「土岐頼遠」上皇へのありえない狼藉で刑死 有能な猛将の末路

上皇に矢を射る土岐頼遠(『絵本太平記』より。出典:国立国会図書館デジタルコレクション)
上皇に矢を射る土岐頼遠(『絵本太平記』より。出典:国立国会図書館デジタルコレクション)
 南北朝時代の武将・土岐頼遠(とき・よりとお、?~1342年)はバサラ大名の一人とされ、古い権威を否定する姿勢は光厳上皇に対する狼藉に象徴されています。上皇の牛車の前で下馬を強要されると、酔った勢いで牛車に矢を射かけますが、この乱行が自らの首を絞める大事件となります。

 とんでもない乱暴者ですが、本来は将軍・足利尊氏に信頼された有能な武将でした。取り返しのつかない結果を招いた事件と土岐頼遠の実像をみていきます。

「院か犬か」矢射かけ、上皇の牛車破壊

 事件発生は康永元年(1342)9月6日。土岐頼遠は二階堂行春とともに笠懸をした帰路でした。笠懸は馬を走らせながら的を射る軍事訓練ですが、スポーツであり、遊びの側面もあります。仲間と集まり、弓の腕を競った後はだいたい酒宴。千鳥足(騎乗ですが)での帰り道でした。

 光厳上皇の牛車に行き会い、上皇の従者から馬から降りるよう促され、二階堂行春は馬から飛び降りて道端にかしこまりますが、頼遠はあざ笑い、上皇に従っていた大納言・西園寺公重らと口論になります。

頼遠:「この洛中に頼遠に馬から降りろという者がいるとは知らなかった。そのように言うのはどんなバカ者だ。その連中に矢を浴びせてやれ」

公重:「院(上皇)の御幸に狼藉つかまつるのは何者ぞ」

頼遠:「何、院というのか、犬というのか。犬なら射ておけ」

 頼遠は「院」と「犬」をかけ、「犬なら犬追物の的だ」と牛車を矢で狙います。犬追物は犬を的にして馬上から狙う弓の訓練で、殺傷能力のない矢を使いますが、脅しには十分。頼遠配下の約30騎が牛車を取り囲んで従者らに乱暴。車輪を壊し、牛車を横倒しにしてしまいます。

足利直義が厳しく処断

 この事件に足利直義が驚愕。

直義:「この罪はどんな刑罰でも足らない。ただち、この連中を召し出し、車裂きにするか、死罪のうえ塩漬けにすべきだ」

 この剣幕に土岐頼遠らは領国に逃げ帰ります。足利直義は兵を出しても逮捕する姿勢を示し、二階堂行春は観念して上洛。出頭して事情を説明し、死罪に当たらないことだけは認められ、讃岐に流罪となります。

 頼遠は「死罪は避けられないなら」と、領国・美濃に立て籠もって謀反を起こすことまで考えますが、同意する一族もなく、京に戻ります。

 足利直義に信頼されている臨済宗の高僧・無窓疎石が頼遠の功績を挙げて助命嘆願しますが、直義は態度を緩めません。

直義:「ここで寛大な処置を下すと、悪い前例になる」

 康永元年(1342)12月2日、斬首。頼遠は40歳前後でした。

道を譲り合う武士と貴族の姿に嘲笑

 「院か犬か」という暴言はともかく、土岐頼遠の処刑は中院通冬(村上源氏)の日記『中院一品記』で確認できる史実です。室町幕府の政務を担う足利直義としては、北朝の皇族、貴族の支持を失うことはできず、厳重処罰しかなかったのです。

 なお、『太平記』は事件後、上皇の牛車を見てあわてて下馬する武士、土岐氏の一団を見て道を譲ろうとする貴族の姿を笑い者にしています。牛車から飛び降りた殿上人(上級貴族)が立烏帽子を落として頭髪が丸出しとなり、貴族としてはあり得ない恥かしい姿になります。そして、人々から嘲笑されます。

京の人々:「ひどいありさまだなぁ。路上での礼儀作法は決められているが、殿上人が武士と会ったら車から降り、髻(もとどり)をさらせとは書いてないのに」

青野原の戦いの奮戦、数多くの戦功

 土岐頼遠は本来、武勇に優れた武将でした。

 武名を高めたのは暦応元年(1338)1月の青野原の戦い。奥州を発し、破竹の勢いで進軍する北畠顕家の軍勢に対し、室町幕府の軍勢が美濃・青野原(岐阜県大垣市など)で激突。頼遠率いる美濃勢の奮戦ぶりがすさまじく、頼遠も顔面を切られて負傷しました。敗れはしたものの北畠軍を押しとどめたのです。

「1000騎が1騎になるまで引くな」

 『太平記』によると、青野原の戦いで足利勢は5隊に分けて、くじで出撃順を決め、土岐頼遠は桃井直常とともに5番隊の精鋭1千騎を率います。敵は主将・北畠顕家、その弟・春日顕信の奥州勢6万騎で、まさに敵の主力部隊との対戦。

