戦国武将の心得とは?! 弱肉強食の戦国乱世を生きた戦国武将たちのリアルな武士道の本質
- 2023/10/10
そもそも、この原因を突き詰めれば、室町幕府の偉いさん方が、主君である足利将軍家の跡継ぎ問題で睨み合い、弓刀にかけて互いの武門の意地を張りとおしたことでしょう。
そうした武門の意地を子孫が引き継ぎながら、およそ100年ほどもつづく弱肉強食の世界で張りとおした戦国武将たちの本性とは何か?!しっかり見極めてみたいと思います。
群雄割拠の世界から一言
応仁の乱(1467~1477)によって幕を開けた戦国時代ですが、ざっと50年も過ぎれば弱者は滅び、あるいは強者の家臣となって生き延びては代々を重ねています。その当時の日本全国を見わたせば、群雄ランキングTOP50くらいには絞られてきて、乱世ながらも武力による人の世の秩序が、ある程度はでき始めていただろうと思うのです。
とはいえ、そのうちでTOP10にランキングされる武将でも、天下統一という大それたことなど、おそらく誰一人として夢にさえ見ていなかたったのではないでしょうか。それぞれの地方で一国一城の主になっても、隣国との攻防戦が精いっぱいだったはずで、留守番を任せた家臣が城を閉ざして籠城すれば、たちまち「万事休す!」ですからね。
それこそ、いつ終わるとも知れない戦国乱世の地上に、たまたま織田信長が生まれ落ちたのは、応仁の乱勃発から数えれば67年後でした。ときに、いずれ上杉謙信と名乗る男子は4歳、その天敵となる武田信玄は13歳です。秀吉なら受精卵ですらありませんし、もちろん家康などは影も形も無いころです。
つまり、私たちがドラマや映画でお馴染みの名だたる戦国武将たちの、お爺さんやお父さん方が擦った揉んだしている時代で、いよいよ戦国時代も中期から後期へと移ろうころですが、ついに戦国大名家ベスト30くらいまで定まってきた!と思ってもいいでしょう。
武門の意地と武士道のこと
序文にて私は、応仁の乱に至った根本原因は《武門の意地》だ!とお伝えしました。天下太平の江戸時代になりますと、「武士は食わねど高楊枝」などと皮肉られたように、武士というのは少なくとも鎌倉時代から見栄っ張りで負けず嫌いの意地っ張りな人たちのように思われます。室町幕府の偉いさん方が意見の相違で対立したとき、お互いに、まあまあで譲歩し合えばよかったのに、と想像しているワケです。
また、武士道と聞けば少なからずの現代人が、江戸時代の佐賀藩士だった山本常朝が綴った『葉隠』のなかの、《武士道と云ふは死ぬ事と見つけたり》という一文を思い出すかも知れません。朝な夕なに死んだ気になって事に臨めば、何事につけても心が自由になり、何事も上手く運ぶものだ、という意を込めた、いかにも天下太平の武士らしい一文です。
あるいは明治時代の思想家・教育者として有名な新渡戸稲造が記した『武士道』の書き出しで日本の象徴である桜花に重ねながら、日本固有の華だ!としたあたりから、サムライジャパンなどと、さも華々しくも勇ましいイメージを抱かれているのでは?!
