縄文土器や土偶から読み解く日本民族の大和魂とは?!

 もしかして、あなたは日本人としてのプライドを、ふと忘れてしまってはいませんか?!あなたが先祖代々に受け継いだ日本民族のDNAには、じつに驚異的で素晴らしく美しい記憶がギッシリと詰まっていて、それこそが《大和魂》とも呼ばれているものなのです。

 地球世界の秩序が大きく激変しようとして、ますます国際化が進みつつある現在にこそ、あなたが、よりいっそう素晴らしく幸福な人生を過ごし、ますます素晴らしい日本と世界の未来を切り拓いてゆくために、はるか縄文時代へとタイムスリップしてみましょう。

文 = 菅靖匡(カン ノブタダ)

世界最古の国の、世界最古の文明

 日本が世界最古の国であることは、国際的歴史学会でも実証・認知されていますでしょう。ところが世界最古の文明といえば、エジプト・メソポタミア・インダス・中国という4大文明だと教えられませんでしたか?!

 これは少なくとも20世紀以降の中国と日本だけで教えられているエセ知識なんです。何の学術的根拠もなく、国際的には通用しない言葉ですから、たとえば英語の弁論大会などで得意げに知ったかぶりすれば、「何のこっちゃ?!」と嘲笑われますから、ご用心。

 いま現在では、世界的に検証しても旧石器時代の遺跡の数が異常なほど日本列島に集中していることが分かっています。

 さらに、最先端の年代測定法によって縄文土器のカケラが世界最古級であることが確認され、ますます国際学会のスポットライトに照らされた縄文時代こそが、じつは世界最古の文明ではないのか?!と注目されているワケです。

縄文人をナメてはいけません!

 昭和20年(1945)8月15日に大東亜戦争は終戦となり、それ以降は約6年8ヶ月におよぶGHQの占領統治のなかで、恒久的な日本解体計画が推進されました。

 その解体プランの大いなる1つに公職追放、もう1つには教育改革があり、いま現在にも悪名高き日教組や教育委員会、そして日本学術会議が創設されました。

 公職追放によって政府はじめ官公庁の幹部連中はもとより、全国各地で指導的立場に立つ人々も共産主義者が大多数を占め、もちろん教育現場も一気に共産化してしまったのです。

 日本人科学者の聖域とも言っていい学術会議は、科学が文化国家の基礎である!という確信のもとにある学者集団ですから、日本史上に1万3千年ほども続いた縄文時代に対して良識ある考古学者・歴史学者の調査・研究は捗らなかったのだろうと、私は考えています。

 実際、およそ昭和~平成中期ころまでの縄文時代とは、マンモスなどを狩っていた原始時代と同様の狩猟・移動生活を送っていた時代だ! と決めつけられていました。ようやく朝鮮半島から稲作文化が入った弥生時代からが日本国につながる文明開化の始まり、などと私も学校で教えられ、読みあさる書籍にも、そのように記されていました。

 しかし、昭和後期ころからは水田の遺構が発見され、残っていた籾殻のDNA解析によって半島から伝わった品種とも違うことが証明されて、根本的な見直しが始まったのです。

 そうして、いま現在では先ほどお伝えしたとおり、国際的にも注目されているワケですね!

縄文土器と土偶に込められていた日本民族としての魂を見抜いた男

 さて、一言で文明と言っても最低2つの定義、すなわち ”物質文明” と ”精神文明” という世界があることは、ご存じのとおりです。

 まず私たち人間一個人の人生にとっても古来に、「三つ子の魂百まで」とか、「雀百まで踊り忘れず」などと言われていますように、人類(=人間の進化 → 文化・文明の進歩と発展)にとっては、むしろ精神性の充実こそが最優先というか、重要だとは思いませんか?

 逆にいえば、凶悪犯罪を犯した犯人については必ず、幼少期~事件を起こすまでの半生が調査され、テレビなどでも報道されますし、裁判では精神鑑定も行われますでしょう。 つまり、「どのような物心がついたのか?」 がその後の人生に良くも悪くも大いに影響をおよぼすということが、いま現在の精神科学的にも証明されているということです。

 したがって、文化国家の基礎であるという正しい科学が発祥・発展するためには、まず健全な思考力、すなわち良識ある高度な精神性が養われていなければならないだろうと、私は考えているのです。

 …が、終戦後の日本では、お金と地位や名誉のために科学者としての倫理観を捨ててしまった御用学者たちが、各学会を支配しているようにも見受けられます。近年のコロナ騒動にも出てくる有識者会議の正体って、いったい何なのでしょうか?

