「俺はもう食ったぜ。おめぇはまだか?」江戸っ子の初物好き

 気が早く見栄っ張りの江戸っ子は、何事も他人様に後れを取らないようにと気を張ります。まして旬の食べ物ともなれば目の色を変えます。おりしも文化・文政の爛熟期、全国各地で名産食品が続々と作られ、それらをいち早く手に入れて鼻を高くしたい江戸っ子が続出。特に初物と来ればそれはもう…。

初鰹、将軍様も食べた人気役者も食べた

「目には青葉 山ほととぎす 初鰹」

 あまりにも有名な江戸時代の俳人・山口素堂の俳句ですが、江戸っ子は本当に競い合って初鰹を求めたようです。

 「初物を食べると七十五日寿命が延びる」と言われますが、初鰹は特別でこの10倍、750日寿命が延びるとか。明確な四季があって食べ物に「旬」がある日本ならではの話ですが、それでなくとも走りのものに目がない江戸っ子は誰が一番早く食べるかに熱狂します。

 文化9年(1812)の鰹の江戸への初入荷は旧暦3月25日で、初鰹17本が入りました。6本は将軍家に献上され、3本は江戸で1、2の高級料亭八百膳が1本2両1分で買い入れます。

 歌舞伎役者・三代目 中村歌右衛門は、日本橋の魚河岸から仕入れた魚屋から1本3両で買い取り、大部屋役者たちに振る舞います。1両は現在の9万円から10万円ですから30万ほどの出費ですね。それを気前よく振舞いますが、歌右衛門は4年ほど前に上方から江戸へ下って来たばかりでした。おそらく自分の名前を売るための行動だと思われますが、これを聞いたライバルの六代目市川團十郎は「おいら一生鰹は食うめぇ」と悔しがったとか。

 鰹は一尾400匁(約1.5キロ)から500匁(2キロ弱)のサイズが良いとされ、刺身を辛子酢で食べました。正徳4年(1714)の大奥女中江島に絡む事件で三宅島へ流された歌舞伎役者・生島新五郎は、江戸の二代目市川團十郎に「初松魚からしがなくて涙かな」との句を送っています。

 三宅島なら新鮮な鰹も手に入ったでしょうが、薬味もなく、まして以前の江戸の人気役者だった我が身に引き比べ、島流しの身では口にしても味気ないばかりだったでしょう。

待っていれば安くなるものを

 鰹は回遊魚ですから春に日本にやって来て、江戸近海に現れるのは旧暦4月ごろです。それを待ちきれずに伊豆沖あたりまで船を出して小田原や鎌倉に水揚げ、少しでも早くと馬や舟・陸路で江戸へ運びます。

 高値で売れるのがわかっていますから労力を使ってもペイしました。まず将軍家への献上分を取り分け、競うように競り落としたのを豪商や料理屋が買っていきます。そのあとの物を威勢の良い魚売りが市中で捌こうと、両天秤にまな板と包丁を持って飛び出していきます。小金持ちがきばって買い求め、町内の衆に振舞って良い顔をしました。

初鰹売りを描いた『類聚近世風俗志:原名守貞漫稿 10版』(出典:国立国会図書館デジタルコレクション)
初鰹売りを描いた『類聚近世風俗志:原名守貞漫稿 10版』(出典:国立国会図書館デジタルコレクション)

 庶民も「俺はもう初鰹を食ったぜ!」 これが言いたいばかりに高い金を払ってまで買い求めます。少し待てば1本200文か250文ぐらいで買えるのですが、それでも1文30円として6000円です。職人の中でも稼ぎが良いと言われる腕の良い大工の年収が25両ぐらいでしたから、250文でもちょっとした出費です。初物でなくてもどうしても食べたい庶民は、何人かでお金を出し合って買っていました。

以前は下魚だった鰹、その前には鮭も鮎も

 江戸でこれほど持て囃された鰹ですが、鎌倉時代の末ごろまでは下魚とされ、吉田兼好も『徒然草』で「自分たちの若いころは頭は下々の者も食べずに捨てていた。今では世も末になったので身分の高い人の膳にも上るようになった」と嘆いています。

 戦国時代になると、鰹が「勝つ魚」に通じるところから、戦に明け暮れ、なおかつ縁起担ぎが好きな戦国武将に珍重されるようになります。

 合戦を前にした武将が、小田原沖に舟を出して遊んでいたところ、鰹が船に飛び込んできたので「今度の合戦は勝利間違いなし」と大喜びしたとか。門出の膳の魚や縁起の良い贈り物にもされ、急速に値打ちが上がって行きます。

 このような騒ぎは別の魚でもあったようで、その時は初鮭や若鮎が珍重されました。水戸黄門こと水戸光圀は鮭が大好物で、水戸の那珂川に鮭が上ってくると「初鮭振舞い」と称して酒宴を開きます。将軍様にもお裾分けをと献上もしていました。

その他の初物

 鰹ほどではありませんが、それ以外の食べ物でも大金を払って初物を食べるのが流行ります。

 鰹以外で人気だったのは生椎茸・梨・蜜柑などで、これらの野菜や果物は竹枠に油紙を張った小屋を拵え、その中に七輪を持ち込み、炭団を燃やして温かい空気を小屋の中に循環させて育てます。現在のビニールハウスの促成栽培と同じ手法ですが、これを「燃やしもの」と呼びました。

 手間暇をかけても料理茶屋が高値で買ってくれるので農家は競って作ります。はては「茄子・いんげんなど鉢で育てて密かに初物と称して料理屋へ持ち込み」しようとする庶民もでてきて、幕府は天保15年(1844)の町触れでこれを禁止しています。

 季節をはずして高値で売ろうとする者が後を絶たず、贅沢禁止の面からも幕府は寛文期に37品目を指定して、市場での売買の時期を決めます。魚介鳥類では鱒・鮎・鰹に始まり、鮭・アンコウ・雁・鴨・雉・鶫まで15種類が、野菜では生椎茸・土筆・茗荷・枇杷・松茸・梨・蜜柑など22種類が上げられました。

 あまりの初物食い熱は物価高騰の原因にもなり、贅沢を戒める意味からも幕府は貞享3年(1686)にも解禁日を定めた「初物禁止令」を出しました。しかし、あまり効果はなかったようです。

おわりに

 これほど大騒ぎした初鰹も、天保期(1830~1844)になると、漁獲量が増えて値段も下がり、あれほどの熱狂ぶりが嘘のように静まってしまいました。


【主な参考文献】
  • 伊藤善資/編著『江戸の居酒屋』洋泉社/2017年
  • 竹内誠『春夏秋冬江戸っ子の知恵』小学館/2013年

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  この記事を書いた人
ichicokyt さん
Webライターの端っこに連なる者です。最初に興味を持ったのは書く事で、その対象が歴史でした。自然現象や動植物にも心惹かれますが、何と言っても人間の営みが一番興味深く思われます。

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