伊達政宗と朝鮮出兵  政宗ら伊達勢の派手なパフォーマンスが ”伊達者” という言葉の由来に!?

 戦国時代、豊臣秀吉は北条氏を降伏させて、天下を平定しました。そして次なる矛先を明国に向け、朝鮮半島へと大軍を送り込みます(文禄の役、慶長の役)。

 朝鮮出兵に従軍した面々の中には、奥州の覇者で知られる伊達政宗の姿もありました。今回は朝鮮出兵の際に、政宗ら伊達勢が大いに注目されたことについてお伝えしたいと思います。

京都出発時に最も目立った伊達勢

割り当てよりも多い軍勢を率いた政宗

 秀吉の天下統一後に勃発した天正19年(1591)の葛西大崎一揆において、政宗自身が一揆を煽動していたことが露見。

 結果的に所領を没収され、新たに大崎・葛西の十二郡の58万石を治めることになった政宗は、居城をこれまでの米沢城から岩手沢城に移し、文禄元年(1592)の年を迎えました。前年には長子の伊達兵五郎(後の秀宗)が誕生しており、完全に心機一転して迎えた年越しです。

 これまで周辺大名と争ってきた政宗でしたが、秀吉の天下となった今、隣国に攻め込むことは許されません。次なる敵は秀吉が矛先を向けた海の向こうの明国です。そのため、1月早々に政宗は岩手沢城を出発しなければならなくなりました。

 このとき、政宗に指示された軍勢の割り当ては1500人または、500人だったと伝わっています。『記録抜書』によると、政宗への割り当ては500人だったが、3000人を率いたと記されています。

 小田原攻めでは遅参し、ギリギリセーフで秀吉への従属を許された政宗としては、必要以上に忠誠心をアピールする必要があったと考えられます。

 ちなみに四国や九州の大名は1万石につき600人動員、遠国の奥州も1万石につき200人動員が義務づけられていたようですね。

伊達者(だてもの、だてしゃ)の名前の由来?

 2月13日に入京した伊達勢は、3月17日に京都を出発し、肥前名護屋城を目指しました。大軍の第一番は前田利家、第二番は徳川家康、第三番は伊達政宗、第四番は佐竹義宣という順序です。

 このときの伊達勢の軍装のきらびやかさが都人を大いに驚かせています。詳細は『成実記』に記されており、紺地に金の日の丸の幟が30本、それを持つ足軽は具足の下に無量の襦袢、黒の具足には金の星印。さらに鉄砲100挺、弓50張、槍100本、それぞれの足軽は銀のし付の脇差し、朱鞘の太刀をはき、金のとんがり笠をかぶっていました。

 さらに騎上侍30騎は、黒幌に金の半月のだし、黄金装の太刀をはき、馬鎧は豹や虎、熊の皮に孔雀の尾をつける派手さです。しかも原田宗時、遠藤宗信のふたりは長さ一間半という2メートルを超える大きな太刀を背負っていました。これには見物に集まっていた都人も驚愕し、他の行列が通る際は静かでしたが、伊達勢が通る際は大歓声をあげています。

 このときより派手な振る舞いをすることを「伊達をする」、そしてそんな派手な振る舞いをする人を「伊達者」と呼ぶようになったという説があります。

 秀吉も派手さでは有名ですが、政宗もそれに劣らず派手好きだったということです。もしかすると秀吉に気に入ってもらいたいという気持ちからのこの軍装だったかもしれません。どちらにせよ伊達勢の軍装の派手さは後世に語り継がれるほどのインパクトがあったということです。

 ちなみに、後ろを進む佐竹氏は長く伊達氏と敵対していた間柄ですから、かなり苦々しく思っていたのではないでしょうか。おそらくどの部隊であっても伊達勢の後を進むのは嫌だったでしょう。

文禄の役での政宗の活躍は?

