました。

日本のお月見

 月見の習俗も中国から伝わって来たもので、本家では唐の時代に月を愛でて宴を開く事が始まったようです。その頃に詠まれた漢詩もあります。

 日本に伝わって来たのは平安時代、貴族たちが邸宅の池に竜頭鷁首の船を浮かべ、管弦を催し、酒を酌み交わしました。

 江戸時代になると、庶民の間にも月を愛でる余裕が出て来ます。そうなると何のかんのと理由をつけては楽しみたい江戸っ子たち、たちまち月見の名所が出来ました。

 隅田川・深川・高輪・品川・不忍の池など、河畔や海辺の水の傍らでの月見が人気で、夏の納涼船が終わったばかりの墨田川にさっそく月見船を浮かべます。これはかなり粋で贅沢な遊びでした。

『東都月の三景 高輪秋の月』(歌川広重画、出典:国立国会図書館デジタルコレクション)
『東都月の三景 高輪秋の月』(歌川広重画、出典:国立国会図書館デジタルコレクション)

嫌われた片見月

 仲秋の名月は旧暦8月15日の十五夜ですが、翌月9月の13日に満月まであと少しと言う十三夜の月を見るのを「後の月見」と呼び、両夜の月を愛でるものとされました。

 この夜の月は仲秋の名月に次いで美しい月とされます。八月十五夜のころに里芋を収穫する地方が多く、芋名月と呼んで団子と一緒に里芋を供えたりしますが、十三夜の月は豆名月や栗名月と呼ばれます。十三夜の月を愛でるのは日本独特の習俗で、両方見ないのは「片見月」と呼んで縁起が悪いと嫌ったとか。

 もっともこれは吉原辺りが仕掛けたイベントのようで、吉原は何かと季節の行事にかこつけては「紋日」を設けて客に散財させようとたくらみます。

 「紋日」は普段より遊女の揚げ代が高くなり、心付けも普段より弾まねばなりません。秋の一大イベント月見を2回催して「片見月は縁起が悪いと申します、ぜひ十三夜にも来ておくんなまし」とか何とか。

月見のお供え物

 現在でも季節になれば花屋では薄が、和菓子屋では月見団子が売られます。月見にはその年の収穫を感謝する意味もありましたから、江戸時代も薄に里芋・枝豆・梨や葡萄・柿を供えました。江戸時代に葡萄があったのかと思いますが、甲斐国では鎌倉時代から作られていたようです。

 武士たちも月見を楽しんだようで、紀州藩江戸詰め藩士酒井伴四郎が8月15日の日記に「今日は月見の事ゆえ盆前に出入りの商人から貰った白玉粉で団子を作った」と書いています。実によくできたとみんな美味しく食べてくれたそうで、同僚の白井からは団子・芋・枝豆の届け物が、同じく同僚の森からも重箱一重が届きました。夕方からは訪れた矢野と共に月を愛で団子をほうばりました。

 民間でも草花や団子を15個供えますが、これを近所の子供が盗んで食べても怒られませんでした。子供は神の使者として備えた団子を神様が召し上がって下さったのだと解釈します。神に供えた供物を皆で分けて食べる神道の『直会(なおらい)』の意味もありました。

おわりに

 現在でも各地で菊人形展が開かれていますが、関西人の私は小学校の遠足でそのころの関西のド定番、ひらかたパークのひらかた大菊人形展に行きました。


【主な参考文献】
  • 竹内誠「春夏秋冬江戸っ子の知恵」小学館/2013年
  • 河合敦/監修「図解・江戸の四季と暮らし」学研/2009年

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  この記事を書いた人
ichicokyt さん
Webライターの端っこに連なる者です。最初に興味を持ったのは書く事で、その対象が歴史でした。自然現象や動植物にも心惹かれますが、何と言っても人間の営みが一番興味深く思われます。

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