 ここで、あらためて日本民族が発祥して今日まで歩んだ歴史を、人間一個人の成長と人生に喩えてみましょう。

 旧石器~新石器時代を生きた方々を0歳児~2歳児と想定したなら、縄文人の方々は、いよいよ物心がつき始めた3歳児とも思っていいでしょう。そして、およそ1万3千年前後をかけてDNAにまで染み込んだ縄文人の記憶情報こそが、すなわち三つ子の魂となって、弥生~令和時代と成長しながら日本民族として生き抜いてくれたからこそ、いま現在を生きる私たちにも受け継がれているのだ!というワケです。

 では、日本民族の3歳児となった縄文人につき始めた物心は、どのようにして読み解かれたのでしょうか?

 そのキッカケは、終戦後に復員し、終戦後の日本に失望した芸術家・岡本太郎の魂の内で「縄文人のDNAが爆発した!」としか言いようのないものでした。昭和26年(1951)11月7日、たまたま立ち寄った東京国立博物館に新潟県出土として展示されていた火焔土器を見た瞬間、岡本さんは思わず唸ってしまったそうです。

昭和28年、42歳の岡本太郎氏。自宅アトリエにて撮影(出典:wikipedia)
昭和28年、42歳の岡本太郎氏。自宅アトリエにて撮影(出典:wikipedia)
新潟県出土の火焰型土器(縄文時代中期、出典:ColBase)
新潟県出土の火焰型土器(縄文時代中期、出典:ColBase)

 そして、岡本さんはこの時の感動を「縄文土器論 ──四次元との対話」と題した文章として、『みずゑ』という美術雑誌に寄稿したのです。

 大ざっぱに要点をまとめると、

  • 《近代日本の美術界はじめ、奈良時代の仏教美術に日本人にはそぐわない後味の悪さを感じている。さらに遡って古墳時代の埴輪文化に見受けられ、現代日本人にも通じる楽観的でイージーな形式主義の美感に絶望していた。》
  • 《縄文土器を見た瞬間には身体中が引っ掻きまわされ、何とも言えない快感が血管中をかけめぐり、モリモリ力があふれ、吹きおこるのを覚えた。》
  • 《たんに日本と民族に対してだけではなく、もっと根源的な、人間に対する感動と信頼感、親しみさえ、ひしひしと感じとる思いでした。》

ということを綴っています。

 この岡本太郎の縄文土器論は、当時の著名な文化人たちに衝撃をあたえ、たちまち縄文ファンにしたほどだったそうですが、日本学術会議を頂点とする考古学・歴史学会にはスルーされたかっこうで、およそ50年ほどは見向きもされなかったのだとか。

 そういえば一般庶民の間でも、大阪万博のシンボルとして創作された《太陽の塔》の奇妙さとか、「芸術は爆発だ!」と眼を剥く岡本さんの奇抜さばかりに気をとられ、歴史資料館などで展示された縄文土器に対しても、やはり同様の反応だったと記憶しています。

 ハート形土偶や遮光器土偶は宇宙人に違いない!などと騒がれるばかりで、その作者たる縄文人たちが土器や土偶に込めたはずの思いや美感を推察するような動きは、まったくといっていいほどに無かったのではないでしょうか。

群馬県東吾妻町郷原出土 ハート形土偶(出典:wikipedia)
群馬県東吾妻町郷原出土 ハート形土偶(出典:wikipedia)

土器や土偶に練り込まれた大和魂を読み解く!!

 ここから述べることは、私自身にも遺伝している日本民族の祖先(縄文人)たちのDNAの記憶、つまりはすべての日本人の方にも必ず遺伝しているDNA情報について、古代の日本人たちの声に耳をかたむけつつ、私なりに解釈し、読み解いた事どもです。

 まず揚げるのは、日本列島各地に点在する集落との交易や、大陸からやってくる異人種の渡来人たちとの交流によって培われた《来る者は拒まず、去る者は追わず》という和合の心です。これは、のちに聖徳太子が十七条憲法の冒頭で《和を以て貴し》、と簡潔かつ明解に記されましたが、つまりは《人間どうし、人種差別しない!》という記憶としてDNAに染み込んだのです。

 そんな縄文人たちが

無事に生き延びることが出来るか?!
明日はどっちだ?!