政宗も釜山に上陸していた

 伊達勢は予備軍でしたから、名護屋の本営で長く留まっていました。その間に朝鮮半島に渡った小西行長や加藤清正などの最前線では激しい交戦が続いています。

 およそ1年間は、基本的に滞陣しているだけですから何事もなく過ぎていきましたが、その中で6月に家康と利家の家臣が水汲みのことで喧嘩する事件が起きました。その際、政宗は家老に指示して仲裁にあたらせていますが、さらに鉄砲足軽300人に火をつけ、玉を込めた状態で利家の陣を包囲しています。特に軍事衝突することもなくこの事件は解決しているのですが、このときすでに政宗が家康を強く信頼していたことがよくわかります。

 余談にはなりますが、秀吉の死後、禁を破って、家康の六男である松平忠輝に政宗の長女である五郎八姫が嫁ぐのですが、名護屋滞陣期間は、その信頼関係を構築した時期でもあったのではないでしょうか。

 政宗に出動命令が下されたのは、翌文禄2年(1593)です。前線では平壌まで陥落させていた日本軍が、反撃を受けて釜山まで押し返され、苦戦を強いられていた時期にあたります。政宗は浅野長政父子と共に4月13日に釜山に上陸しました。

 伊達勢は上陸後、梁山、蔚山、金海、晋州と転戦していましたが、7月になると風土病が蔓延し、桑折政長や原田宗時がその病で命を落としています。風土病にかかった者の実に八割以上が亡くなりました。戦以上に、病気の方が恐ろしかったことでしょう。政宗が期待を寄せていた荒武者の宗時はまだ20代であり、その早すぎる死の報告を聞いて政宗は深く悲しんだそうです。

 政宗がこの風土病にかかることはなく、8月まで朝鮮半島で戦を続けました。そこで秀吉から帰還命令が下されています。政宗は9月1日に釜山を離れ、9月中旬には京都に戻りました。政宗は文禄の役に続く慶長の役の際には出陣していませんので、政宗の朝鮮出兵はここで終了となります。

朝鮮出兵後、秀吉から寵愛を受ける

 朝鮮出兵から戻った政宗は、秀吉から伏見に屋敷をあたえられ、文禄4年(1595)の夏頃まで上方での生活を満喫しました。

 しかも文禄3年(1594)2月の吉野の花見では、秀吉に参加を許され、秀吉と共に和歌を詠んでいます。『文禄三年吉野山御会御歌』には、公卿や歌人の和歌が多く記されていますが、秀吉の家臣の武将たちの和歌も数点あり、そこに名をつらねているのは、豊臣秀次、徳川家康、小早川秀秋、宇喜多秀家、前田利家の他に政宗だけです。これは破格の抜擢であり、秀吉にかなり気に入られたということを示しています。

 朝鮮出兵の際の伊達勢の軍勢の数、軍装のアピール、そして朝鮮半島での5ヶ月間の働きが秀吉の目にとまったのでしょう。秀吉から寵愛を受けたことで、豊臣一族以外では、家康と利家に次ぐ実力者として存在感を発揮していくのです。

おわりに

 朝鮮半島での伊達勢の活躍振りははっきりとは伝わっていませんが、政宗が5ヶ月間に及び、朝鮮半島での激戦を経験したのは確かです。そして、京都出陣に際し、かなりのインパクトを秀吉や都人に与えてもいます。

 派手好きな秀吉へ与えた影響力はかなり大きかったと考えられます。このあたりのアピールの巧さは、やはり政宗の知略の高さを物語っているのではないでしょうか。政宗には出世上手という言葉も当てはまります。

 さらにこの文禄の役、そして帰還してからの伏見での生活という中で、秀吉亡き後に天下を制する家康と太いパイプを構築していた点もさすが政宗といったところです。


【主な参考文献】
  • 小和田哲男『史伝 伊達政宗』(学研プラス、2000年)
  • 小林清治『人物叢書 伊達政宗』(吉川弘文館、1985年)

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  この記事を書いた人
ろひもと理穂 さん
歴史IFも含めて、歴史全般が大好き。 当サイトでもあらゆるテーマの記事を執筆。 「もしこれが起きなかったら」 「もしこういった采配をしていたら」「もしこの人が長生きしていたら」といつも想像し、 基本的に誰かに執着することなく、その人物の長所と短所を客観的に紹介したいと考えている。 Amazon ...

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