秀吉の号令一下、肥前名護屋城の築城。戦国武将オールスター集結の巨大陣城

 「唐入りじゃっ!」

 天下人となった豊臣秀吉の号令の元、大陸へ攻め入るための前線基地として築かれた肥前名護屋城。それは陣城(じんしろ。臨時の城のこと)と呼ぶにはあまりに豪壮華麗なものでした。

肥前名護屋の地とは

 陣城とは本来、戦のために作戦上臨時に建てられた城であり、規模も小さく、砦に毛の生えた程度のものとされてきました。ただ、実際には堂々とした曲輪や土塁・堀などが残っているものもあり、ある程度は気を入れて作られたようですが…。それにしても肥前名護屋城は立派すぎました。

 天正18年(1590)、北条氏を平らげ、天下人となった豊臣秀吉。次に狙いを定めた大陸「明」に出兵するための陣城建設地として、白羽の矢が立ったのが肥前名護屋(佐賀県唐津市)の地です。

 宣教師フロイスによると、秀吉は朝鮮へ渡るために便利な地を家臣に問い、「名護屋港」という良港の存在を知ったようです。そこは平戸から13里ほどで1000艙もの船が出入りができ、朝鮮への航路も安全ということで、まさに前線基地に持ってこいの土地でした。

 現在の佐賀県東松浦半島北端に位置する名護屋の地は、遠く朝鮮半島を北西に臨む玄界灘に突き出した波戸岬の丘陵地にあります。東西両側に名護屋浦と串浦の2つの入り江を備え、海上水運をフル利用できる好立地です。

名護屋の地マップ(出典:国土地理院地図。地名を追記)
名護屋の地マップ(出典:国土地理院地図。地名を追記)
串浦側上空からみた名護屋の地
串浦側上空からみた名護屋の地

 名護屋港は湾の入り口にある加部島が天然の波除けを果たす良港で、壱岐・対馬を経て朝鮮半島にも近く、これが名護屋城が築かれた最大の理由です。朝鮮半島への渡海の先陣を切った対馬の島主宗氏の軍は、午前8時に対馬大浦を兵船700艘で出港し、その日の午後2時過ぎには釜山に到着していますから距離の近さがわかりますね。

突貫工事の陣城とは言いながら

 天正19年(1591年)8月の秀吉は書状で、城普請を黒田長政・小西行長・加藤清正・寺沢広高の九州諸大名に、軍役の3分の1を免じる代わりに従事するよう指示しています。

 城の縄張り、すなわち敷地に縄を張って石垣・堀の位置など城の平面構造を決める事を父の黒田孝高が受け持ち、息子の長政は普請奉行として諸将に工事割り当てを行います。着工は天正19年10月10日、竣工は翌文禄元年3月と言うわずか5ヶ月の早業です。

 また、秀吉は同年9月に肥前国平戸藩の松浦鎮信(まつらしげのぶ)に、壱岐国御座所風本(かざもと)城の築城命令を下します。現在の長崎県壱岐郡ですが、何かの時には自分の住居用にするつもりでした。

 名護屋城はわずか5ヶ月の突貫工事だからやっつけ仕事だろうと言うとそうでもなく、城域17万平方mにも及ぶ立派な大城郭です。標高90mの波戸岬の丘陵を中心に、東西600m・南北360mに達する巨大な総石垣に囲まれ、当時としては大坂城に次ぐ広大なものです。

 五重の天守に鯱と金箔の瓦が燦然と輝き、10基を超える重層櫓を備え、茶室に能舞台まである伏見城や聚楽第にも負けない豪華さと規模を誇っています。本丸を中心に西に二の丸・東に三の丸が配され二の丸西側には弾正丸が、三の丸東側には東出丸が構えられました。北の下段には遊撃丸・水手曲輪を配し、さらにその横には上山里丸・下山里丸まで設けます。