といった、狩猟・採集が日常の移動生活を過ごすうちには、自分たちの食料となる他の動植物たちに感謝するような思いが、おそらく自然と芽生え始めたことと思います。やがて動物を飼育、栗の木など果樹を栽培して定住生活するようになると、多少なりとも生活に余裕ができ始めたはず。そうなると、心にも少なからず余裕が保てたでしょう。

 実際、こうした生活の安定や心のゆとりは、土器や土偶にもハッキリと現れ始めます。やがて日本となる列島各地に点在する集落ごとのGDPレベルや地域性とか、そこに住み暮らす人々の気質や美意識の色合いまでが、それぞれ土器や土偶から察せられるのです。

 このことは、良識ある考古学者の方々が早くから発見し、各地域ごとに分類しておられます。

東北北部から北海道南西部にかけて出土の石製の人形(縄文時代前期、出典:ColBase)
東北北部から北海道南西部にかけて出土の石製の人形(縄文時代前期、出典:ColBase)
青森県つがる市森田町から出土の遮光器土偶(縄文時代晩期、出典:ColBase)
青森県つがる市森田町から出土の遮光器土偶(縄文時代晩期、出典:ColBase)

 縄文初期に焼かれた土器にも、さまざまなデザインがほどこされていますが、おそらくは煮炊き用の日用品として使い捨てられたものが大半ではなかったでしょうか。ところが定住生活を始めたころからは、あきらかに日用品ではない土器や、ただの手慰みで焼かれたものではない土偶など、すなわち芸術品としか思えないものが造られ始めます。

 その鋭く研ぎ澄まされた芸術家の感性をもって岡本太郎が、たまたま見かけた火焔土器に込められた縄文人芸術家の魂とは、狩猟・採集しながら生と死の狭間を流浪していた自らの祖先たちから受け継がれたに違いない! すなわちDNAの記憶だったのです。

 つまり、狩られたり採集されることで自分たち人間を生かしてくれた獲物に対する素直な信仰心から、さらに深く醸し出された大自然と生命そのものに対する感謝の叫びでした。

 ことに生命に対する神秘と感謝の心は、妊娠や出産をモチーフとして女性を象った土器や土偶のうちにも秘められています。このことは自然を神として崇拝する信仰心にもつながり、女性を敬い、子どもを宝として大切に育む心ともなりました。この記憶は、やがて天照大神という女神を最高神として奉る古代神道にもつながってゆく、まさに日本民族ならではの美徳の1つだと思われます。

 ちなみに岡本太郎は、縄文(縄目模様)を強い生命力の象徴として交尾する蛇になぞらえ、土器を生命の源である月にも重ねながら、つまり子宮の象徴だとも読み解いています。たとえば《月経》とか《月のもの》という言葉からも、月と女性の絆はお分かりでしょう。

 そういえば、昭和45年(1970)3月15日~9月13日まで、138日間にわたって大阪の吹田市で開催された日本万国博覧会・EXPO'70のテーマは《人類の進歩と調和》でしたね。

 そのシンボルとして岡本太郎が全身全霊を込めて製作した《太陽の塔》は、その内部が空洞となっていて《生命の樹》と名付けられた巨大なモニュメントがあったことをご存じですか?!その地下にも空洞があり、《地底の太陽(太古の太陽)人間の祈りや心の源を表す》とされた巨大なモニュメントが置かれていたのですが、いずれもEXPO'70終了後に撤去されてしまったのです。

太陽の塔(出典:wikipedia)
太陽の塔(出典:wikipedia)

 しかし、この太陽の塔こそは、岡本太郎が敬愛・心酔しきりの縄文人芸術家たちを《大いなる生命の母》と見立て、その内部や地下の中空を子宮とし、古代日本人が崇拝した太陽神・天照大神への感謝も融合させた上で、自身の《縄文土器論》、その集大成として構想・制作した作品ではないか? と、私は推察・推考しています。

 ともあれ、こうした縄文人はじめ古代日本人が培い、ついに日本民族の記憶としてDNAにまで染み込ませた精神性は、720年に編纂された『日本書紀』のなかに《八紘一宇》という表現で記されています。すなわち、世界中を1つの家として、人間すべてを家族として、お互いを尊重しながら共存共栄してゆこう!という思想であり、初代神武天皇から歴代天皇の大御心ともなっています。

最先端科学が解き明かした縄文人の正体とは?!

 最後に、物質としてのDNAの記憶情報を読み解いた最先端科学をご紹介しておきます。

 発掘された多数の遺骨から分析・算出した平均身長は、男性なら160cm弱、女性は150cm弱、がっしりとした骨太(ほねぶと)で、彫りの深い顔立ちが特徴なのだとか。まあ、これくらいのことは最先端科学ではなく昭和時代にも分かっていたことでしょう。

 およそ21世紀初頭までの国際学会において、「私たち現代日本人のルーツは?」といえば、ざっと現在の日本海が出来はじめたころから、やがて日本列島となる地域に住み暮らして狩猟や採集によって食べていた男女(=縄文人)と、稲作とともに大陸からやってきた近隣地域の男女たちが愛し合う(=交配する)ことで、現代日本人が生まれた!という説でした。