 1千騎が一団となって敵中に突進し、300騎が討たれてしまいますが、残る700騎を再編成して春日顕信2万騎の中にまた突進。兵たちは「千騎が1騎になるまで引くな、引くな」と士気を鼓舞し、23騎になるまで戦い抜いた頼遠は長森城(岐阜県岐阜市)に撤退。最も頼りにしていた頼遠が行方不明と伝えられ、室町幕府は大いに慌てふためきました。

尊氏の厚い信頼 文化的素養も

 土岐頼遠は、建武3年(1336)3月、多々良浜の戦いや同年の京での新田義貞との戦い、暦応3年(1340)、美濃での義貞の弟・脇屋義助攻めなど多くの戦いに出陣。頼りになる精鋭部隊と評価されていたのです。

 無骨な武人のイメージがある頼遠ですが、文化的素養は高く、勅撰和歌集である『新千載和歌集』、『新拾遺和歌集』、『新後拾遺和歌集』に1首ずつ和歌が掲載されています。土岐一族は和歌に堪能な者を輩出しています。

土岐氏繁栄の基礎 美濃守護職を継ぐ

 土岐頼遠は通称「七郎」。土岐頼貞の七男とされ、頼貞死後、美濃守護を継ぎました。足利一門ではない土岐氏が東西交通の要所、美濃守護を任されたのは、武力、忠節ともに足利尊氏から評価されていた証しです。

 土岐氏は清和源氏・源頼光の子孫。正中元年(1324)の正中の変では、後醍醐天皇の倒幕計画に土岐頼時、土岐頼員、多治見国長と土岐一族の武将が参加しています。このうち、土岐頼時は「伯耆十郎」からの通称から、伯耆守・頼貞の十男、頼遠の弟と推測できますが、系図にない名です。

          源頼光
           ┃
         (数代略)
          ┃
          土岐頼貞
┏━━━┳━━━━━┫
周済房 頼遠    頼清
    ┃  ┏━━┫
    頼益 頼雄 頼康

※参考:土岐頼遠の略系図

 朝廷寄りの姿勢から鎌倉幕府に厚遇されていなかったようにみえますが、土岐頼員は六波羅探題の武将・斎藤利行の娘を妻にしています。北条氏との関係も浅くはありません。しかし、このラインから倒幕計画は発覚。土岐氏はかなり危険な状況になるはずでしたが、鎌倉幕府は滅び、かえって表舞台で活躍するチャンスをつかんだのです。

甥・土岐頼康 3カ国の守護に

 土岐頼遠死後、土岐氏を継いだのは甥の土岐頼康です。頼遠の兄・土岐頼清(頼貞六男)の子で、頼遠のような強烈なエピソードはなく、地味ですが、尊氏、義詮、義満と3代の将軍に仕えた実力者です。頼遠死後、美濃守護を継承して動揺する一族をまとめ、最終的には尾張、伊勢を加えた3カ国の守護となります。

 土岐頼康死後、土岐氏の力は分散しますが、戦国時代、斎藤道三の下剋上まで内紛を抱えながらも美濃を支配していました。支流からは明智光秀も輩出。光秀の桔梗の家紋こそ、土岐一族の証しです。その基礎は頼遠の武勇に加え、跡を継いだ土岐頼康が固めたといえます。

弟・土岐周済房 四條畷で戦死?

 『太平記』には土岐頼遠の弟の一人、土岐周済房(すさいぼう)が登場します。

 康永元年(1342)の頼遠狼藉事件では、いったん連座で死罪が決まりましたが、無関係ということがはっきりして逆転無罪。すぐに領国に戻りました。

 貞和4年(1348)の四條畷の戦いに参戦。楠木正行(正成の遺児)と死闘を繰り広げ、膝を切られて血まみれで撤退するところを高師直に「見苦しい」と咎められ、「ならば討ち死にして見せましょう」と敵中に突入。『太平記』ではここで戦死します。しかし、実際にこのとき戦死したのは頼遠の末弟・土岐頼明(土岐頼貞の十二男)です。

 土岐周済房は実際には死んでおらず、史実では、観応元年(1350)に弟2人(左衛門大夫入道、右衛門蔵人)とともに美濃で挙兵。南朝方に転じて敗れました。このときが本当の最期です。

おわりに

 土岐頼遠は典型的なバサラ大名とされ、『太平記』では、日ごろから風変りな振る舞いが目立ち、戦功におごって旧来の秩序をわきまえない人物であることが示唆されています。しかし、具体的なエピソードは上皇狼藉事件だ。それだけ強烈な事件でしたが、本質は有能でまじめで、足利尊氏の信頼厚く、要職を任された武将でした。


【主な参考文献】
  • 兵藤裕己校注『太平記』(岩波書店、2014~2016年)岩波文庫
  • 亀田俊和、杉山一弥編『南北朝武将列伝 北朝編』(戎光祥出版、2021年)

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  この記事を書いた人
水野 拓昌 さん
1965年生まれ。新聞社勤務を経て、ライターとして活動。「藤原秀郷 小説・平将門を討った最初の武士」(小学館スクウェア)、「小山殿の三兄弟 源平合戦、鎌倉政争を生き抜いた坂東武士」(ブイツーソリューション)などを出版。「栃木の武将『藤原秀郷』をヒーローにする会」のサイト「坂東武士図鑑」でコラムを連載 ...

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