名護屋城本丸跡
名護屋城本丸跡
名護屋城天守閣跡からの眺め
名護屋城天守閣跡からの眺め

 フロイスもやってきたようで、城の予定地を見て、

「その地は僻地であって人が住むには適しておらず、食糧だけではなく事業を遂行する全ての必需品が欠けていた。山が多く一方は沼地、残りは荒地だった」

などとマイナス評価をしています。

 5ヶ月で完成した早業のわけは、加工の終わった建築資材を現場に運んで来てすぐさま建物を組み立て始める現在で言うプレハブ工法が採られていたようで、その手際の良さにはフロイスも感心しています。しかしこの人は修道会本部から記録係を命じられたせいでしょうか、どこにでも顔を出す人ですね。

瞬く間に京をも凌ぐ街が

 天下様の号令の元豪壮な城が建てられた名護屋の地は、わずか数年の間でしたが京の都をも凌ぐ政治経済の中心地でありました。文禄元年(1592)秀吉は全国の大名に対し、「唐入り」の動員令を発します。

 名護屋城の周囲には諸将の陣屋120余りが築かれ、全国から兵を引き連れてやって来た大名を迎え入れます。その数は常時20万人を超える大人数で、海岸沿いは諸国の大名衆の陣屋で埋め尽くされ、野も山も空いた処も見えません。城下町には京・大坂・堺の商人や職人たちが一儲けしようとこぞって集まります。

 入り用の物を取り揃え、武具の修繕も引き受け、欲しいものは何でも手に入りと街は軍需景気に沸き立ちました。わずか数年の賑わいでしたが肥前名護屋は日本の政治経済の中心地でありました。

全国から馳せ参じた諸将、戦国オールスターズ

 天正19年(1591)12月、名護屋城築城と並行して秀吉も準備を進めます。唐入りの作戦指揮に専念するため、関白職を養子の秀次に譲り、自らは太閤を名乗ります。翌文禄元年(1592)正月、朝鮮出兵を号令し全国諸大名を名護屋城に集結させ、同年3月には出兵部隊の軍勢の陣立てを定めました。

 1番隊から9番隊プラス諸隊と水軍・奉行を組織します。

  • 1番隊は小西行長・宗義智らの軍勢1万8700で、先陣を受け持ちます。
  • 2番隊は加藤清正・鍋島直茂ら2万2800
  • 3番隊は黒田長政・大友義統(よしむね)らの1万1000
  • 4番隊は島津義弘を中心に九州の中小領主の混成部隊で1万4000
  • 5番隊は福島正則・蜂須賀家政・長宗我部元親ら四国勢の2万5000
  • 6番隊は小早川隆景・毛利秀包(ひでかね)・立花宗茂ら1万5700
  • 7番隊は中国の太守毛利輝元の1隊のみで3万
  • 8番隊は渡海軍の総大将宇喜多秀家が率いる1万
  • 9番隊は細川忠興・羽柴秀勝の1万1500
  • 番外の諸隊として中川秀政・宮部長煕(ながひろ)の1万2000

と、史上稀に見る大軍勢です。

 これに加えて九鬼嘉隆(よしたか)・藤堂高虎・脇坂安治・加藤嘉明らが率いる9200の水軍は、将兵や軍事物資を半島に運び込むとともに朝鮮沿岸部の攻撃を担当します。徳川家康・前田利家・伊達政宗・上杉景勝ら、東国・北陸地方の大名は第一次の渡海には加わって居ませんが、後詰として10万余りの兵とともに名護屋に在陣します。

おわりに

 結局、秀吉の死を以ってこの一大作戦は終結、あの豪壮な陣城も今では崩れた石垣を残すのみです。

名護屋城跡、天守台と遊撃丸
名護屋城跡、天守台と遊撃丸


【主な参考文献】
  • 藤木久志/編、伊藤正義/編「城破(わ)りの考古学」(吉川弘文館/2001年)
  • 服部英雄/編「史跡で読む日本の歴史 8アジアの中の日本」(吉川弘文館/2010年)

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  この記事を書いた人
ichicokyt さん
Webライターの端っこに連なる者です。最初に興味を持ったのは書く事で、その対象が歴史でした。自然現象や動植物にも心惹かれますが、何と言っても人間の営みが一番興味深く思われます。

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