 しかし、遺骨のDNA解析の精度が向上するとともに、「もっと複雑なのでは?!」と考えられ始めたのです。

 そうした新発見は、なにも遺跡とか人骨の分析といった物質的なものだけに限りません。自然崇拝という信仰心を養いながら、現代においても優れた芸術作品と評価されるほどの多種多様な土器や土偶を創造していた高度な精神性を、心理学や脳科学によって読み解こうという調査・研究が、あらためて始まったのです。

 アメリカ東部標準時における2023年2月18日、アメリカの科学誌『iScience』オンライン版に発表・掲載された東京大学大学院・理学系研究所・理学部の渡部裕介特任助教と大橋順教授が連名の《縄文人と渡来人の混血史から日本列島人の地域的多様性の起源を探る》という研究論文によって、いま現在に生きる私たち日本人の祖先が何者であるかが解明されたのです。

 お2人は、コンピュータシミュレーションを活用し、現代日本人のゲノム(=遺伝情報の全体・総体)から、縄文人に由来する遺伝的変異(=縄文人由来変異)を検出する方法を開発しました。これを用いて現代日本人の地域的多様性が生じるに至った日本列島人の集団史を解明したのだそうです。その結果として現代日本人は、縄文人と大陸系東アジア人(=渡来人の混血)によって形成されたDNAを受け継いでいるのだそうです。

 さらに現代日本人は、縄文人の系統で特異的に生じた遺伝的変異(=縄文人由来変異)と名付けられたDNA記憶を保有しているそうです。また、日本人の遺伝情報のなかには、この縄文人由来変異が集積した《縄文人に由来するゲノム領域》と、縄文人由来変異が見られない《渡来人に由来するゲノム領域》という2つの記憶が刻まれているそうです。

 また、縄文時代の日本列島には、血糖値や中性脂肪を増大させることで狩猟採集に遺伝的に適応した縄文人が住み暮らしており、縄文時代の渡来人たちは病原性の細菌や寄生虫の感染にさらされやすかったということも推察・推考できるそうですから凄いでしょう。

おわりに

 縄文時代の土器と土偶に込められた縄文人たちの魂が、1万3千年という長い時の流れのうちにDNAの記憶として染みこみ、弥生時代以降の日本民族に遺伝情報として受け継がれ、飛鳥時代ころからは神話を通じて大和魂にまで昇華した様子を、私なりの解釈も交えつつ、岡本太郎の芸術的視点と最先端科学分析の結果をもとにお伝えしました。

 締めくくりとして、令和という元号の出典となった『万葉集』のうちに収録された和歌のなかで、私が好きな防人歌のうちにある詠み人知らずの一首をご紹介しましょう。

我が母の 袖もち撫でて我がからに 泣きし心を忘らえのかも
(私の袖を握り、泣きながら頭を撫でてくれた母の心を、ゆめ忘れられるものか ※意訳:菅 靖匡)

 こうした防人たちの大和魂は、いずれ大東亜戦争の大義となった《大東亜共栄圏》という構想にも繋がりました。

 ちなみに、大東亜戦争が侵略戦争だというのは、当時のアメリカが自業自得のジレンマに陥って、切羽詰まってついた大ウソです。まさに大東亜戦争とは、16世紀から続く白人国家の植民地支配と人種差別を終結させた戦いだったのですよ。

 このことは、アメリカ公文書館の公開資料を精査した国際的歴史学者・研究者方々によって証明されており、そもそもGHQのトップだったダグラス・マッカーサー自身が、1951年5月3日から開かれたアメリカ上院議会・軍事外交共同委員会の公聴会にて証言していることです。

 そろそろ目を覚ませ!という、遮光器土偶の声が聞こえませんか?! 私たち日本人の祖先・縄文人に恥じぬよう、ご自分のDNAに必ず刻まれている大和魂を思い出していただきたい! 私も日本民族の端くれとして、強く祈念しきりの近年です。


【主な参考文献】
  • 田中英道監修・Renaissance vol.7『「日本」とは何か 「日本人」とは何か」』(ダイレクト出版株式会社、2021年)
  • 大島直行『月と蛇と縄文人』(角川ソフィア文庫、2020年)
  • 瀬古確『東歌と防人歌 ―東国万葉の跡を訪ねて』(右文書院、2009年)

※この掲載記事に関して、誤字脱字等の修正依頼、ご指摘などがありましたらこちらよりご連絡をお願いいたします。

  この記事を書いた人
菅 靖匡 さん
2004年、第10回歴史群像大賞優秀賞を受賞し、 2005年に『小説 大谷吉継』でデビュー。 以後『小説 本多平八郎』『小説 織田有楽斎』(学研M文庫)と、 さらに2011年から『天保冷や酒侍』シリーズなど、 フィクションのエンタテイメントにも挑戦している。 2020年には『DEAR EI ...

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