どちらにしても、良いとか悪いとか間違っているなどと言っているのではありません。ただ、ついに戦国時代を生き抜いて、関ヶ原の戦いや大坂冬・夏の陣に臨んだ武将たちが、その魂に刻んだ武士道とは、まこと鮮血が噴き出すがごとく生々しいものであったのです。
《武者は犬ともいへ 畜生ともいへ 勝つことが本にて候》
(犬畜生と蔑まれて上等だ!武者の本懐とは、何がどうでも勝つ!この一事に尽きる。※意訳:菅 靖匡)
北陸は越前国で身を起こした朝倉貞景の重臣であり、ついに貞景を戦国大名にまで押し上げては、その子や孫の代にも宿老として補佐しつづけた朝倉宗滴(あさくら そうてき)の言葉です。
宗滴は、文明6年(1474)もしくは文明9年(1477)の生まれですから、いずれにしても応仁の乱がたけなわのころに生まれ、弱肉強食の戦国乱世を生き抜き、数え切れない戦場往来のうちに名将として天下に名を轟かせている、まこと生粋の戦国武将なのです。
信長が生まれたときには、すでに60代となっていましたが、朝倉家中でも、「実質上の朝倉当主は宗滴殿よのう」などと囁かれており、信長より1つ年上で生まれた貞景の孫である義景の後見人として、ますます血気盛んな古老でした。
朝倉家中の若武者たちの教育係として、自身の半生や戦場体験あれこれを語った言葉を、宗滴の家臣である萩原八郎右衛門尉宗俊が書き留めて『朝倉宗滴話記』と題した書物が伝わっていて、先にご紹介した言葉も、そのなかに記された言葉なのです。
尾張の大うつけ、その本性を見抜いた戦国武将たち
わずか2歳のころに実父から一城を与えられた信長は、いわゆる貴公子でありながらも、いま現在なら発達障害というレッテル貼りされたに違いない子どもでした。15歳で元服つまり成人式を終えても髷を結わず、長髪を後ろで縛り上げて茶筅髷と呼び、浴衣は片袖脱ぎ、膝を丸出しの半袴で、腰に瓢箪や火打袋などぶら下げては外出します。町なかで一目をはばかることなく柿や瓜にかぶりつき、腰袋から掴み出した餅をほおばり、子分よろしく従えた左右の仲間の肩に両腕を掛けてぶら下がりながら歩いたそうです。
やがて富田の正徳寺において、信長と美濃のマムシと恐れられる斎藤道三とが初顔合わせしたおり、斉藤家臣たちが、「噂にたがわぬ大うつけでしたなあ」と言うと、道三は「まこと無念ながら、いずれお前らは、あやつの門外に馬をつなぐだろう」と苦渋の顔つきで答えたといいます。道三は信長の本性を見抜いた戦国武将の1人でしょう。
もう1人は朝倉宗滴その人でして、その惚れ込みようも尋常ではありません。この当時には、日ごろから他国の情報を聞き集めるのも戦国武将の心得のうちで、古くから出入りを許された行商人たちや、旅の僧侶などを屋敷に招いて噂話を聞くのです。
情報収集に熱心な宗滴は、頻繁に旅人を招いては根掘り葉掘り耳を傾けていたようです。信長が幼少のころの突拍子もなく礼儀知らずな非常識ぶりには、カカッと笑いながら目を輝かせ、村々を巡ってケンカや相撲に明け暮れていると聞けば、フムフムと頷きました。
正徳寺における信長と道三の会見から約2年後の天文24年(1555)7月21日には、のちに上杉謙信と名乗る越後の長尾景虎の要請に応じた宗滴は、加賀一向一揆を討伐するために出陣しました。同月23日に加賀に攻め入り、南郷・津葉・千足の3城を1日で陥落させたあたりは、とても80歳ほどの老将とは思えないでしょう。
しかし、陣中にて9月を迎えたころ、とうとう宗滴は病に伏します。一族のうちから朝倉景隆に総大将を命じて朝倉軍を任せ、一乗谷へと帰還した宗滴は手厚い看病を受けましたが、同月8日に天寿を全うして世を去ったのでした。
まとめ
戦国乱世の日本にて、初めて武士道というものの本質を語った朝倉宗滴が、ついに臨終にて語り遺した言葉をお伝えして、今回の締めといたしましょう。言わずもながら織田上総介とは、この同年に21歳となった信長のことです。
宗滴の訃報を知ったとき、信玄と謙信は川中島を挟んで合戦中でしたが、どちらともなく和睦というかっこうで兵を退いては喪に服した・・・と伝わっています。
それほどの老将の最期の言葉を、あなたなら、どのように受け止められましょうか?!
【主な参考文献】
- 『図説・戦国武将118』(学研プラス、2001年)
- 『戦国合戦大全 上巻 下剋上の奔流と群雄の戦い』(学研プラス、1997年)
- 太田牛一『信長公記』(新人物往来社、1997年)
- 『戦国人名辞典』(新人物往来社、1987年)
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